復活節第六主日 (鶯まつり)
日生中央教会 5月17日(日)
今日は、鶯祭りです。地域の方々をお招きする準備を入念にしてきました。そして、お祈りもしました。お天気をくださるようにと・・・雨予報のとおり雨雲が空一面に重くのしかかっていましたが、雨は夜中に降っただけで、朝方は雨もやみ、お店も賑やかに準備が整いました。9時から子供たちの奉仕によるミサもきっちりできて時間通り、10時に鶯祭りを開会できました。午前中は何とか雨にぬれず、11時半からの手作りコンサートも家族的に和やかでしかも一流の出演者が演奏し盛り上げました。すばらしい教会の交わりが実現したと思います。コンサートが終わるころには、雨が本格的に降り出し、皆様は後片付けに苦労されました。わたしは、何もせずにいたわけですが、新型インフルエンザの患者が茨木の関西大倉高校で数名出たというニュースが伝わり、地区長の谷口神父さんより、該当地区の吹田教会、茨木教会では、日曜日のミサを中止したと聞き及んで、電話で翌週に行われる北摂大会の予定をどうするか各教会と連絡し合い、情報を集めと協議で時間をすごしました。被昇天学園より大会を自粛してほしいとの要望があり、一時半に急きょ池長司教の延期の宣言をファックスで流すことになりました。
堅信式の準備も整っていただけに残念でしたが、しかし無駄なことは何一つなく、新たな取り組みを始める神の計画があるのでしょう。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなた方のうちにあり、あなた方が喜びに満たされるためである。」(ヨハネ15章11節)
今日は、鶯祭りです。地域の方々をお招きする準備を入念にしてきました。そして、お祈りもしました。お天気をくださるようにと・・・雨予報のとおり雨雲が空一面に重くのしかかっていましたが、雨は夜中に降っただけで、朝方は雨もやみ、お店も賑やかに準備が整いました。9時から子供たちの奉仕によるミサもきっちりできて時間通り、10時に鶯祭りを開会できました。午前中は何とか雨にぬれず、11時半からの手作りコンサートも家族的に和やかでしかも一流の出演者が演奏し盛り上げました。すばらしい教会の交わりが実現したと思います。コンサートが終わるころには、雨が本格的に降り出し、皆様は後片付けに苦労されました。わたしは、何もせずにいたわけですが、新型インフルエンザの患者が茨木の関西大倉高校で数名出たというニュースが伝わり、地区長の谷口神父さんより、該当地区の吹田教会、茨木教会では、日曜日のミサを中止したと聞き及んで、電話で翌週に行われる北摂大会の予定をどうするか各教会と連絡し合い、情報を集めと協議で時間をすごしました。被昇天学園より大会を自粛してほしいとの要望があり、一時半に急きょ池長司教の延期の宣言をファックスで流すことになりました。
堅信式の準備も整っていただけに残念でしたが、しかし無駄なことは何一つなく、新たな取り組みを始める神の計画があるのでしょう。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなた方のうちにあり、あなた方が喜びに満たされるためである。」(ヨハネ15章11節)
説教ノート:
(実際の説教は、別の話になりました。説教は、その場の人に話しかけるので、子供ミサと鶯祭りへの励ましと、新型インフルエンザの影響を踏まえての話になりました。)
基本的なアイデアは、Father Thomas Rosica, CSB Toront, May 13, 2009 (Zenit.org) からとりました。
今日の福音は、わたしたちに人々をお招きする意義をはっきりと示してくださっています。その箇所は、あまりにも有名なところです。切支丹の時代には、「ご大切」と表現された箇所です。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」 そして、イエスはわたしたちを「僕」と呼ばず、「友」と呼んでくださる。 この友情は、弟子たちの間では掟とならなければならない。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
わたしたちはイエスから友として大切にされ、長くお付き合いしてくださるのです。イエス様は、父から聞いたことをすべてわたしたちに知らせてもう何も秘密がないとおっしゃっているのです。 永遠の命をいただくための秘密を明らかにしてくださったのです。 イエスの愛にとどまるようにとのことです。
