マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 堅信を受けるあなたへの手紙 (3)

✚主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに!

夏休みが終わり、新学期が始まりました。その後、お元気にしておられますか? 前回の手紙に続いて、堅信の準備の手紙、第三弾です。

 前回の手紙で、信仰の問題を質問で始めました。第一の質問、宇宙の起源の起源について、そして第二の質問は、私たち自身の存在の起源についてです。さて、みなさんの心のなかにどんな反応が起こっていることでしょうか?そんなことは考える必要もない。生きている今が大切なのだと叫ぶかもしれません。明日の試験を無事に終えることに没頭しておられるかもしれません。忙しいのになんて長い手紙を送ってくるのか、こんなの読みたくないと封も切らないまま置いてあるかもしれませんね・・・ でも、9月23日に堅信を受ける心の準備は必要です。だから皆さんの時間にお邪魔して神父のお話も聞いて参考にして欲しいのです。

皆さんの手元にある「聖霊とともに」のテキストでは、ページ4ページと5ページには、「さまざまなチャレンジの時に私たちは意思決定をしなければならない」と切り出して、その決定に聖霊が皆さんの「内なる声」として助けてくださることを書いています。皆さんの人生で大切なとき、つまり、人生の進路を決めるとき、就職するとき、結婚するときなど、また病気になって複数の治療方法を選ぶ時に、みなさんが何をどのように選択するのか?こんな選択の意思を決定する指針はどこにあるのか?皆さんは、何か参考になる原則を持っていますか?チャレンジに対して決断することは、責任が生じることも触れています。このような困難な時に信仰は何の力になるのでしょうか? 

テキストでは、そのような時に、意味のある答えを見出すために、あなたは、一人ではなく、助け手であり、励まし、導きて、私たちの中で燃える火を与えてくださる方、その方がともにおられる。その方が、聖霊であり、「内なる声」の働きだと説明してあります。私たちはこの方をよく知らないので、この「内なる声」を探し求める必要があると・・・しかし、こんなにうまく都合よく働いてくださるのか疑問ですし、近くの大人の信者に堅信を受けたらそのような助けがうけられたのですかと聞いたら、聖霊が導いているなんて実感したこともないと答えるかもしれません。テキストの説明では十分ではないと思います。神様はどこにおられるのですかと聞くと、どこにでもおられます。神様ですから。でもどこであなたは神様に出会いましたかと聞かれると返事に困るというのと似ていますね。

「聖霊とともに」の小冊子のテキストは、すでに幼児洗礼をうけて教会生活をしている皆さんに堅信の秘跡を受ける準備として用意されています。神の存在や信仰の受諾は前提として話されています。しかし、皆さんに知ってほしいことは、聖霊が「内なる声」としてよりも先ず、「神」であること、その信仰を前提として、キリスト教の神概念の非常に特徴ある神の本性、神が「霊」であり「聖」である方で、二つの特性が一つになっている名で呼ばれる方であることを知ってほしいと思います。小冊子のテキストは、洗礼のために勉強したキリスト教の入門の神概念を前提として、これを説明しないまま聖霊の働きについて説明しているのです。(第2章)そこで、再び、あの第一の質問と第二の質問を考えてみることにします。
信仰は決断です。つまり、第一の質問にしても、第二の質問にしても、すべて偶然ですという答えもあるからです。わたしは両親の愛を信じることができたので、第二の答えとして、偶然ではなく、わたしは両親に望まれて生まれてきたと言えたし、第一の答えも、偶然の法則ではなく、すべてに存在の源となる方の愛を信じることができました。他方、偶然と答える人は、次のことばを参考にして考えてみる必要があるでしょう。サルトルという哲学者のことばですが、彼は、「すべては偶然である。われわれが生まれたのも不合理であり、死ぬことも不合理である」と述べました。すべてが偶然ならば、人生に意味も方向性もないことを告白しています。このような人にとっては、自分の決断が重要な意味を持ち、自分にとって役に立ち、意味のあるものだけが、存在の根拠となるのです。そして、現世で自分に価値があると思えることに成功することが人生の目的となります。

