KKOTTONGNAE ( お花の村)
第13回国際カトリック・カリスマ刷新奉仕会(ICCRS)のテーマは、「Love in Action 」で、愛のトレーニングセンター(The training Institute of Love)があるKKOTTONGNAEの共同体の本拠地で開催されました。ここの摂理的な創立の歴史と精神を簡単なパンフレットの説明文を読んで、実際の姿を見ると驚きの連続です。すべてがスケールが大きいのです。韓国でしかできない愛の共同体です。日本のカトリック教会では考えられないほどの家族愛と信仰の強さと芯の強さを感じました。日本のカトリック教会では、ほとんど紹介されることもないので、簡単な創立物語を掲載してみました。英語で読める人は、Kkottongnaeのホームページをご覧ください。http//www.flower-vill.com コトンネの紹介
KKottongnae ( 花村 )の名前は、人々がもっとも美しい花という意味で名付けられました。またイエスの故郷、ナザレトも花の町の意味があるそうです。私にはどう表現していいのかわからないこともあります。ここの祈りの精神は、カリスマ刷新の祈りの方法、賛美の祈りを使い、異言での祈りが強調され、月二回は徹夜の賛美の祈りが行われると聞きました。したがって、この福祉的な愛の共同体とどこでどう結びついたかはいまだ秘密が解けないままです。わたしが推測するのに、王神父自身はいわゆる個性の強いカリスマ的な指導者ですが、その手足となって働いているブラザー申は、カリスマ刷新により聖霊の満たしを受けた人で、医者でもあり、さまざまな渉外や国や州などの福祉機関と連絡を取り、施設、医療設備、また看護大学の設立などを準備し、またICCRSの国際委員でありアジア代表になっている人で、今回のICCRSの国際大会を成功に導いたのです。彼が橋渡しをしたと言えるでしょう。王神父が長年夢に描いたこと、バチカンの高官がこの施設を訪れて福音の証を認める喜びの日となったのです。
ICCRS会長ミッシエル・モーラン女史から記念品を受けるBr申)トッポ枢機卿らインド、韓国の司教団
http://www.kkot.or.kr
http://www.hcwy.org
パンフレットにある創立の経緯を要約しました。続きをクリックしてください。大会二日目、創立者王神父自身が創立の摂理的な人生の転機を語る
KKottongnae ( 花村 )の名前は、人々がもっとも美しい花という意味で名付けられました。またイエスの故郷、ナザレトも花の町の意味があるそうです。私にはどう表現していいのかわからないこともあります。ここの祈りの精神は、カリスマ刷新の祈りの方法、賛美の祈りを使い、異言での祈りが強調され、月二回は徹夜の賛美の祈りが行われると聞きました。したがって、この福祉的な愛の共同体とどこでどう結びついたかはいまだ秘密が解けないままです。わたしが推測するのに、王神父自身はいわゆる個性の強いカリスマ的な指導者ですが、その手足となって働いているブラザー申は、カリスマ刷新により聖霊の満たしを受けた人で、医者でもあり、さまざまな渉外や国や州などの福祉機関と連絡を取り、施設、医療設備、また看護大学の設立などを準備し、またICCRSの国際委員でありアジア代表になっている人で、今回のICCRSの国際大会を成功に導いたのです。彼が橋渡しをしたと言えるでしょう。王神父が長年夢に描いたこと、バチカンの高官がこの施設を訪れて福音の証を認める喜びの日となったのです。
ICCRS会長ミッシエル・モーラン女史から記念品を受けるBr申)トッポ枢機卿らインド、韓国の司教団
http://www.kkot.or.kr
http://www.hcwy.org
パンフレットにある創立の経緯を要約しました。続きをクリックしてください。大会二日目、創立者王神父自身が創立の摂理的な人生の転機を語る
KKOTTONGNAE <コトンネ>(お花の村)についての紹介
