信徒奉仕職講座 配布資料について・・・
「教会の秘跡としてのミサ」(アドルフォ・ニコラス神父)
主日のミサを考えるための資料として配布される教区標準コースの資料です。ニコラス神父(現イエズス会総長)は、1993年の上智大学夏期神学講座で講義されました。これは、夏期講習の時の講義録を収録した「教会その本質と課題に学ぶ」(百瀬文晃編 サンパウロ社発行)の中の一つの記事です。
わたしたちの聖餐式(ミサ)の祝い方の問題点
神学者パゴラによる指摘
(1)礼拝への逃避
(2)祭壇の秘跡と隣人愛の秘跡との分離
(3)精神安定剤として利用
この背景には、神学的な理解に問題がある。
アンリ・ド・リュバック(「神秘体」、「教会に関する考察」)による現代のミサについての偏った理解を歴史的に展開、ニコラス神父は、大切な点をとりだして解説しています。
(1)神学的な根
・古代教会の伝統
古代の教会では、「キリストの体」あるいは「一つのパン」という表現は、いつも教会のことを指していました。
・中世における偏向
9世紀から12世紀にかけて、「キリストの体」という概念も考え方、ものの見方も変わりました。・・・聖体が「キリストの体」であることを極端に強調するあまり、シンボリックな感覚を捨てて、現実をただ物理的にとらえようとしがちでした。「キリストの体の秘跡」と呼ばれず「キリストの体」と呼ばれ、「神秘」という言葉も使われなくなりました。
・第二バチカン公会議
聖餐を教会の秘跡として再認識し、教会を真の「キリストの体」として強調しました。キリストの現存はただ聖体においてだけでなく、共同体の中に広く理解されるようになりました。感謝の祭儀は共同体の祝いとして、教会の中心に復権したのです。
(2)新約聖書における聖餐
・ 新約聖書のなかで キリストの体の神秘はどのように描かれているか?
三つの要素
1 イエスの生涯と死と復活 (奉仕の生き方)
2 教会
3 聖餐
(3)教会の秘跡としての聖餐
・教会がミサを祝うとき、そこでキリストご自身が自ら神秘を祝います。そして教会の毎日の生活、信仰と奉仕はキリストがささげるミサとなります。・・・(ロマ12・1)典礼よりも先に、生活そのものがいけにえです。マザーテレサも同じように、朝のミサと一日の奉献とは一つだ、と言っています。教会の日々の生活は、わたしたちの永遠のミサです。・・・
・聖餐は、それを祝う共同体を変え、その新しい生き方、貧しい人々や世の中で見捨てられている人々へのかかわりを通して、社会全体に影響を与えるものです。
・ミサは福音宣教の場 ・・・現代の都市が無関心と利己主義の学校となっているのに対して、ミサは兄弟姉妹への心遣いの学校である(女性神学者マーガレット・オブライエン)
・ミサは、真に必要なもの、生活に本質的なものを教えます。
(4)実践的な示唆
日曜日のミサのあり方
イブ・コンガール「ミサが信徒の日常の問題を取り上げないかぎり、いつになっても社会に影響を及ぼすことはできません。・・・現実のわたしたちは、さまざまな問題をかかえています。思い煩い、苦しみ、孤独などをミサの中で表現しなければなりません。
その問題を抱えた共同体に、
みことばがどのような語りかけをするのか
キリストの記念は何を変えるのか
キリストがせっかくわたしたちに出会いたく思っておられるのに、わたしたちのほうは本当のことを言わないで、ただありきたりのことをお話しすることになるでしょう。・・・人が苦しんでいても悲しんでいても、同じ歌、同じ祈りを繰り返すことになることでしょう。
みことばをわたしたちの求めと問いかけの答えとして聴くべきです。
世界への派遣
聖餐は、個人の信心の場だけではありません。それはキリストの体の秘跡であり、すなわち教会の体の秘跡です。教会の自己表現、教会の生きる場です。・・・教会が聖餐を祝います。自らの心を賭けて、自らの問題も悩みも賭けて、そのとき逆に聖餐は教会を造ります。そこから答えが与えられ、そこから新しい歩み、現実への対応、自発性が生まれます。