信仰者にとっても、人生は決断の連続です。信仰も決断です。しかしながら、この決断は、自分を超える方に対する信頼から生じます。自分に先立つ愛を信じることができるという立場です。これが信仰です。そしてそこから力を得て、他者との交わりに意味を見出していくのです。人々との関わりの中で自分の人生に大きな意味を見出すことができるのです。これは人類共同体全体がそのように発展してきたし、これからも変わらないありかたなのではないかと思います。人類は、第一の質問の垂直の関係と第二の質問の水平の関係のなかで、自らの存在の基盤と意味を見出してきたと思います。

今述べたことは、誰もが人間である以上信頼なしには人間は人間として成長できないことも言えるしょう。人間は共同体の中でこそ生きがいを感じ生きることができるのです。人間は、共同体や愛する人から正当に評価されることによって自分の存在の意義を確かめ受け取るのです。その信頼できる方を、第二の質問の水平的な関係だけに限定できません。より大きな、より深い垂直の関係から自分の存在を見なければ、安定した共同体は成立しないのです。この垂直的な関係を歴史に求める人もいるでしょう。先祖や系図をとおして自分がその縦系列の一員として考えることにより安定した自分の存在の根拠を見いだす方もいます。また象徴的に国の王や天皇を存在の根拠と置く人々もいるでしょう。なぜなら人生に意味を与えるのは、第二の質問の自分のかかわりのある人たちとの愛だけでなく、私の存在、生まれる前から死ぬまでの人生を超える、絶対的な基盤、あるいは源から自分を支え、受け入れ、信頼できるものに受け止められることで、自分の生が無意味になるのではなく、永遠の意味を獲得することができると安心して息を引き取ることができるのです。そうでなければ、人生は無意味です。そう考える人にとって、自分で自分の生涯を閉じることになんら疑問を感じないでしょう。

このように考えると、人は永遠を目指しており、自分を超越する方へと目をむける理由が分かるような気がします。古代において、非常に宗教的でした。どの種族、民族も神を礼拝していました。人類は絶えず危険にさらされていました。寿命も短く、死は隣り合わせでした。従って、相互に依存しなければ生存できなかったし、自然の脅威をもたらすものに威敬の念を持ち、礼拝しました。神は人間の理性や感覚によっては完全に知られる存在ではないので、その力の象徴と像を作り、それを通して人間は礼拝するようになりました。そのうちに、人間は祭儀や典礼の暦をつくりました。祭儀宗教のの始まりです。人間は、自分の希望を投影した像を作り、それを礼拝するようになったのです。このような神像を否定する無神論の論拠には、このことがよくわかります。(1.世界観としての無神論=すべてはモノなので、神を想定しない。唯物主義的歴史観 2.認識論的不可知論 神は人間の経験外なので神秘や秘義の次元を否定し実証主義、合理主義的にしか世界を把握できない。3.自由と自律の人間観を疎外する。「カトリック教会の教え」p10~11)古代は、非常に宗教的だったが、神に信任を受けた為政者によって神の名による民衆支配の手段に使われたともいえるでしょう。ところが、聖書には、このような偶像崇拝の問題について早くから預言者や種々の歴史物語を通して私たちに警告し語りかけています。聖書の神は、イエスラエルの民を通して、ご自分の名前を啓示して、導かれました。こうして、人類は神の名を知るようになったのです。私たちが神の概念の理解を深め、神の名を意識する必要性と神の名によって祈ることの大切さとまことの礼拝が必要な意味を理解する鍵となるものなのです。

皆さんは、「偶像礼拝」と聞いて何を想像しますか?全く無関係だと思いますか?でも、人間が陥りやすいのです。わたしたちは、もはや自然の威力を崇拝することはありませんが、政治や経済、娯楽産業やテレビのタレントやスポーツのスターにあこがれてあがめていることがあります。皆さんの生活の中で中心になっているもの、そこから離れることができないほど皆さんの心をとらえている物や人がありますか? ミューレンという神学者は、キリスト教の神を体験するためには、このことをはっきりさせる必要があると述べてこの質問を作りました。皆さんに、この質問にまじめに取り組んで振り返るようにお願いします。

1.わたしを魅惑し、わたしの心をとらえ、私を夢中にさせるものは何か?