コトンネ村は、英語で花村と訳されますが、韓国の救いと愛の共同体です。共同体は、家族や社会から見捨てられた人々や愛の欠如のために、橋の下や路上に黙って捨て置かれている人々を温かく迎えて世話をします。これらの人々は、たいてい頼れる人もなく、物乞いをする力もない人たちです。コトンネは、食物、宿泊施設、衣服、医療の世話をいたします。コトンネは、また、この人たちに神の愛を示し、彼らが亡くなった際には葬儀もいたします。
コトンネは、ヨハネ王神父(John Oh Woong-Jin)によって創立されました。王神父は、全生涯を貧しい人々に捧げています。韓国のChungbuk 州に農家の息子として1944年3月22日に生まれました。
一人の子供の夢
少年、王神父は小学校の低学年に通っていた頃、朝鮮戦争を経験しました。ある日、学校の下校時に、近くの小川に、水を飲みに行くのをやめました。小川では、エビのことで言い争っている避難民の男とその娘を見たからでした。もっと近寄ってみると、少年は、どちらがえびを食べるべきかで言い争っているのに気付きました。幼い娘は、小川でえびを捕まえたので、お父さんに食べさせたいと望んだのですが、お父さんは、それを娘に与えようとしていたのでした。そのお父さんは、爆弾の破裂で足の一つを失い、片足しかなかったのです。この日の出来事を見て、王少年は、自分も大変空腹でしたが、飢えでなくなる人々のために自分の生涯を捧げる人になる夢を見始めました。その夢を実現させるために、1976年、カトリック司祭になったのです。最初の任務地として、Geumwang 教会に赴任しました。
出会い
1976年9月12日、王神父は、“尊い息子”(Kwi-Dong:Peter Kyong-Lak Choi )という名前の一人の老人に摂理的に出会いました。この出会いによって、王神父の生涯は永遠に変えられたのです。その日、王神父は教会のそばを一人の乞食が通り過ぎるのを見ました。好奇心から、王神父は老人の後をつけました。王神父が見たものは、彼を驚かせびっくりさせるものだったのです。ヨングダム山の麓の防空壕に住んでいる、18名の乞食が、誰も助ける人がなく、物乞いする力もないが一緒に寄り添っていたのです。仲間たちは、糖尿病患者、精神病、アルコール中毒、盲人、数人の手足の不自由な人などでした。王神父は、爺や、チョイ クィトードングが仲間に対して自分が物乞いをして集めた食物を配るのを見たのでした。彼は11名を食べさせると、ほんの少しの残り物を食べたのでした。
司祭館に戻った王神父は眠ることができませんでした。王神父は、一晩中眠ることができず、寝返りを打ちながら、そのおじいさんのことを考えたのでした。自分で考えて、私は貧しい人々のために生きる私の夢を実現させるために司祭になったが、親爺さんは、私よりも 教育がなく、健康状態も良くないのに、かろうじて物乞いをするだけの強さがあるとしても、すでに愛を実践する生活を送っている。昼間見たことを何度も何度も考えて、翌朝の明け方、突然のひらめきによって洞察を得たのでした。「もしも、食物を乞う力だけでもあるならば、それは主からの祝福にちがいない。」、同じ朝のうちに、王神父は自分が持っている1300ウオン(=1USD)のすべて使って、王神父は、セメントを買って、その乞食たちのための愛の家を建てるためにブロックを作り始めたのです。
1976年10月15日、ヨングダム山の麓に5部屋がある家を建築し始めました。一ヶ月後の11月15日に、家は完成し、チョイ爺さんが世話していた18人の乞食の家になりました。この家を隣人たちは、「愛の家」と呼んだのです。これがKKOTTONGNAEの始まりです。
善きサマリア人と新しい契約
1978年8月16日、王神父は、シャンピョンのバンタン橋の上でこん睡状態におちて死にかけている老人を発見しました。多くの車、多くの人がその傍を通りすぎましたが、善きザマリア人(ルカ10章30~35節)のたとえ話のように誰も助けようとしませんでした。子供のころから、王神父は、路上の乞食や病人をいつも助けてきました。そこで彼は車を止めて、その男を詳しく眺めました。老人を病院へ運ぶ途中、天からの声を聞きました。「今日よりも喜ばしい嬉しい日があるだろうか。大きな喜びをもって、わたしの愛する息子を助けてくれたことに感謝する。わたしはあなたと新しい契約を結ぶ。
