マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 年間第六主日 2月15日

日生中央 子供ミサ 

集会祈願(各年共通公式祈願)
 聖なる父よ、あなたは正義を求める人、誠実な人ともにおられます。わたしたちが、恵みに支えられて豊かな実りをもたらすことができますように。
 
 試用版
 救いの源である神よ、ひとり子イエスのことばと行いによってあなたの愛は世にあらわされました。悩み、苦しみの中から救いを求めるわたしたちの声を聞き、今日も慈しみの手を差し伸べてください。

 :共通公式祈願と比べると試用版は、いつも饒舌なところがあり、とくに神にかかる形容(属性)が長くなりがちと感じます。しばらくそれらを書き写して気になったところです。取りようによっては、いろいろな神がいるのだなと思ってしまうかもしれません。後半の表現は、イエスの救いの目に見えるしるしが具体的に表現されていてよいように思います。秘跡的な表現なのでしょう。これもやりすぎると神秘的な面が失われるように感じます。わたしが感じることですけれども・・・

 第一朗読 創世記 3章16~19節
 答 唱  詩篇 32 (典 114 )
 第二朗読 コリントの教会 (1コリント10:31~11:1 )
 福  音 マルコによる福音 (1章40~45)

共同祈願
 命日 マリア 徳 チカ様、 カタリナ 吉武 ミカ様 のためにもお祈りください。
 


 
説教のヒント:

 子供のための説教
トーマス・ロシカ神父の説教を転用したもの
---Zenit.org


 重い皮膚病を患っている人がいやされた話です。
 わたしたちも同じような病にかかっているとしたらあなたはどうしますか?

 昨晩のテレビで、オーストラリアのタスマニア島に生息する有袋動物タスマニアデビルの話がありました。このタスマニア・デビル(T・D)も絶滅種に指定されていて、奇妙な病気にかからないように保護されています。T・Dは、夜行性で森林深いところからおぞましい奇妙な鳴き声をだすことからタスマニアの悪魔という名前が付けられました。人は、奇妙なものやおぞましいものに恐れを感じて、いやなものを隠したり、遠のけたりします。わたしも二週間前に、司祭館の二階に泊まったら、コウモリが飛びまわり、はじめは小鳥かと思ったのですが、止まっているところを見ると顔は恐ろしい顔だったので、ほおっておきましたら、数日前に死骸が発見されました。あまりに気色悪いと考えた偏見がやはりコウモリを死なせてしまったのです。可哀そうなことをしました。

 人は外見で判断することが多いのです。古代の重い皮膚病、一度罹ると治らない病、神しか治せない病でした。そのため隔離するのが最善だったのですが、見た目が汚いために、宗教的にもけがれていると思われ、レビ記13章では、「汚れている」と自分で言って、人を寄せ付けないようにすることが書かれ、共同体から離されて誰からも愛されずに死にました。この福音書の重い皮膚病の人は、この律法の規定を破りイエス様の前に進みました。癒されると信じたのです。そしてイエスはこの人に手を差し伸べて醜い箇所に触れてくださったのです。こうして彼はいやされました。重病人もイエスも律法のおきてを破りましたが、しかし神の愛に触れることになりました。多くの場合、皮膚病自体が問題なのではなく、その偏見が多くの苦しみをもたらします。

 重い皮膚病にあたる病は、現在ハンセン氏病といい、20世紀後半まで日本でも隔離政策がとられ、大変な偏見と人権侵害があった病です。ハンセンによって病原菌が発見され、特効薬がつくられるようになりました。非常に感染力の弱い菌です。カトリック教会では、ハンセン氏病になった人の世話のために生涯をささげた人がいます。モロカイのダミアン神父です。ベルギー人で聖心会に入り、宣教師としてハワイに送られ、そして1873年モロカイ島に隔離されているハンセン病患者の住まいに行きました。不幸な人々を抱きしめ神の愛を示しました。彼もまたハンセン病にかかり1889年に亡くなりました。1994年、ダミアン神父は教皇ヨハネ・パウロ二世によって福者に列せられました。

 この皮膚病は、見た目が汚い、醜いために人から厭われ嫌われました。同じようなことは、貧しさや文化の違い、人種の違い、服装や言葉使いなどなどでとにかく自分たちと異質のものを排除する姿勢が人間にはあります。アメリカの大統領が黒人出身のオバマ氏に選ばれるまで奴隷解放宣言から150年も経ちました。グループを守る防衛本能でしょうか・・・今日の第一朗読で読まれる罪の問題として考えられます。子供たちの世界では、携帯を学校に持ち込まないように禁止されるようになりましたが、それにはいじめがあり、心を傷つける心ない言葉が大量に送りつけてこられるなどなどで、人間不信や自殺にまでことは及ぶようになったからです。

 マザーテレサは、貧しい人、路上に倒れ、死に逝く人の顔にイエスの顔をみて、その人たちを助けていました。心が満ち足りていれば、その人たちにどうふるまえばよいかわかるともいいます。その人たちを世話することは、もう一つのご聖体拝領だと、しかし、難しいことは、失意の人、怒っている人とともに働くことだと・・・。病気の人に近づき奉仕するとき、キリストの身体に触れている確信があるが、叫び声を上げ、酔っ払っている人には触れることは難しい。・・・彼らに同情(共感)するためには、どれほどわたしたちの手は清くなければならないかと・・・

 この洞察は、わかるような気がします。外面的に醜い人よりも内面的に病気になっている人に接するのは困難なのだとマザーが言っておられるのは本当です。その源には、人の愛に失望し、神の愛が断たれているという嘆きがあり訴えなのでしょう。傷ついてオオカミのように彼らには平和が全くありません。まさに現代の墓場です。

 本当の病は、偏見という病であり、それが人を墓場へと追いやるのです。心ない言葉、何気ない言葉に傷つき痛んでしまう。そして言葉のやり取りなどしてエスカレートするうちに激しく火がついて燃え上がってしまう。ネットでも炎上(?)という言葉があるそうです。学校、教会、社会どこでも起こりうる言葉の暴力と異分子を排除する心・・・その心とその相手にどう向き合えばよいでしょうか?

 マザーが言うように わたしたちのこころはどれほど清くなければならないでしょう。わたしたちの心の王様、主イエス様に、清くしていただけるように祈りましょう。

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