マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 1月10日 主の公現後の土曜日

神はご自分の子を、女から生まれるものとしてお遣わしになった。(ガラテヤ4章4~5節)

 集会祈願 永遠の父よ、あなたは、ひとり子の誕生によってわたしたちを新しい人としてくださいます。キリストと結ばれたわたしたちが、神の子どもとして生きることができるように。聖霊の交わりの中で・・・

第一朗読 使徒ヨハネの手紙 (1ヨハネ5章14~21節)
 何事でも神のみ心に叶うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。・・・

答 唱  詩篇149 
     シオンよ

福 音  ヨハネ 3章 22節~30節
 花婿の介添え人は、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。。。
 わたしは喜びで満たされている。。。
 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。



奉納 信じる者の喜びである神よ この供え物を受け入れてください。わたしたちがあなたにふさわしい礼拝をささげ、とうとい秘跡にあずかって一つに結ばれますように・・・

教会の祈り:朝 
知恵は、永遠の輝きであり、神の働きを映す曇りのない鏡であり、
神のいつくしみのかたどりである。
知恵は一つであって、すべてのことができ、自分のうちにとどまってすべてを新しくする。 世々にわたって清い心に伝えられ、その人を神の友とし、預言者とする。(知恵 7:26-27)
黙想のポイント:
 ヨハネの使命は、イエスを指し示すこと、そして唯一の望みは、イエスが知られ、イエスが栄え、受け入れられるように自分の姿を消すのです。司祭の生き方もそのような生き方です。イエスが知られるように自分を無とするのです。それは、「老兵は消えていくのみ」といったマッカーサ元帥の心情ではなく、いつも花婿の声を聞いて喜ぶ境涯なのです。出会った人たちが霊に満たされ喜びにあふれること、生きる力を回復して他者のための人になること、このようなことがたびたびあると言えませんが、司祭もそんな人たちが現れることを期待していますし、そうなれば、司祭の冥利に尽きます。司祭召命はそうでなくては増えません。

「死にいたる罪」 使徒ヨハネの手紙 1ヨハネ5章16節
 「その人のために神に祈りなさい。神はその人に命をお与えになります。・・・死にいたる罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。」

 一般的に言って、この罪は、御子イエスの十字架の贖いによって人間の罪は無条件で赦されたことを信じられずに神のもとから立ち去ることです。昨日のことばでは、10節「神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため神を偽り者にしてしまっています。」キリストを信じない人はすべてそうなのかというとそうではなく、イエスを知って、なおかつ、そうする人です。おそらくユダのことを考えているかもしれません。財布を預かっていたユダは、イエスを奴隷の値段で売り渡し、お金を手にして、師を裏切ることになったのですが、イエスがまさか死ぬとは考えていなかったのではないか?そうでなければ自殺するとは考えられません。彼には彼の浅はかな計略があり、自分の描いたシナリオをイエスに演じさせようとしたのでしょう。見ても見ず、聞いても聞かないかたくなな心・・・ユダはイエスが神の国の政治的な解放者となることを夢見ていたからです。


 司牧のなかでは、病気の方は、何かにとらわれていて神から見捨てられている、罪の赦しをうけてもうけても罪が残っているように感じて、死にいたる罪ではないかどうかと問い合わせる方が何度もありますが、十字架のイエスを信じることに心が向かない、自分の罪にだけ目をむけてしまう。 これは病的なものですが、このような人は死にいたる罪を犯しているわけではないので、必ず救われるのです。まさに祈りを必要としている人たちです。

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