主の公現 (1月4日)
見よ、すべてを支配する主が来られる。王国と権能と主権は、そのみ手のうちにある。(マラキ 3章1節、歴代誌上29章12節)
集会祈願 すべての民の光である父よ、あなたはこの日、星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。信仰の光によって歩む私たちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。聖霊の交わりの中で・・・
第一朗読 イザヤ 60章1~6節
答 唱 詩篇72
第二朗読 エフェソ3章2節 3b、5~6節
福 音 マタイ 2章1~12節
奉納祈願
主イエス・キリストご自身をあらわすこの供えものによって、いのちの糧をうけることができますように・・・
集会祈願 すべての民の光である父よ、あなたはこの日、星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。信仰の光によって歩む私たちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。聖霊の交わりの中で・・・
第一朗読 イザヤ 60章1~6節
答 唱 詩篇72
第二朗読 エフェソ3章2節 3b、5~6節
福 音 マタイ 2章1~12節
奉納祈願
主イエス・キリストご自身をあらわすこの供えものによって、いのちの糧をうけることができますように・・・
説教ポイント:
公現は、現れ、啓示という意味をもつギリシャ語の「エフィファニ」(神の顕現)から派生した言葉です。三博士がみ子イエスを礼拝しにきたことに、今日の集会祈願では重ねて出来事の意味を簡潔に言い表しています。
星の導き、諸国民の光、み子イエス・・・神のみ顔を仰ぎみる日まで・・・東方の三博士、天使たち、古代の神秘の世界へ私たちを誘う。ハンス・ウルス・フォン・バルタザール(スイスの神学者・枢機卿)は、「神秘に近づく道が容易になるように説明してもよいが、神秘そのものの目減りを許してはならない。・・・目減りを避けるためには、『祈りの規範は、信仰の規範である』という、かの古来の公理を思い出そう。たとえばミサの奉献文、教会が公式祈願として用いる表現形式は、いつも神秘全体のあらゆる側面を考慮している。このような祈りを教会が唱え、理解しているように祈る者、それらを非神話化すべきだと思わずに祈る者は、あのとらがたき全体を前にしていると安んじることができる」(「捕えがたきもの頼る」神学ダイジェストp30)と待降節・降誕節のシンボルには失ってはならないキリスト教の神秘のエッセンスが詰まっている。
ちょうど「神のことば」テーマとするのシノドス(世界司教代表者会議)の最終メッセージにおいてこの諸国民の光となる啓示について述べられています。教皇様は、4段階の霊的な道をお示しになっている。われらの教皇は理論的信仰の代表で、正しい信仰と実践を現代の教会にカテケーシス(信仰教育)を心がけておられる。「信仰をもって神を仰ぐわたしたちは、正統な理論に従って信仰の実践を方向づけなければならない。」(フォン・バルタザール前掲書)そうでなければあの捕えがたき神秘の光は古代のおとぎ話へと回帰してしまう。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/synodus/synodus12th/message.htm
1 神の声 - 啓示
2 みことばのみ顔 - イエス・キリスト
3 みことばの家 -教会
彼らは (1)使徒の教え (2)パンを裂くこと
(3)祈り (4)兄弟の交わり(コイノニア)
4 みことばへの道 - 宣教 です。
新年から みことばの神秘を祝っていますが、元旦は「神の母」(エフェソ公会議431年)、二日目は、聖バジリオと聖グレゴリオの教え、アレイオス派の異端、イエスを被造物と考えることに対する、神から生まれ、御父と同一本質の神であることを宣言するニケア公会議を記念すること、そして第三日目は、イエスのみ名の記念日を祝いました。そして今日の公現の日です。キリスト教の神秘が凝縮されています。イエスのみ名の信心は15世紀にシエナのベルナルディノによって全教会に広まりました。彼はフランシスコ会員で総長に選ばれた時は、会員は300名だったのが、彼の臨終のときには4000名に増加していました。イエスのみ名の信心によって神秘的な体験を深めたことが背景にあるのではと思います。イエスは主といっても、主のことは、それぞれの神の像で見てしまうので、ほんとうには神を知らないこともありうるのです。しかし主はイエスであるというと、述語は主語を限定して説明するので、福音に言いあらわされたイエスのことばと行いが<主>の意味を説明します。そこにあわれみといつくしみの主、ご自身の命で私たちの命をあがなわれた神の像が語られているのです。イエスのみ名は、<主>であり<神>であることを告白することなので、その栄光は祈る人にあらわされるのです。。。イエスの祈りは、東方典礼、ロシア教会の無名の巡礼者の本の中でよく説明されています。「神の子、イエス・キリスト・罪人のわたしをあわれんでください。」と呼吸に合わせて祈る祈り方です。
