聖金曜日
Lk 23:46
「父よ わたしの霊を御手にゆだねます。」
Father, into your hands I commend my spirit.
イザヤ 52章13節~53章12節 (第四しもべの歌)
苦しむしもべの歌のもっとも重要な箇所、
詩篇 31、 2節、6節、12~13節、15~16節、17節、25節
信頼をもって、神のみ顔を求めて、御父の御手に自らをゆだねる。
「父よ、ゆだねます。 わたしの すべて
父よ、ゆだねます。 あなたのみ手に」 (テゼ)
ヘブライ書 4章14節~16節、5章7節~9節
イエスだけが、人と神との和解のいけにえとなることができる。罪の完全な贖いの汚れないいけにえとして大祭司キリストは至聖所に入られた。
ヨハネの福音 18章1節~19節、42節
契約のいけにえとして完全に自らを渡された。
「父よ わたしの霊を御手にゆだねます。」
Father, into your hands I commend my spirit.
イザヤ 52章13節~53章12節 (第四しもべの歌)
苦しむしもべの歌のもっとも重要な箇所、
詩篇 31、 2節、6節、12~13節、15~16節、17節、25節
信頼をもって、神のみ顔を求めて、御父の御手に自らをゆだねる。
「父よ、ゆだねます。 わたしの すべて
父よ、ゆだねます。 あなたのみ手に」 (テゼ)
ヘブライ書 4章14節~16節、5章7節~9節
イエスだけが、人と神との和解のいけにえとなることができる。罪の完全な贖いの汚れないいけにえとして大祭司キリストは至聖所に入られた。
ヨハネの福音 18章1節~19節、42節
契約のいけにえとして完全に自らを渡された。
説教のポイント:
御受難の主日も今日の典礼も、福音朗読は、主の御受難の物語をパートに分けて朗読します。そして会衆もその朗読の中の会衆の一人として参加し、「十字架にかけろ、十字架にかけろ」と大声で叫ぶのです。
四旬節のはじめからわたしたちは聖金曜日の典礼に与る準備をしてきたと言ってもよいのではないでしょうか? イエスを十字架にかけた群衆の一人であると自らを認め、この金曜日の典礼の中で、わたしたちははっきりと認めるためです。わたしもあなたを裏切った一人なのです。そうすることにより、わたしたちは自分が赦しを必要としている罪人の自覚に立つことはできないのです。そうでなければ、十字架の礼拝は偶像礼拝となり無意味になるのではないでしょうか?そうでなければ、わたしは傍観者となり、イエスの十字架の死の責任を他人になすりつけて遠くから眺めるばかりです。
主は「わたしは、あなたのためにここにいるのです」と言われます。そのことばをあなたは受け止めるためにようやくあなたはここに立つことができました。わたしたちの体には十字架が刻まれています。わたしたちは祈るとき、十字架を切ります。父と子と聖霊によって・・・洗礼の水をうけました。また、罪のゆるしを受ける時に、「父と子と聖霊によってわたしはあなたの罪をゆるします」と宣言されて教会に受け入れられます。十字架は救いのしるしです。わたしはイエスの十字架により救われたのです。それを認めなければなりません。わたしたちは、この十字架を通して神に出会ったからです。
これから典礼の中で、十字架の礼拝を行い、十字架を崇敬します。歴史の中で、「十字架の礼拝」ということばは、躓きをあたえたこともありました。旧約の第二戒、偶像礼拝を禁止する掟に触れるのではないかと・・・教会の教義の中では、「礼拝」と「崇敬」を定義して、新約では、神が人となられた受肉の神秘により、神がご自身をあらわされるのは、目に見えない神の似姿、御子において神を礼拝できるのだと・・・。ヨハネとパウロの信仰告白、「わたしはそれである」「イエスは主である」と・・・そして御子の姿は、まことにこの方は神の子だったという福音のことばは、御子の肉の姿の最後の姿を伝えるのです。苦しみと死を通して復活された御子は、今や復活された肉の姿においてご自身を現される。十字架は神と出会う確かな場となっているのです。・・・