もしあなたが私の名のために、これらの最も小さな私の兄弟を受け入れてくれるならば、わたしはその他のすべてを世話しましょう。」 その時から、王神父は、自分の行為は神を喜ばしていると深く体験しました。それ以来、王神父は病人やホームレスを自分が世話をして、彼らの世話をするために必要なことは、準備され始めました。食物、衣類、ボランティア、お金、他の必需品などなど。王神父は、しばしば、修道会との新しい契約について話しました。1991年8月19日の説教では、わたしは、朝食後路上で死にかかっている人が発見され、運び込まれたならば、たとえわたしたちはお昼の食事が不足したとしても、お昼の時間の前に、誰かがいつもやってきてわたしたちのためにお昼を持ってきて来てくれるのです。」
教区の認可
神の愛は聖霊によって近隣の人々に示され、多くの病人やホームレスが共同体に連れてこられるようになりました。これまで、コトンネは13000人の病人と見捨てられた人々を世話しました。4000人は亡くなり、5000人は社会に復帰して、4000人の患者は、共同体に住んでいます。神は全生涯を病人やホームレスを助けるために捧げた若い働き人を準備してくださいました。1979年、一人の若者が生涯をコトネとその使命に生涯をささげるためにやってきました。1981年、二人の少女が自分の生涯をささげることを誓ってこの貧しい人々の愛の家にやってきました。こうして、わたしたちの共同体の基礎がこれらの奉献者によって準備されたのです。現在では、100人を超えるブラザーと230名を超えるシスターが自分の生涯をコトンネとコトンネの使命に身をささげています。
1986年12月27日 聖ヨハネの祝日に、チョンジュ教区のニコラス チェオング司教、(現在の 韓国の枢機卿)がコトンネを訪問し、The Congregation of KKottongnae Brothers and Sisters of Jesusの設立を認可する宣言をなされました。
コトンネ村は、英語で花村と訳されますが、韓国の救いと愛の共同体です。共同体は、家族や社会から見捨てられた人々や愛の欠如のために、橋の下や路上に黙って捨て置かれている人々を温かく迎えて世話をします。これらの人々は、たいてい頼れる人もなく、物乞いをする力もない人たちです。コトンネは、食物、宿泊施設、衣服、医療の世話をいたします。コトンネは、また、この人たちに神の愛を示し、彼らが亡くなった際には葬儀もいたします。
コトンネは、ヨハネ王神父(John Oh Woong-Jin)によって創立されました。王神父は、全生涯を貧しい人々に捧げています。韓国のChungbuk 州に農家の息子として1944年3月22日に生まれました。
一人の子供の夢
少年、王神父は小学校の低学年に通っていた頃、朝鮮戦争を経験しました。ある日、学校の下校時に、近くの小川に、水を飲みに行くのをやめました。小川では、エビのことで言い争っている避難民の男とその娘を見たからでした。もっと近寄ってみると、少年は、どちらがえびを食べるべきかで言い争っているのに気付きました。幼い娘は、小川でえびを捕まえたので、お父さんに食べさせたいと望んだのですが、お父さんは、それを娘に与えようとしていたのでした。そのお父さんは、爆弾の破裂で足の一つを失い、片足しかなかったのです。この日の出来事を見て、王少年は、自分も大変空腹でしたが、飢えでなくなる人々のために自分の生涯を捧げる人になる夢を見始めました。その夢を実現させるために、1976年、カトリック司祭になったのです。最初の任務地として、Geumwang 教会に赴任しました。
出会い
1976年9月12日、王神父は、“尊い息子”(Kwi-Dong:Peter Kyong-Lak Choi )という名前の一人の老人に摂理的に出会いました。この出会いによって、王神父の生涯は永遠に変えられたのです。その日、王神父は教会のそばを一人の乞食が通り過ぎるのを見ました。好奇心から、王神父は老人の後をつけました。王神父が見たものは、彼を驚かせびっくりさせるものだったのです。ヨングダム山の麓の防空壕に住んでいる、18名の乞食が、誰も助ける人がなく、物乞いする力もないが一緒に寄り添っていたのです。仲間たちは、糖尿病患者、精神病、アルコール中毒、盲人、数人の手足の不自由な人などでした。王神父は、爺や、チョイ クィトードングが仲間に対して自分が物乞いをして集めた食物を配るのを見たのでした。彼は11名を食べさせると、ほんの少しの残り物を食べたのでした。