教皇ベネディクト16世は、この友愛のテーマ、イエスとの深い交わりについての話を何度もされています。そして、教皇職の役割を始めるにあたっての2005年4月24日の説教は特に印象深いとロシカ神父は書いています。(Zenit.org )
「全体としての教会は、そして教会の全ての司牧者は、キリストのように、人々を砂漠から導き出し、豊かないのちの与え主である、神の子との友愛に導く義務があります。」
「イエスを知ること、イエスとの友愛を他の人々に語ること以上に美しいものはありません。この友愛においてのみ、いのちの扉は広く開かれ、このイエスとの友愛においてのみ、人間存在の偉大な可能性はまことに啓示され、この友愛においてのみ、わたしたちは美と解放を体験するのです。」
引用箇所の教皇様のことばはお固いのですが、この友愛のイメージは、二人の弟子がエルサレムからエマオへ行く道の途上、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と近づいてきて二人の会話の中に入り、その失望と落胆を知って、再び希望を見いだすまで付き合ってくれる友人の姿そのものです。
わたしたちの時代には、年間三〇〇〇〇人の自殺者を11年間だしているという国です。わたしたちの周りには友人のいないさびしい人が多いのです。「友人」が育ちにくい国と言ってもいいでしょう。 確かに、修道院でも、霊的師父がいるときは、その師父の話を聞いて皆が分かち合いをするのですが、中核となる霊性の高い人がいなくなると、苦しみや悩みの話は避けて、スポーツ談義で花が咲くのです。霊性の高い人の話にしか耳を傾けないという傾向は、日本の教会であちこちで見られる傾向ですが、どうも世間とは違う教会固有の問題なのでしょうか?なにしろ説教していると居心地良く眠る人がいるからです。価値があるかないかで説教の良しあしを判断するのではない。しかし、福音のイエス様のことばは、わたしが愛したように互いに愛し合いなさいと言われるのです。
それでシカゴに留学していたころのことを思い出すのですが、キャロル神父さんは、旧約聖書学者で著名な著作者でしたが、目が悪かったので、わたしは彼の運転手になって、プールに一緒に行ったり、黙想会指導の折には、シカゴやセントルイスのいろいろな教会まで運転しました。その途中、いつも神父さんが話しかけてきて、家族のこと、勉強のこと、日本のこと、困難や希望などわたしのつたない英語力でポツリポツリ話すことばを熱心に聞いて質問して、また聞いて質問してと根掘り葉掘り聞いてくださったのです。普段神学院では著名な教授なので近づくことができない方でしたが、本当に心から分かち合えて、楽しく喜びに満たされたことを覚えています。 最近では、マレーシアの東ボルネオの山奥からきた神父さんが日本を訪問して、彼とは台湾で一度会っただけでしたけれども、あなたに会いに来ましたというものだから断れず、カテドラルと大阪城を案内しました。案内するにも大阪城はどう行けばよいのかも知らないほどでしたが、道道、あれこれ話しが合って、ずっと彼は上機嫌でした。話題は教会のこと、司牧の計画などなど次から次に、久しぶりに楽しい気持ちになりました。彼はイエス様から頼まれれて来たようなほっとするような心安らぐ旅人でした。
わたしたちには友人が要ります。 今日は、鶯祭り。イエスの愛で満たされるように話を聞きましょう。人の話ばかり聞いていると疲れますか? そんなときは、わたしの話を聞いてくれる人がいないと、あれこれパニックにならなくても、イエス様があなたの友となって訪問してくださることを思い出し、ゆっくりと話す時間の余裕を持ちましょう。きっとすばらしい時があり、喜びにみたされることでしょう。
(実際の説教は、別の話になりました。説教は、その場の人に話しかけるので、子供ミサと鶯祭りへの励ましと、新型インフルエンザの影響を踏まえての話になりました。)
基本的なアイデアは、Father Thomas Rosica, CSB Toront, May 13, 2009 (Zenit.org) からとりました。