旧約聖書なかでは、神殿の至聖所の契約の櫃に「あがないの座」という台座があり、この台座の上に櫃が置かれ、中に契約の板が収められていました。大祭司たちは、毎年ここで神の名を呼び礼拝したのです。新約において、十字架の木は、このあがないの座となったのです。十字架の礼拝をするとき、ご自身の血によって契約された神を礼拝します。それは御父と御子の契約です。そして、それは神と出会う象徴(シンボル)となりました。わたしたちは神はどこにおられるのかと問い、どこで出会えるのかと質問されるでしょう。イエスは、たとえを通して話されたことがあります。「この小さい者の一人にしたことはわたしにしてくれたことなのだとお答えになりました。」そしてこれは、たとえ話ではなく、わたしたちの日常生活において出会うイエスの姿を現しています。そして、この方は、あなたはどこにいるのかと問われるのです。
ピラトは、「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と言われて、イエスを十字架の刑に引き渡しました。これはユダの罪でもあります。彼は政治や経済の権力の誘惑に負けたのです。イエスは、最後の晩餐で、弟子たちに互いに愛するようにと新約の唯一の掟を与え、弟子たちをもはやしもべとは呼ばず、「友」と呼ぶと言われたのです。イエスが逮捕されると、弟子たちは逃げまどいました。イエスの愛、友情を断ち切ってしまったのです。ペトロは三度イエスを知らないと証言しました。皇帝の友ではないが、イエスの友であることを否定してしまったのです。師からの信頼を裏切ったこと、これはペトロとわたしたちすべての弟子の罪です。ユダの罪もペトロの罪もあの原初の誘惑の物語の毒が心を惑わし弱くするものです。
誰一人イエスについていくことができませんでした。昨晩わたしたちはイエスがひざまずき弟子の足をあらい、また園で御父に祈られた姿を見ました。ペトロに、あなたの信仰がなくならないように父に祈ったとイエスは伝え、信仰が戻ったら兄弟を力づけよと命じられました。これらは、神が語られたことばです。
わたしたちはイエスを十字架に付け、罵った一人です。でも今、わたしたちは十字架のしるしを身に帯びて共に十字架の姿に招かれています。他者のために祈るように。。。イエスの十字架のもっとも本質的なところへ招くために、あなたの罪がゆるされたのは、他者のためにとりなし他者が救われるようにあなたも共に苦しむためですと・・・私たちの犠牲が一人ひとりの救い、わたしたちがかかわった人との目に見えないつながり、祈りによるつながりがキリストの祈りとなる。この連関を失ったら典礼はすべて劇になってしまうのです。
さあ、わたしたちは勇気をもって十字架の前に立ちましょう。
御受難の主日も今日の典礼も、福音朗読は、主の御受難の物語をパートに分けて朗読します。そして会衆もその朗読の中の会衆の一人として参加し、「十字架にかけろ、十字架にかけろ」と大声で叫ぶのです。
四旬節のはじめからわたしたちは聖金曜日の典礼に与る準備をしてきたと言ってもよいのではないでしょうか? イエスを十字架にかけた群衆の一人であると自らを認め、この金曜日の典礼の中で、わたしたちははっきりと認めるためです。わたしもあなたを裏切った一人なのです。そうすることにより、わたしたちは自分が赦しを必要としている罪人の自覚に立つことはできないのです。そうでなければ、十字架の礼拝は偶像礼拝となり無意味になるのではないでしょうか?そうでなければ、わたしは傍観者となり、イエスの十字架の死の責任を他人になすりつけて遠くから眺めるばかりです。
