十字架の称賛の祝日
十字架の称賛の祝日は御受難修道会にとっても会の固有の祝日です。
この日の時課の典礼の読書課では十字架の聖パウロの手紙が会員にとっては決められた朗読箇所になります。
読書課
第二朗読
十字架の聖パウロの書簡集より
(Lettere II,825; 1, 184, 275,277)
この日の時課の典礼の読書課では十字架の聖パウロの手紙が会員にとっては決められた朗読箇所になります。
読書課
第二朗読
十字架の聖パウロの書簡集より
(Lettere II,825; 1, 184, 275,277)
いかに十字架賞賛の祝日を祝うべきか
十字架賞賛の祝日を厳粛にお祝いしましたか?と問うならばあなたは「はい」と答えるでしょう。しかし、私の質問の意味が本当に分かりますか?十字架の祝日は十字架につけられたお方を本当に愛する者の魂の神殿で時々刻々と祝われます。それはどのように祝われるのでしょうか?今、できるだけよく説明するつもりです。それは、いかなる被造物の助けなくして、静かな苦しみの中で霊的に祝われます。十字架につけられた方を愛する者は、内部の沈黙と苦しみの中で、喜びを持って十字架の祝日を祝うので、外面的には静穏と喜びで祝うかのようです。その祝宴は被造物からは隠されており、至高善のお方に対してだけ開かれています。我々は十字架につけられたお方の愛がそうであったように、お祝いの晩餐にあたって、御父の御旨だけが栄養になるのです。それはどんな甘い滋養ですか?晩餐の料理は様々な方法で調味されます。身体上または、精神的な痛みで、また、人の反対、間違った噂、および嘲笑で。おお、純粋な信仰と聖なる愛、沈黙と望みでそれらを味わう魂の舌に何と甘いことか!
我々の神であるイエスは十字架上で究極的な遺棄を経験されました。このレッスンを学びましょう。来なさい、わたしはそこにあなたを招きます。わたしたちの愛するイエスの葬儀に参加するためにカルワリオヘあなたが愛情において病気になるほど、また、至高者の受難と死に対して憂うほど神的な愛に傷つくようになることを望んでいます。
十字架を取り上げて接吻するとき、あなたの愛を捧げるときなど、捧げ終わるやいなや、神の愛の偉大な海に自分の身を投げ入れてください。純粋な信仰で、しかも、想像力を使わずに、イエスのもっとも純粋な御心のドアを通って入りなさい。聖なるものの中でも最も聖なるものの中で、すべてを神の無限の慈悲の底なしの深淵に投げ入れなさい。神の無限の偉大さ、美、および富の観想まで上昇してください。彼の中で喜んで下さい。蝋の一滴のように、この激しい炎の中で熔けて下さい。イエスの受難のひとかたまりのスパイスの上に自分を横たえて下さい。そうすれば、すべてが燃えます。すべてを灰に帰して下さい。焼き尽くすいけにえとして。
無限の神の御旨の中に自分自身を沈めがら、純粋な信仰でこのすべてを行ってください。何が一束のスパイスに火をつけるでしょうか?あなたは知りませんか?あのように苦しむことを余儀なくされた優しいイエスの際だつ愛によってです。多くの非常に貴重なものを理解する本当の学校である虚無の中でこのレッスンを学んでください。
選ばれた偉大な器、異邦人に対する優れた博士、全世界に真理を告げる者(聖パウロ)はわたしたちの優しい救い主の十字架によってだけ栄光を受けました。非ユダヤ教徒に彼がそれほど深く愛していたイエスという甘美な名前を紹介したとき、彼は大声で叫びました、わたしは、わたしたちの主イエスの十字以外の何ものも誇りません…と。彼はこう言っています。イエス・キリストの体の傷を誇る…と。
わたしたちは十字架の上に精神の深い静けさと喜びのうちに留まらなければなりません。この世の慰めからは完全に離れ、これまで述べてきたような徳を常に行わなければいけません。すなわち、内からも外からも孤独でなければなりません。そうすれば心を平静にすることができます。そして謙遜、沈黙、忍耐、愛を行わなければなりません。
十字架賞賛の祝日を厳粛にお祝いしましたか?と問うならばあなたは「はい」と答えるでしょう。しかし、私の質問の意味が本当に分かりますか?十字架の祝日は十字架につけられたお方を本当に愛する者の魂の神殿で時々刻々と祝われます。それはどのように祝われるのでしょうか?今、できるだけよく説明するつもりです。それは、いかなる被造物の助けなくして、静かな苦しみの中で霊的に祝われます。十字架につけられた方を愛する者は、内部の沈黙と苦しみの中で、喜びを持って十字架の祝日を祝うので、外面的には静穏と喜びで祝うかのようです。その祝宴は被造物からは隠されており、至高善のお方に対してだけ開かれています。我々は十字架につけられたお方の愛がそうであったように、お祝いの晩餐にあたって、御父の御旨だけが栄養になるのです。それはどんな甘い滋養ですか?晩餐の料理は様々な方法で調味されます。身体上または、精神的な痛みで、また、人の反対、間違った噂、および嘲笑で。おお、純粋な信仰と聖なる愛、沈黙と望みでそれらを味わう魂の舌に何と甘いことか!
我々の神であるイエスは十字架上で究極的な遺棄を経験されました。このレッスンを学びましょう。来なさい、わたしはそこにあなたを招きます。わたしたちの愛するイエスの葬儀に参加するためにカルワリオヘあなたが愛情において病気になるほど、また、至高者の受難と死に対して憂うほど神的な愛に傷つくようになることを望んでいます。
十字架を取り上げて接吻するとき、あなたの愛を捧げるときなど、捧げ終わるやいなや、神の愛の偉大な海に自分の身を投げ入れてください。純粋な信仰で、しかも、想像力を使わずに、イエスのもっとも純粋な御心のドアを通って入りなさい。聖なるものの中でも最も聖なるものの中で、すべてを神の無限の慈悲の底なしの深淵に投げ入れなさい。神の無限の偉大さ、美、および富の観想まで上昇してください。彼の中で喜んで下さい。蝋の一滴のように、この激しい炎の中で熔けて下さい。イエスの受難のひとかたまりのスパイスの上に自分を横たえて下さい。そうすれば、すべてが燃えます。すべてを灰に帰して下さい。焼き尽くすいけにえとして。
無限の神の御旨の中に自分自身を沈めがら、純粋な信仰でこのすべてを行ってください。何が一束のスパイスに火をつけるでしょうか?あなたは知りませんか?あのように苦しむことを余儀なくされた優しいイエスの際だつ愛によってです。多くの非常に貴重なものを理解する本当の学校である虚無の中でこのレッスンを学んでください。
選ばれた偉大な器、異邦人に対する優れた博士、全世界に真理を告げる者(聖パウロ)はわたしたちの優しい救い主の十字架によってだけ栄光を受けました。非ユダヤ教徒に彼がそれほど深く愛していたイエスという甘美な名前を紹介したとき、彼は大声で叫びました、わたしは、わたしたちの主イエスの十字以外の何ものも誇りません…と。彼はこう言っています。イエス・キリストの体の傷を誇る…と。
わたしたちは十字架の上に精神の深い静けさと喜びのうちに留まらなければなりません。この世の慰めからは完全に離れ、これまで述べてきたような徳を常に行わなければいけません。すなわち、内からも外からも孤独でなければなりません。そうすれば心を平静にすることができます。そして謙遜、沈黙、忍耐、愛を行わなければなりません。