マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 ラニエロ・カンタラメッサ神父とともに・・・

 

畠神父どっとコム(hatashinpu.com )の表紙の写真は、「第12回聖霊による刷新関西大会」の最終ミサの後、退堂の様子で、神父様のすばらしい講話に、教えに、またその人柄に触れて、参加者からの感謝の拍手と喜びの表情です。多くの信者さんたちからは、普通の畠神父と違う顔なのでブログの表紙絵に掲載しない方が何かと安全ではという声もいただきましたが、カンタラメッサ神父様は当代一の著名な説教師で、なかなかお目にかかれないのですが、一緒に写っているわたしのお宝写真を掲載しました。もちろん肩を並べることなどできないほど遠い存在です。神父様は、ヨハネ・パウロ二世教皇の聴罪司祭として、また教皇庁の常任説教師として長年仕え、この大会の中で、ベネディクト16世教皇から引き続き教皇庁での説教師の任務を続けるように慰留され再任されたことを発表されました。この大会では、沢田和夫神父さまがご高齢にもかかわらず、最初から最後まで通訳の任を果たされ、お二人の友情あふれる交流が参加者の心をうち希望を与えました。どうして「聖霊による刷新」が既存の教会組織では受け入れらないのか理解できないまま、肩身の狭い思いでひっそりと身を寄せ合い、ひそかに家庭内で祈りの集いをしているというのが多くの信徒の現実の姿です。「聖霊による刷新」はカトリック教会の異分子ではなく、聖霊降臨で誕生した教会の命の源泉につながる刷新運動であることは、このような聖徳の神父様の謙遜な姿にあらわされているのではないでしょうか。

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教皇ベネディクト16世のカンタラメッサ神父に対する評価は、カンタラメッサ神父の「来てください、創造主である霊よ」(2003年英語版出版)の本のドイツ語訳の前文に書かれた推薦の言葉(1999年)によくあらわされています。 また当時教理省長官として、刷新運動の流れをどのように見ておられたかもわかる文章だと思います。訳文はウルバン神父さまから入手して日本語で読みやすくわかりやすいように私が手を加え校正しました。間違いがあれば わたしの責任です。=カンタラメッサ神父のホームページhttp://www.cantalamessa.org/

現在、庄司神父さまがカンタラメッサ神父の本を翻訳中ですが、かなり時間がかかりそうです。最近ドイツ語版へのラッチンガー枢機卿の序文(日本語訳)を庄司神父様より入手しました。わたしの訳と差し替えます(6月24日付)

 なお、皆さまもご存じのように、「聖霊による刷新」(カリスマ刷新)に対する評価は、日本の教会では問題と考えられ、小教区には不向きというかなり否定的に見られています。かつて活躍された宣教師たちの熱心さや確信に導かれて1970年代後半から日本の「聖霊による刷新」は続いて来ましたが、しだいに、その灯は消えゆるかのように細ってきました。しかしながら、その核となるのは、もともと二人三人で祈るところに「わたしも共にいる」というイエスの約束を信じて成り立つ「賛美の集い(祈り会)」です。そこで立ち上がる賛美のいけにえを通して喜びにも悲しみにも共に生活とみことばを分かち合う兄弟姉妹と出会います。それは、聖霊の愛のあるところ、復活の主との出会いへと変容し、新約のキリストの掟「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」を生きる信仰共同体が形成されます。そのような方向で、カトリック教会の中へ聖霊の炎を燃え立たせる「聖霊による刷新」の努力はからし種のように、これからも種をまき続けるべきものと思います。これは聖霊降臨によって始められた神の種なのです。ひとたび蒔かれれば、確実に芽をだす、そんな思いを皆様と共に祈り続けましょう。百日共同祈願に共鳴して参加してください。

