年間 第四主日 (B) 1月31日
わたしたちの神、主ょ 諸国の中からわたしたちを集めてください。(詩篇106・47)
集会祈願 人々を回心へと導かれる神よ、御子キリストは悪を退け、限りない救いの力を示してくださいました。きょう一つに集まって神をたたえるすべての人に、聖霊の力強い息吹を注いでください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
第一朗読 申命記 (申命記 18・15~20)
あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしのことばを授ける」
答 唱 神に向かって喜び歌い 感謝のうたをささげよう。(詩篇95)典礼聖歌 35 ①②③
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙
(1コリント 7・32 ~ 35 )
アレルヤ アレルヤ
福 音 マルコによる福音 (マルコ 1・21 ~ 28 )
権威ある者としてお教えになった。
奉納祈願(通年公式祈願)
聖なる父よ、このささげもの(100日の共同祈願者の祈りと犠牲も)しるしとして祭壇に供えて祈ります。わたしたちのために救いの秘跡としてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領唱
こころの貧しい人は幸い。
天の国はその人のもの。
柔和な人は幸い。
その人は地を受け継ぐ。
拝領祈願 いつくしみ深い父よ、救いの秘跡によって養われるわたしたちが、まことの信仰に成長することができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
集会祈願 人々を回心へと導かれる神よ、御子キリストは悪を退け、限りない救いの力を示してくださいました。きょう一つに集まって神をたたえるすべての人に、聖霊の力強い息吹を注いでください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
第一朗読 申命記 (申命記 18・15~20)
あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしのことばを授ける」
答 唱 神に向かって喜び歌い 感謝のうたをささげよう。(詩篇95)典礼聖歌 35 ①②③
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙
(1コリント 7・32 ~ 35 )
アレルヤ アレルヤ
福 音 マルコによる福音 (マルコ 1・21 ~ 28 )
権威ある者としてお教えになった。
奉納祈願(通年公式祈願)
聖なる父よ、このささげもの(100日の共同祈願者の祈りと犠牲も)しるしとして祭壇に供えて祈ります。わたしたちのために救いの秘跡としてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領唱
こころの貧しい人は幸い。
天の国はその人のもの。
柔和な人は幸い。
その人は地を受け継ぐ。
拝領祈願 いつくしみ深い父よ、救いの秘跡によって養われるわたしたちが、まことの信仰に成長することができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
説教ノート:
権威 ギリシャ語でエクスーシア、ヘブライ語でシャルタン
イスラム国の太守スルタンも同じ語源
神にのみ用いられる言葉です。
みことばに権威がある。 これは新しい言葉でもある。悪霊すら従わざるをえない。
「イエスのことばに触れた驚きは、それが神の権威をもっているという事実から生じたものである。自分に従うように呼び掛け、悪から解放し、言いあらわされている内容をそのまま実現する。言ったことを実行し、行うことを言い表す。福音書の章句はどれも神の恵みであり、わたしが読むことをそのまま、神は私に行おうとしておられる。だから福音書を読むたびごとに、神に「望むことを願う」のだ。そして私が望むことは、読んだ章句がわたしに与えようとしていることである。この望みを言い表すのはとても大切だ。望まないものを与えられることはない。たとえ与えられても受け取ることができないからだ。」(「想い起し、物語れ」p90)
「かまわないでくれ・・・」
これは私自身の奥の声なのだ。わたしのなかに悪に連帯している何者かがいる。その声なのだ。「われわれ」という複数形は、何であろう? わたしの中にあるもう一人のわたしだ。イエスの権威ある声によってわたしの中に悪を滅ぼしていただきたい。悪が滅ぶとき、私自身の面目がつぶれるかのように思う。偽りの自分、醜い仮面がはぎとられることだけなのに・・・
自分の弱さをさらけ出したあとに 鬱になる人がいるという・・・そして自死に至る。まことのイエスの前に自分を差し出すことは、自分自身の失敗を罪と感じることとは違う。無神論的世界では、罪の意識よりも過失の意識の方が強い。過失は自己自身のイメージを傷つける。罪は神との関係を傷つける。これは通行人に水をぶっかけたときと友人に水をぶっかけたときの違いのようなものだと説明できるかもしれない。通行人には過失と感じて謝るなり弁償したリするが、友人には、彼にたいして愛のない行為をしたことを詫びたり心を痛めたりして赦しを願う。愛が失われないように愛の回復を願うからだ。
罪とは人や神との愛のない関係のことなのだ。たとえてみれば・・・(前掲書参照 p149)
権威 ギリシャ語でエクスーシア、ヘブライ語でシャルタン
イスラム国の太守スルタンも同じ語源
神にのみ用いられる言葉です。
みことばに権威がある。 これは新しい言葉でもある。悪霊すら従わざるをえない。
「イエスのことばに触れた驚きは、それが神の権威をもっているという事実から生じたものである。自分に従うように呼び掛け、悪から解放し、言いあらわされている内容をそのまま実現する。言ったことを実行し、行うことを言い表す。福音書の章句はどれも神の恵みであり、わたしが読むことをそのまま、神は私に行おうとしておられる。だから福音書を読むたびごとに、神に「望むことを願う」のだ。そして私が望むことは、読んだ章句がわたしに与えようとしていることである。この望みを言い表すのはとても大切だ。望まないものを与えられることはない。たとえ与えられても受け取ることができないからだ。」(「想い起し、物語れ」p90)
「かまわないでくれ・・・」
これは私自身の奥の声なのだ。わたしのなかに悪に連帯している何者かがいる。その声なのだ。「われわれ」という複数形は、何であろう? わたしの中にあるもう一人のわたしだ。イエスの権威ある声によってわたしの中に悪を滅ぼしていただきたい。悪が滅ぶとき、私自身の面目がつぶれるかのように思う。偽りの自分、醜い仮面がはぎとられることだけなのに・・・
自分の弱さをさらけ出したあとに 鬱になる人がいるという・・・そして自死に至る。まことのイエスの前に自分を差し出すことは、自分自身の失敗を罪と感じることとは違う。無神論的世界では、罪の意識よりも過失の意識の方が強い。過失は自己自身のイメージを傷つける。罪は神との関係を傷つける。これは通行人に水をぶっかけたときと友人に水をぶっかけたときの違いのようなものだと説明できるかもしれない。通行人には過失と感じて謝るなり弁償したリするが、友人には、彼にたいして愛のない行為をしたことを詫びたり心を痛めたりして赦しを願う。愛が失われないように愛の回復を願うからだ。
罪とは人や神との愛のない関係のことなのだ。たとえてみれば・・・(前掲書参照 p149)