2.来週や来月に、どのような計画や目標がありますか?

3.欲しい物は何ですか? どのような夢をあなたは持っていますか?

4.これらの夢や生きがいを求めるために、わたしはどのくらい力を注ぎこんでいるのでしょうか? わたしの人生の本来の意味、究極的な意味は何でしょうか?

 私たちの意味と目標が、それだけを目指していれば、それが私の神々です!
つまり、これまで討議してきたわたしの第一の質問の答えになっているとすれば、それがあなたの神なのです。あなたの神は誰になってしまったのでしょう?
 
さて、わたしたちは、父と子と聖霊の神を信じています。このような神理解は、人間の側からは生まれてこなかったのです。人間は、理性の自然的光によって被造物を通して神を認識しようとするが、神は完全に知ることができない神秘なるお方です。その方がわたしたちにご自身をあらわされる限りにおいてわたしたちは知ることができるのです。これを「啓示」という専門語を使いますが、わたしたちは三位一体の神の神秘を啓示によってしか知ることはできませんでした。わたしたちは聖書のことばを信じ、信仰の土台にしています。聖書は生ける神からの語りかけであり、それに対する人間の応答の証言なのです。

わたしたちキリスト信者にとっては、第一の質問の答えは、ご自身を啓示する神であり、第二の質問の人生の意義は、この神への感謝の応答になります。
すでに長い手紙になりました。前回の手紙では、「キリスト教の信仰者は、「内なる声」として、イエスという具体的な人の生き方を通して神の愛とその計画を基にして考え、その導きに従うことができます。神はこの世界と歴史の主だからです。目に見えない神は、イエスにおいてインマヌエル(わたしたちとともにいる神)となられました。復活されたイエスは、みことばと聖霊によって今も出来事や信仰者に働きかけ私たちの心に留まります。このことは、次の手紙で書きましょう。」と書きましたが、今回の手紙では、そこまで至りませんでした。お許しください。これは次回の手紙のなかで触れることになります。その前に下の啓示憲章をご覧ください。次回は、この啓示された神の神秘について語りましょう。


参考文献:啓示憲章1章4項(啓示の頂点と完了)
「神は、幾度となく、種々の方法で、預言者たちによって語ったが、最後に、御子によって我々に語った(ヘブライ1章1~2節)、実際神は人間の間にとどまって神の秘義を人間に示すため、御子、すなわち、すべての人を照らす永遠のみことばを遣わした(ヨハネ1章1~6節参照)。人となったみことばであり、『人間に遣わされた人間』であるイエス・キリストは、『神のことばを語り』(ヨハネ3章34節)、父からご自分に託された救いのわざを遂行する(ヨハネ5章36節、17章4節 参照)。したがって、『わたしを見る者は、父を見る』(ヨハネ14章9節 参照)。そのキリストは、自分自身の全的現存と顕現により、ことばとわざにより、しるしと奇跡により、なかでも、おのが死と死者の中からの栄えある復活とにより、最後に真理の霊の派遣によって、啓示を完全に成し遂げ、神がわらわれを罪と死のやみから救い、永遠の生命に復活させるため、われわれとともいるということを神的なあかしをもって証明している。後文省略(詳しくは啓示憲章1章2、3、4、5、6項参照)」


✙ 聖霊、来てください。
信じる者の心を愛の火で燃やしてください。
畠 基幸 神父

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