ジョセフ・ラッチンガーJosephCardinalRatzinger教理省長官(現教皇ベネディクト十六世)の推薦状

ラニエロ・カンタラメサ著『創造主である“霊”、来てください』のドイツ語版へのラッチンガー枢機卿(現教皇ベネディクト16世)の序文

西欧の神学において《聖霊》というテーマは、長期にわたって一JA.メーラー(1796-1838)など幾人かの賞賛すべき例外はあるものの一殆ど取り上げられませんでした。聖霊についてまるで知られざる神として語っていたかのようでした。この状況は第ニバチカン公会議の新しい精神によって変わりました。公会議以前の数十年間は、受肉一永遠のみことばが肉となられたこと一が、全神学の中心としてたいへん強調されていました。もちろん、これは間違いではありませんが、ただ、その際、受肉の概念が著しく狭く解釈されたのです。神がわたしたちの物質的・感覚的な世界へ降って来て、この世と一致し、わたしたちと共に住み、人となり、永遠に人であり続けられるという素晴らしい神秘は、キリスト教信仰に喜びをもたらす新しさだと見なされました。そしてこれは、十分に根拠のあることでした。しかし、神が肉体と物質の世界に来られることを、復活に特有なこと〔と一緒に〕、すなわち、十字架と復活における《肉》の変容と一緒に考えなければ、神と人類に対する見方に不完全さが生じます。しばしば受肉が聖体制定と殆ど同列に扱われました。メーラーは既に100年前に、受肉神学の狭い型について皮肉な言葉で特徴を的確に描写しました。神は位階制度を創設し、それをもってきっぱりと教会のために世の終りまで十分なことをされた、と。

第二バチカン公会議をきっかけに、聖書や教父たちとの新たな出会いの中で、また、エキュメニカルな対話のなかで、この狭い捉え方は打ち破られ、受肉はますます復活から形作られた表象に基づいて捉えられ、キリスト論は強化された三位一体論的展開のうちに把握されるようになりました。《カトリック教会のカテキズム》も、力を込めてこの新しい考えを強調しました。使徒パウロと使徒ヨハネがどんなに深くキリストと聖霊を結びつけて見ていたかということが、改めて認識されました。コリントの信徒への手紙の素晴らしい――ときどき誤解されることがあるものの、〔素晴らしい〕一言葉、「主とは"霊"のことです」(Hコリント3・17)について考えてみましょう。また、イエスが別れの際に言われた言葉について考えてみましょう。この時、主はご自分が再び来ることと聖霊の到来とを、切り離すことができないほど深く結びつけ、御自分の言葉と聖霊のそれとを互いに強く結び合わされたのです。真理の霊は、今はまだ理解できない主要な真理を完全〔な真理〕へと導かれます。その際、聖霊は自分から語らず、〔キリストから聞いたとおりに語って〕キリストに栄光を与えられます(ヨハネ16・13以下参照)。キリストが自分から語らず、〔御父から聞いたとおりに語って〕御父に栄光を与えられたように。聖霊論的キリスト論の探求が始まりました。そのような流れは信心に影響を及ぼさずにはおきません。教会の信仰は、今やより三位一体的で、より≪霊的≫になり、ますますキリストを復活と聖霊という面から見ることを学ばねばならなくなりました。

公会議後に生じた様々な出来事が、この最初の流れにさらに拍車をかけます。

☆第一に、東方教会とその神学との特に深い出会いがありました。この出会いが聖霊の現存に基づく神学的地平の拡大を促進しました。☆実践の点で、プロテスタントの世界に生じた聖霊降臨運動の現象が、カリスマ刷新運動の形を取って、カトリック教会にも一或る程度変更された仕方で一土着化したことは重要でした。合理主義と新たな啓蒙主義の波がカトリック教会を揺さぶり、それらがわたしたちの信仰生活を霧氷のように覆い尽くした一方で、教会に聖霊の賜物をもたらすと自覚する聖霊刷新のさまざまな共同体や運動が生まれたのです。