とにかく、みことばに命、神の啓示があります。大阪教区の新年のメッセージで、池長大司教様は、みことばにとどまることが、新生計画、そして昨年から始めた養成基本計画の実施には不可欠のことであると述べられています。
わたしたちの小教区でも、この点を深めて生きること みことばが人となった神秘を生きる力を得たいと思います。
公現は、現れ、啓示という意味をもつギリシャ語の「エフィファニ」(神の顕現)から派生した言葉です。三博士がみ子イエスを礼拝しにきたことに、今日の集会祈願では重ねて出来事の意味を簡潔に言い表しています。
星の導き、諸国民の光、み子イエス・・・神のみ顔を仰ぎみる日まで・・・東方の三博士、天使たち、古代の神秘の世界へ私たちを誘う。ハンス・ウルス・フォン・バルタザール(スイスの神学者・枢機卿)は、「神秘に近づく道が容易になるように説明してもよいが、神秘そのものの目減りを許してはならない。・・・目減りを避けるためには、『祈りの規範は、信仰の規範である』という、かの古来の公理を思い出そう。たとえばミサの奉献文、教会が公式祈願として用いる表現形式は、いつも神秘全体のあらゆる側面を考慮している。このような祈りを教会が唱え、理解しているように祈る者、それらを非神話化すべきだと思わずに祈る者は、あのとらがたき全体を前にしていると安んじることができる」(「捕えがたきもの頼る」神学ダイジェストp30)と待降節・降誕節のシンボルには失ってはならないキリスト教の神秘のエッセンスが詰まっている。
ちょうど「神のことば」テーマとするのシノドス(世界司教代表者会議)の最終メッセージにおいてこの諸国民の光となる啓示について述べられています。教皇様は、4段階の霊的な道をお示しになっている。われらの教皇は理論的信仰の代表で、正しい信仰と実践を現代の教会にカテケーシス(信仰教育)を心がけておられる。「信仰をもって神を仰ぐわたしたちは、正統な理論に従って信仰の実践を方向づけなければならない。」(フォン・バルタザール前掲書)そうでなければあの捕えがたき神秘の光は古代のおとぎ話へと回帰してしまう。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/pontifical/synodus/synodus12th/message.htm
1 神の声 - 啓示
2 みことばのみ顔 - イエス・キリスト
3 みことばの家 -教会
彼らは (1)使徒の教え (2)パンを裂くこと
(3)祈り (4)兄弟の交わり(コイノニア)
4 みことばへの道 - 宣教 です。
新年から みことばの神秘を祝っていますが、元旦は「神の母」(エフェソ公会議431年)、二日目は、聖バジリオと聖グレゴリオの教え、アレイオス派の異端、イエスを被造物と考えることに対する、神から生まれ、御父と同一本質の神であることを宣言するニケア公会議を記念すること、そして第三日目は、イエスのみ名の記念日を祝いました。そして今日の公現の日です。キリスト教の神秘が凝縮されています。イエスのみ名の信心は15世紀にシエナのベルナルディノによって全教会に広まりました。彼はフランシスコ会員で総長に選ばれた時は、会員は300名だったのが、彼の臨終のときには4000名に増加していました。イエスのみ名の信心によって神秘的な体験を深めたことが背景にあるのではと思います。イエスは主といっても、主のことは、それぞれの神の像で見てしまうので、ほんとうには神を知らないこともありうるのです。しかし主はイエスであるというと、述語は主語を限定して説明するので、福音に言いあらわされたイエスのことばと行いが<主>の意味を説明します。そこにあわれみといつくしみの主、ご自身の命で私たちの命をあがなわれた神の像が語られているのです。イエスのみ名は、<主>であり<神>であることを告白することなので、その栄光は祈る人にあらわされるのです。。。イエスの祈りは、東方典礼、ロシア教会の無名の巡礼者の本の中でよく説明されています。「神の子、イエス・キリスト・罪人のわたしをあわれんでください。」と呼吸に合わせて祈る祈り方です。
とにかく、みことばに命、神の啓示があります。大阪教区の新年のメッセージで、池長大司教様は、みことばにとどまることが、新生計画、そして昨年から始めた養成基本計画の実施には不可欠のことであると述べられています。
わたしたちの小教区でも、この点を深めて生きること みことばが人となった神秘を生きる力を得たいと思います。