主は「わたしは、あなたのためにここにいるのです」と言われます。そのことばをあなたは受け止めるためにようやくあなたはここに立つことができました。わたしたちの体には十字架が刻まれています。わたしたちは祈るとき、十字架を切ります。父と子と聖霊によって・・・洗礼の水をうけました。また、罪のゆるしを受ける時に、「父と子と聖霊によってわたしはあなたの罪をゆるします」と宣言されて教会に受け入れられます。十字架は救いのしるしです。わたしはイエスの十字架により救われたのです。それを認めなければなりません。わたしたちは、この十字架を通して神に出会ったからです。
これから典礼の中で、十字架の礼拝を行い、十字架を崇敬します。歴史の中で、「十字架の礼拝」ということばは、躓きをあたえたこともありました。旧約の第二戒、偶像礼拝を禁止する掟に触れるのではないかと・・・教会の教義の中では、「礼拝」と「崇敬」を定義して、新約では、神が人となられた受肉の神秘により、神がご自身をあらわされるのは、目に見えない神の似姿、御子において神を礼拝できるのだと・・・。ヨハネとパウロの信仰告白、「わたしはそれである」「イエスは主である」と・・・そして御子の姿は、まことにこの方は神の子だったという福音のことばは、御子の肉の姿の最後の姿を伝えるのです。苦しみと死を通して復活された御子は、今や復活された肉の姿においてご自身を現される。十字架は神と出会う確かな場となっているのです。・・・
旧約聖書なかでは、神殿の至聖所の契約の櫃に「あがないの座」という台座があり、この台座の上に櫃が置かれ、中に契約の板が収められていました。大祭司たちは、毎年ここで神の名を呼び礼拝したのです。新約において、十字架の木は、このあがないの座となったのです。十字架の礼拝をするとき、ご自身の血によって契約された神を礼拝します。それは御父と御子の契約です。そして、それは神と出会う象徴(シンボル)となりました。わたしたちは神はどこにおられるのかと問い、どこで出会えるのかと質問されるでしょう。イエスは、たとえを通して話されたことがあります。「この小さい者の一人にしたことはわたしにしてくれたことなのだとお答えになりました。」そしてこれは、たとえ話ではなく、わたしたちの日常生活において出会うイエスの姿を現しています。そして、この方は、あなたはどこにいるのかと問われるのです。
ピラトは、「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と言われて、イエスを十字架の刑に引き渡しました。これはユダの罪でもあります。彼は政治や経済の権力の誘惑に負けたのです。イエスは、最後の晩餐で、弟子たちに互いに愛するようにと新約の唯一の掟を与え、弟子たちをもはやしもべとは呼ばず、「友」と呼ぶと言われたのです。イエスが逮捕されると、弟子たちは逃げまどいました。イエスの愛、友情を断ち切ってしまったのです。ペトロは三度イエスを知らないと証言しました。皇帝の友ではないが、イエスの友であることを否定してしまったのです。師からの信頼を裏切ったこと、これはペトロとわたしたちすべての弟子の罪です。ユダの罪もペトロの罪もあの原初の誘惑の物語の毒が心を惑わし弱くするものです。
誰一人イエスについていくことができませんでした。昨晩わたしたちはイエスがひざまずき弟子の足をあらい、また園で御父に祈られた姿を見ました。ペトロに、あなたの信仰がなくならないように父に祈ったとイエスは伝え、信仰が戻ったら兄弟を力づけよと命じられました。これらは、神が語られたことばです。
わたしたちはイエスを十字架に付け、罵った一人です。でも今、わたしたちは十字架のしるしを身に帯びて共に十字架の姿に招かれています。他者のために祈るように。。。イエスの十字架のもっとも本質的なところへ招くために、あなたの罪がゆるされたのは、他者のためにとりなし他者が救われるようにあなたも共に苦しむためですと・・・私たちの犠牲が一人ひとりの救い、わたしたちがかかわった人との目に見えないつながり、祈りによるつながりがキリストの祈りとなる。この連関を失ったら典礼はすべて劇になってしまうのです。
さあ、わたしたちは勇気をもって十字架の前に立ちましょう。