☆そして最後に三つ目の要素、すなわち聖霊探求の道に新しい側面からテーマに取り組む可能性を与え、それと共に当然ながら新たな問1題も投げかけることになる要素が生じました。諸宗教間の対話において、「キリストを全人類の唯一の救い主と見なすのは狭い考え方だ」という意見が出るのはまれなことではありません。聖霊というテーマがそこに可能性の広がりを提供するかのように思われました。例えば、聖イレネウスの「御子と聖霊は御父の両手である」という言葉が、ここかしこで次のように解釈されたのでした。「神が世にお与えになる《救いの営み》は二つある。言い換えると、神が人類をお救いになる形式は二つある。すなわち、キリズト論的《救いの営み》と聖霊論的《救いの営み》。教会がキリストによる救いの領域であるのなら、他宗教は神のもう一つめ手、聖霊であろう。」キ.リストと聖霊とのこのような分離は、聖書の教えにまつたく反するもので、公会議後、わたしたちが探究してきた《聖霊論的キリスト論》と無関係であることは明らかです。しかし、歴史の中でキリストと聖霊がどのように共に働いておられるのか、歴史における聖霊の活動範囲と神の現存に関する聖霊のなさり方とはどのようなものか、と問い始めることは、実り豊かな考察を生むきっかけともなり得ます。

第ニバチカン公会議後に、聖霊に関する重要な神学的著作が生まれてきましたが、それは、公会議に触発された結果だと言えるでしょう。ドイツにおいては特に、H.ミューレンとChhシュッツの二人が、聖霊神学に重要な貢献をしました。また、高く評価されるべきは、Yコンガールの過去から現在におよぶ聖霊に関する認識についての膨大な著作です。これらの本によって豊かな知識がわたしたちにもたらされました。しかし、キリスト教徒が実際生活に役立てるためには、それらの知識を分かりやすく伝える仲介役が必要となります。その役目を果たしてくれるのが、ラニエロ・カンタラメッサ師によって著された本書です。

 著者は、当初、ミラノのカトリック大学における古代キリスト教文学史〔古代教父学〕の教授でした。当時、師は数多くの貴重な文献を残していますが、特に初代教会におけるキリスト論の歴史に関する著作は、その最たるものだと言えましょう。その後、師は、聖霊の力による教会の刷新に全力を投じるために教授の座を退きました。聖霊刷新運動以外にも、イエス・キリストの福音を現代の世の中に生き生きしたものとするために多方面で活躍しています。カンタラメッサ師はイタリア国内で最も多くの読者を持つ宗教作家の一人であり、信者および真理を探し求める人々にとっての霊的指導者の一人であると言えましょう。著作、テレビを通しての宣教、講話、バチカンの説教師としての活動などがカンタラメッサ神父を広く世に知らしめました。イタリアにおけるカトリックの信仰生活に多大な影響を及ぼすのは、実に彼の確信にあふれた信仰であり、例えばこの聖霊に関する本がそうであるように、彼の作品の内にある奥深い豊かさなのです。この本を一見するだけで、彼が教父たちについてなんという並外れた知識を持っていることか、また、聖書の御言葉にどんなに忠実に生きていることかということが分かります。しかし、彼は教父たちのもとに立ち止まることをせず、中世期や宗教改革者たちをも知っています。彼は、アメリカの黒人霊歌から、あるいはR.タゴールのような非キリスト教作家の作品からさえも豊富に引用します。また、コンピュータの世界からも例を取り上げ、このような神から遠く離れているように見える生活領域からさえも、思いがけない洞察を引き出すのです。彼は――テキストを扱う際に細心の注意を払うとしても一―決して歴史的なものだけに留まることをせず、過去のうちに現在を探り出します。すると、馴染みのない概念が突然実用的なものとなり、わたしたちの生活にとって実行可能な指針となるのです。

 この著作は、中世のドイツ人神学者ラバヌス・マウルス(780-856)の作品である聖霊への賛歌《 Veni Creator Spiritus 》(創造主である・"献来てください)を解説したしたものですが、単にチキストの解説というよりも、聖霊御自身に関する著作と言えるでしょう。その本がT.スタンパの丁寧な翻訳によってドイツ語でも読めるようになったことを喜ばしく思います。イタリアでそうであるように、本書がドイツ語圏の国々でも多くの人に読まれ、聖霊との<人格的出会い>、生ける神との人格的な出会いを助けることができるように望みます。


ローマ 聖霊降臨 1999

ヨセフ・ラッチンガー枢機卿

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