今日の福音は、わたしたちに人々をお招きする意義をはっきりと示してくださっています。その箇所は、あまりにも有名なところです。切支丹の時代には、「ご大切」と表現された箇所です。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」 そして、イエスはわたしたちを「僕」と呼ばず、「友」と呼んでくださる。 この友情は、弟子たちの間では掟とならなければならない。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
わたしたちはイエスから友として大切にされ、長くお付き合いしてくださるのです。イエス様は、父から聞いたことをすべてわたしたちに知らせてもう何も秘密がないとおっしゃっているのです。 永遠の命をいただくための秘密を明らかにしてくださったのです。 イエスの愛にとどまるようにとのことです。
教皇ベネディクト16世は、この友愛のテーマ、イエスとの深い交わりについての話を何度もされています。そして、教皇職の役割を始めるにあたっての2005年4月24日の説教は特に印象深いとロシカ神父は書いています。(Zenit.org )
「全体としての教会は、そして教会の全ての司牧者は、キリストのように、人々を砂漠から導き出し、豊かないのちの与え主である、神の子との友愛に導く義務があります。」
「イエスを知ること、イエスとの友愛を他の人々に語ること以上に美しいものはありません。この友愛においてのみ、いのちの扉は広く開かれ、このイエスとの友愛においてのみ、人間存在の偉大な可能性はまことに啓示され、この友愛においてのみ、わたしたちは美と解放を体験するのです。」
引用箇所の教皇様のことばはお固いのですが、この友愛のイメージは、二人の弟子がエルサレムからエマオへ行く道の途上、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と近づいてきて二人の会話の中に入り、その失望と落胆を知って、再び希望を見いだすまで付き合ってくれる友人の姿そのものです。
わたしたちの時代には、年間三〇〇〇〇人の自殺者を11年間だしているという国です。わたしたちの周りには友人のいないさびしい人が多いのです。「友人」が育ちにくい国と言ってもいいでしょう。 確かに、修道院でも、霊的師父がいるときは、その師父の話を聞いて皆が分かち合いをするのですが、中核となる霊性の高い人がいなくなると、苦しみや悩みの話は避けて、スポーツ談義で花が咲くのです。霊性の高い人の話にしか耳を傾けないという傾向は、日本の教会であちこちで見られる傾向ですが、どうも世間とは違う教会固有の問題なのでしょうか?なにしろ説教していると居心地良く眠る人がいるからです。価値があるかないかで説教の良しあしを判断するのではない。しかし、福音のイエス様のことばは、わたしが愛したように互いに愛し合いなさいと言われるのです。
それでシカゴに留学していたころのことを思い出すのですが、キャロル神父さんは、旧約聖書学者で著名な著作者でしたが、目が悪かったので、わたしは彼の運転手になって、プールに一緒に行ったり、黙想会指導の折には、シカゴやセントルイスのいろいろな教会まで運転しました。その途中、いつも神父さんが話しかけてきて、家族のこと、勉強のこと、日本のこと、困難や希望などわたしのつたない英語力でポツリポツリ話すことばを熱心に聞いて質問して、また聞いて質問してと根掘り葉掘り聞いてくださったのです。普段神学院では著名な教授なので近づくことができない方でしたが、本当に心から分かち合えて、楽しく喜びに満たされたことを覚えています。 最近では、マレーシアの東ボルネオの山奥からきた神父さんが日本を訪問して、彼とは台湾で一度会っただけでしたけれども、あなたに会いに来ましたというものだから断れず、カテドラルと大阪城を案内しました。案内するにも大阪城はどう行けばよいのかも知らないほどでしたが、道道、あれこれ話しが合って、ずっと彼は上機嫌でした。話題は教会のこと、司牧の計画などなど次から次に、久しぶりに楽しい気持ちになりました。彼はイエス様から頼まれれて来たようなほっとするような心安らぐ旅人でした。
わたしたちには友人が要ります。 今日は、鶯祭り。イエスの愛で満たされるように話を聞きましょう。人の話ばかり聞いていると疲れますか? そんなときは、わたしの話を聞いてくれる人がいないと、あれこれパニックにならなくても、イエス様があなたの友となって訪問してくださることを思い出し、ゆっくりと話す時間の余裕を持ちましょう。きっとすばらしい時があり、喜びにみたされることでしょう。