司祭館に戻った王神父は眠ることができませんでした。王神父は、一晩中眠ることができず、寝返りを打ちながら、そのおじいさんのことを考えたのでした。自分で考えて、私は貧しい人々のために生きる私の夢を実現させるために司祭になったが、親爺さんは、私よりも 教育がなく、健康状態も良くないのに、かろうじて物乞いをするだけの強さがあるとしても、すでに愛を実践する生活を送っている。昼間見たことを何度も何度も考えて、翌朝の明け方、突然のひらめきによって洞察を得たのでした。「もしも、食物を乞う力だけでもあるならば、それは主からの祝福にちがいない。」、同じ朝のうちに、王神父は自分が持っている1300ウオン(=1USD)のすべて使って、王神父は、セメントを買って、その乞食たちのための愛の家を建てるためにブロックを作り始めたのです。
1976年10月15日、ヨングダム山の麓に5部屋がある家を建築し始めました。一ヶ月後の11月15日に、家は完成し、チョイ爺さんが世話していた18人の乞食の家になりました。この家を隣人たちは、「愛の家」と呼んだのです。これがKKOTTONGNAEの始まりです。
善きサマリア人と新しい契約
1978年8月16日、王神父は、シャンピョンのバンタン橋の上でこん睡状態におちて死にかけている老人を発見しました。多くの車、多くの人がその傍を通りすぎましたが、善きザマリア人(ルカ10章30~35節)のたとえ話のように誰も助けようとしませんでした。子供のころから、王神父は、路上の乞食や病人をいつも助けてきました。そこで彼は車を止めて、その男を詳しく眺めました。老人を病院へ運ぶ途中、天からの声を聞きました。「今日よりも喜ばしい嬉しい日があるだろうか。大きな喜びをもって、わたしの愛する息子を助けてくれたことに感謝する。わたしはあなたと新しい契約を結ぶ。
もしあなたが私の名のために、これらの最も小さな私の兄弟を受け入れてくれるならば、わたしはその他のすべてを世話しましょう。」 その時から、王神父は、自分の行為は神を喜ばしていると深く体験しました。それ以来、王神父は病人やホームレスを自分が世話をして、彼らの世話をするために必要なことは、準備され始めました。食物、衣類、ボランティア、お金、他の必需品などなど。王神父は、しばしば、修道会との新しい契約について話しました。1991年8月19日の説教では、わたしは、朝食後路上で死にかかっている人が発見され、運び込まれたならば、たとえわたしたちはお昼の食事が不足したとしても、お昼の時間の前に、誰かがいつもやってきてわたしたちのためにお昼を持ってきて来てくれるのです。」
教区の認可
神の愛は聖霊によって近隣の人々に示され、多くの病人やホームレスが共同体に連れてこられるようになりました。これまで、コトンネは13000人の病人と見捨てられた人々を世話しました。4000人は亡くなり、5000人は社会に復帰して、4000人の患者は、共同体に住んでいます。神は全生涯を病人やホームレスを助けるために捧げた若い働き人を準備してくださいました。1979年、一人の若者が生涯をコトネとその使命に生涯をささげるためにやってきました。1981年、二人の少女が自分の生涯をささげることを誓ってこの貧しい人々の愛の家にやってきました。こうして、わたしたちの共同体の基礎がこれらの奉献者によって準備されたのです。現在では、100人を超えるブラザーと230名を超えるシスターが自分の生涯をコトンネとコトンネの使命に身をささげています。
1986年12月27日 聖ヨハネの祝日に、チョンジュ教区のニコラス チェオング司教、(現在の 韓国の枢機卿)がコトンネを訪問し、The Congregation of KKottongnae Brothers and Sisters of Jesusの設立を認可する宣言をなされました。