主日のミサを考えるための資料として配布される教区標準コースの資料です。ニコラス神父(現イエズス会総長)は、1993年の上智大学夏期神学講座で講義されました。これは、夏期講習の時の講義録を収録した「教会その本質と課題に学ぶ」(百瀬文晃編 サンパウロ社発行)の中の一つの記事です。
わたしたちの聖餐式(ミサ)の祝い方の問題点
神学者パゴラによる指摘
(1)礼拝への逃避
(2)祭壇の秘跡と隣人愛の秘跡との分離
(3)精神安定剤として利用
この背景には、神学的な理解に問題がある。
アンリ・ド・リュバック(「神秘体」、「教会に関する考察」)による現代のミサについての偏った理解を歴史的に展開、ニコラス神父は、大切な点をとりだして解説しています。
(1)神学的な根
・古代教会の伝統
古代の教会では、「キリストの体」あるいは「一つのパン」という表現は、いつも教会のことを指していました。
・中世における偏向
9世紀から12世紀にかけて、「キリストの体」という概念も考え方、ものの見方も変わりました。・・・聖体が「キリストの体」であることを極端に強調するあまり、シンボリックな感覚を捨てて、現実をただ物理的にとらえようとしがちでした。「キリストの体の秘跡」と呼ばれず「キリストの体」と呼ばれ、「神秘」という言葉も使われなくなりました。
・第二バチカン公会議
聖餐を教会の秘跡として再認識し、教会を真の「キリストの体」として強調しました。キリストの現存はただ聖体においてだけでなく、共同体の中に広く理解されるようになりました。感謝の祭儀は共同体の祝いとして、教会の中心に復権したのです。
(2)新約聖書における聖餐
・ 新約聖書のなかで キリストの体の神秘はどのように描かれているか?
三つの要素
1 イエスの生涯と死と復活 (奉仕の生き方)
2 教会
3 聖餐
(3)教会の秘跡としての聖餐
・教会がミサを祝うとき、そこでキリストご自身が自ら神秘を祝います。そして教会の毎日の生活、信仰と奉仕はキリストがささげるミサとなります。・・・(ロマ12・1)典礼よりも先に、生活そのものがいけにえです。マザーテレサも同じように、朝のミサと一日の奉献とは一つだ、と言っています。教会の日々の生活は、わたしたちの永遠のミサです。・・・
・聖餐は、それを祝う共同体を変え、その新しい生き方、貧しい人々や世の中で見捨てられている人々へのかかわりを通して、社会全体に影響を与えるものです。
・ミサは福音宣教の場 ・・・現代の都市が無関心と利己主義の学校となっているのに対して、ミサは兄弟姉妹への心遣いの学校である(女性神学者マーガレット・オブライエン)
・ミサは、真に必要なもの、生活に本質的なものを教えます。
(4)実践的な示唆
日曜日のミサのあり方
イブ・コンガール「ミサが信徒の日常の問題を取り上げないかぎり、いつになっても社会に影響を及ぼすことはできません。・・・現実のわたしたちは、さまざまな問題をかかえています。思い煩い、苦しみ、孤独などをミサの中で表現しなければなりません。
その問題を抱えた共同体に、
みことばがどのような語りかけをするのか
キリストの記念は何を変えるのか
キリストがせっかくわたしたちに出会いたく思っておられるのに、わたしたちのほうは本当のことを言わないで、ただありきたりのことをお話しすることになるでしょう。・・・人が苦しんでいても悲しんでいても、同じ歌、同じ祈りを繰り返すことになることでしょう。
みことばをわたしたちの求めと問いかけの答えとして聴くべきです。
世界への派遣
聖餐は、個人の信心の場だけではありません。それはキリストの体の秘跡であり、すなわち教会の体の秘跡です。教会の自己表現、教会の生きる場です。・・・教会が聖餐を祝います。自らの心を賭けて、自らの問題も悩みも賭けて、そのとき逆に聖餐は教会を造ります。そこから答えが与えられ、そこから新しい歩み、現実への対応、自発性が生まれます。