マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 1月26日 聖テモテ 聖テトス司教

テモテはエフェソの教会を、テトスはクレタの教会を指導した。それぞれにパウロの牧会書簡がある。

入祭唱 「私の心にかない、思いのとおりに行う忠実な祭司を立てよう。」

集会祈願 恵み豊かな神よ、あなたは聖テモテとテトスに、使徒にふさわしい知識と勇気をお与えになりました。聖人の祈りに支えられるわたしたちが、正義と愛をもって生き、永遠の国に迎えられますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン

第一朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (Ⅱテモテ 1・1~8)
 「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を再び燃え立たせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。・・・福音のために私と共に苦しみを忍んでください。」

オプション
     使徒パウロのテトスへの手紙 (テトス 1・1~5)  

 神は定められた時に、宣教を通してみことばを明らかにされました。

福 音 ルカによる福音 (ルカ10章1~9)
 収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。・・・
黙想のコメント:
十二人の使徒の派遣から・・・
オプス・デイ(神の業) 宣教は神の業である十字架の死と復活の出来事を伝えることにあります。まず遣わされたら、「この家に平和があるように」と告げることです。あとは神がなさる楽天的な気持ちが必要でしょう。宣教は、目に見える効果はすぐにはでてこないものです。種まき宣教論です。収穫の主に祈ることから始まる。
 人間の救いとは何でしょうか?罪のゆるしのために? 罪がなければゆるしもいらないということでしょうか?理屈ぽくなります。日本語では日常語の「罪」と宗教用語の「罪」はことばは同じなので、救われなければならない存在という理解は困難になっています。問題があって行き詰って何らかの解決のために人は神を求め始めます。
 ところが、聖書の神はご自身の方から人間に近づき、人間と向き合ってくださる。ご自身の対話の相手として、人間に神の命をあたえるために人となられたのです。人間が神のように生きる。これが救いでなくてなんでしょうか? 一つ間違うと自己の偶像化ですが・・・
 みことばが人となった受肉の出来事、ここに秘跡の根があります。第二バチカン公会議の根本理念が新しい時代の要請に対する適応でした。その新しい教会観は、教会をサクラメントとして定義づけたことです。神学的な基礎は教会は秘跡であることを裏付けた三人の神学者による。オットー・ゼンメルロート、カール・ラーナー、エドワード・ヒスレベークの基礎的な著作が「教会憲章」に深く影響している。

「サクラメントは、人間が超越者なる神とどのように出会うことができるかを解き明かすカギである」(「原サクラメントである教会」オットー・ゼンメルロート著 石橋泰助訳 エンデルレ書店 -付録 石橋泰助神父(神言会)による解説 p312)これから少し「秘跡」について勉強してみましょう。

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