1月20日 年間第二週 火曜日
こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。
(ヘブライ 6・15)
集会祈願
第一朗読 ヘブライ書 (ヘブライ6章10~20節)
イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
福 音 マルコによる福音 (マルコ2章23~28節)
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」
共同祈願:
ガザ地区の被害の様子がテレビで公開されていました。徹底的な破壊行為です。心が痛みます。イエスが生まれ育った地に、平和を!
イエスは、人類のための神の贖いの愛と恵みをもたらしたのに、わたしたちはそれを無にしてしまうような世界を作り上げました。
主よ、一日でも早く、わたしたちを裁きに来てください。
(ヘブライ 6・15)
集会祈願
第一朗読 ヘブライ書 (ヘブライ6章10~20節)
イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
福 音 マルコによる福音 (マルコ2章23~28節)
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」
共同祈願:
ガザ地区の被害の様子がテレビで公開されていました。徹底的な破壊行為です。心が痛みます。イエスが生まれ育った地に、平和を!
イエスは、人類のための神の贖いの愛と恵みをもたらしたのに、わたしたちはそれを無にしてしまうような世界を作り上げました。
主よ、一日でも早く、わたしたちを裁きに来てください。
黙想のポイント:
ヘブライ書のこの箇所で、福音箇所で、「秘跡」についての思いが湧きあがる。
こう言う語り方が許されるならば、とボーズマンが言っていることを引用してみる。「秘跡がもたらすものは、イエスの人間性ではなく、神性である。それは、イエスの人間位格ではなく神的位格である。秘跡的出来事は、秘跡(しるし、象徴)と本体との双方を必要とする。二本性を認めるキリスト論は次のことを含む。すなわち、秘跡としての人間本性と本体としての神性、もしくは秘跡をもたらすものを含む。」(ケナン・ボーズマン 秘跡神学総論 新世社 p110)
そして スヒレベークを同じ個所で引用しているが、カルケドン公会議の教義決定についてのコメントです。
「カルケドン公会議の教義的定義は、キリストは「二つの本性をもったひとつの位格」であるということに関して、次のことを含ませている。すなわち唯一で位格的に同一である神の子が見ることのできる形をとったということを意味している。人性においてすらキリストは神の御子である。至聖なる三位一体の第二格自身が人間なのである。そしてこの人間自身が位格的に神なのである。」(孫引用)
かくして、「イエスの人性におけるみことばの受肉が、スヒレベークおよび秘跡としてのイエスを提示するすべての人にとって基礎である。この基礎を前提とした後に、イエスの秘跡性を考察することができる。」(同上)
第二バチカン公会議後の秘跡論の新しいアプローチが始まったのです。いわば質量・形相の秘跡論から受肉の秘跡論へと方向が動き出しました。「信徒の神学」においても大きな発想の転換ができるのはこのアプローチからしかないと思います。
ヘブライ書のこの箇所で、福音箇所で、「秘跡」についての思いが湧きあがる。
こう言う語り方が許されるならば、とボーズマンが言っていることを引用してみる。「秘跡がもたらすものは、イエスの人間性ではなく、神性である。それは、イエスの人間位格ではなく神的位格である。秘跡的出来事は、秘跡(しるし、象徴)と本体との双方を必要とする。二本性を認めるキリスト論は次のことを含む。すなわち、秘跡としての人間本性と本体としての神性、もしくは秘跡をもたらすものを含む。」(ケナン・ボーズマン 秘跡神学総論 新世社 p110)
そして スヒレベークを同じ個所で引用しているが、カルケドン公会議の教義決定についてのコメントです。
「カルケドン公会議の教義的定義は、キリストは「二つの本性をもったひとつの位格」であるということに関して、次のことを含ませている。すなわち唯一で位格的に同一である神の子が見ることのできる形をとったということを意味している。人性においてすらキリストは神の御子である。至聖なる三位一体の第二格自身が人間なのである。そしてこの人間自身が位格的に神なのである。」(孫引用)
かくして、「イエスの人性におけるみことばの受肉が、スヒレベークおよび秘跡としてのイエスを提示するすべての人にとって基礎である。この基礎を前提とした後に、イエスの秘跡性を考察することができる。」(同上)
第二バチカン公会議後の秘跡論の新しいアプローチが始まったのです。いわば質量・形相の秘跡論から受肉の秘跡論へと方向が動き出しました。「信徒の神学」においても大きな発想の転換ができるのはこのアプローチからしかないと思います。