主の降誕第7日目 12月31日(水)
アレルヤ アレルヤ みことばは人となり、わたしたちのうちにお住みになった。主を受け入れる人には神の子となる恵みが与えられた。アレルヤ、アレルヤ
一年の終りに 今年一年の恵みを思い起こし感謝をささげます。
そして 新しい年の希望と恵みを願います。神の良くしてくださったことを一つ一つ想い起こす・・・「あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。」(詩篇77:13)
集会祈願:
永遠の父よ、あなたは人となられた御子を通して、神に向かって歩む人のまことの姿を示してくださいました。救い主キリストのいのちに、すべての人があずかることができますように。聖霊の交わりの中で・・・
第一朗読 使徒ヨハネの手紙 1ヨハネ2・18-21
あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。・・・
福 音 ヨハネの福音 1章1-18節
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ある古代の教父は、「人間が神となるために神は人となられた・・・」と断言した。実際、リオンのエイレナイオスは、「神の栄光、それは生きている人間」と言ったことで有名な教父だが、同じような意味のことを言っている。「救い主であるみことばが、見失われた人間と同じ状態になられました。そうして、ご自分の方から、人間とご自分とのコミュニオン(交わり)を実現し、人間の救いを成し遂げられたのです。さて見失われた人間は肉と血を持っていました。それは神が地上の泥土を取って人を形づくられたからです。それゆえ主もまた、この人間のために肉と血をもたれました。こうして、主の到来によって神のご計画が実現したのです。みことばは、ご自分で何か新しい業を始めるのではなく、はじめに御父によって企てられた業を繰り返し行い、見失われた人を捜し出すために、そうなさったのです。」(「着てください、沈むことのない光ー初期キリスト者のことば」(テゼ共同体編、打樋 啓史訳、44ページ引用)と・・・
神に向かって歩むまことの人の姿・・・ イエスにおいて私たちはまことの人の姿を見ることができます。イエスはペルソナとして神の子であり、神性と人性をもっておられます。そして、二つの本性だけでなく二つの意思があることを忘れてはならない。(第三コンスタンチノープルで宣言680~681AD )。イエスにおいて人間としての意思は神の意志に従順であり、自由を持って一致していると考えられる。人間は、父の意志に最後まで従順であったイエスが成し遂げた贖いの結果として、罪のゆるしを伴う聖霊が注がれ、神の子となる神性にあずかることができるのです。A・ドモンティ神父さんの「聖霊と共に一年の歩み」(発行レデンプトール会)という本で、この神秘の黙想を勧めておられます。「人は人間としての命のほかに、神ご自身の命を受け、神の命を生き、神の家族に入り、神から生まれる(1ヨハネ4・7)。聖霊はこの神の命を授けることによって人に神の子の品位に高めてくださるのです。」
パウロの年、今年いただいた恵みを感謝します。「私たちは今後だれをも、肉にしたがって知ることはしません。私たちが肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ることはしません。」(Ⅱコリント5・16)パウロの洞察は鋭い。宗教者の自負心を打ち砕く。自己中心的な罪によって歪んだ行いが他者と競争したり、自己保身・自己欺瞞・自己憐憫に道が開かれ、隔ての壁がそびえたつようになる。・・・あれもこれも思い起こされる。詩篇のように、神の業を口ずさんで数えることはできないけれども・・・ キリストの赦しのことばをひとつひとつ思い起こし、罪深いわたしの全存在をあがなってくださる主に心を向けて主をあがめる。主よ、こんな私ですがどうか来年も一緒にいてください。わたしの悪と罪をゆるし、ご自分のしもべとしてお使いください。わたしが来るべき年もあなたの聖なる息吹により、力をふるう悪と戦い、孤独の闇を全力で駆け抜けて自分にとどまることのないように導いてください。あなたの友となれますように・・・ マラナタ、主イエスよ!
一年の終りに 今年一年の恵みを思い起こし感謝をささげます。
そして 新しい年の希望と恵みを願います。神の良くしてくださったことを一つ一つ想い起こす・・・「あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。」(詩篇77:13)
集会祈願:
永遠の父よ、あなたは人となられた御子を通して、神に向かって歩む人のまことの姿を示してくださいました。救い主キリストのいのちに、すべての人があずかることができますように。聖霊の交わりの中で・・・
第一朗読 使徒ヨハネの手紙 1ヨハネ2・18-21
あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。・・・
福 音 ヨハネの福音 1章1-18節
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ある古代の教父は、「人間が神となるために神は人となられた・・・」と断言した。実際、リオンのエイレナイオスは、「神の栄光、それは生きている人間」と言ったことで有名な教父だが、同じような意味のことを言っている。「救い主であるみことばが、見失われた人間と同じ状態になられました。そうして、ご自分の方から、人間とご自分とのコミュニオン(交わり)を実現し、人間の救いを成し遂げられたのです。さて見失われた人間は肉と血を持っていました。それは神が地上の泥土を取って人を形づくられたからです。それゆえ主もまた、この人間のために肉と血をもたれました。こうして、主の到来によって神のご計画が実現したのです。みことばは、ご自分で何か新しい業を始めるのではなく、はじめに御父によって企てられた業を繰り返し行い、見失われた人を捜し出すために、そうなさったのです。」(「着てください、沈むことのない光ー初期キリスト者のことば」(テゼ共同体編、打樋 啓史訳、44ページ引用)と・・・
神に向かって歩むまことの人の姿・・・ イエスにおいて私たちはまことの人の姿を見ることができます。イエスはペルソナとして神の子であり、神性と人性をもっておられます。そして、二つの本性だけでなく二つの意思があることを忘れてはならない。(第三コンスタンチノープルで宣言680~681AD )。イエスにおいて人間としての意思は神の意志に従順であり、自由を持って一致していると考えられる。人間は、父の意志に最後まで従順であったイエスが成し遂げた贖いの結果として、罪のゆるしを伴う聖霊が注がれ、神の子となる神性にあずかることができるのです。A・ドモンティ神父さんの「聖霊と共に一年の歩み」(発行レデンプトール会)という本で、この神秘の黙想を勧めておられます。「人は人間としての命のほかに、神ご自身の命を受け、神の命を生き、神の家族に入り、神から生まれる(1ヨハネ4・7)。聖霊はこの神の命を授けることによって人に神の子の品位に高めてくださるのです。」
パウロの年、今年いただいた恵みを感謝します。「私たちは今後だれをも、肉にしたがって知ることはしません。私たちが肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ることはしません。」(Ⅱコリント5・16)パウロの洞察は鋭い。宗教者の自負心を打ち砕く。自己中心的な罪によって歪んだ行いが他者と競争したり、自己保身・自己欺瞞・自己憐憫に道が開かれ、隔ての壁がそびえたつようになる。・・・あれもこれも思い起こされる。詩篇のように、神の業を口ずさんで数えることはできないけれども・・・ キリストの赦しのことばをひとつひとつ思い起こし、罪深いわたしの全存在をあがなってくださる主に心を向けて主をあがめる。主よ、こんな私ですがどうか来年も一緒にいてください。わたしの悪と罪をゆるし、ご自分のしもべとしてお使いください。わたしが来るべき年もあなたの聖なる息吹により、力をふるう悪と戦い、孤独の闇を全力で駆け抜けて自分にとどまることのないように導いてください。あなたの友となれますように・・・ マラナタ、主イエスよ!