マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 悲しみの聖母 (御受難会の特別保護者)

九月一五日 悲しみの聖母
御受難会特別保護者 (御受難会固有祝日)

伝統的なものを引き継ぎつつ、一九六四年の第三八回総会で満場一致の賛成によって、悲しみの聖母はわたしたちの修道会の第一級の保護聖人として定められました。これは一九七二年に第一回世界シノドスで、新しい御受難会固有のカレンダーが準備されるに当たり、関係者の問合せによって確認されました。総長顧問会はそのような決議やそこに出席しているすべての修道者の円満な同意を見て、教皇庁に公認を求める手続きをすることを決定しました。教皇パウロ六世は、一九七三年三月八日付の短い書簡の形による使徒書簡「Quam Ardens」によって「悲しみの聖母マリア」が御受難修道会の第一級の保護聖人であるとして公認し宣言しました。
悲しみの聖母の祝日を祝うことは、聖母とともにキリストの御受難の神秘の中に参加を深める機会をすべての御受難会員に提供するものです。彼女を崇敬することは、創立者の足跡に従うことでもあります。創立者は個人的な信心によっても、手紙や説教、すべての使徒職の働きの中でも、御受難の中で聖なる御子と一致している聖母を深く崇敬していました。

賛歌
   ①

十字架の下に御自分を置き、
母は嘆きつつ泣きながら、
最後までイエスの傍らに立たれた。

悲しみの母は、
その汚れなき御心を通して、
イエスの悲しみを分かちつつ、
すべての苦き苦しみを耐えておられる。
剣はその御心を刺し通した。

一人子を深く祝された母は、
どんなに悲しみ痛みを持って苦しまれたことか。
キリストは苦しみの十字架の上に、
母はその下で、
死に行く栄光の息子の心痛を看とられる。


その悲しみが深すぎるため、
涙することなき方が一人。
苦しむキリストを
見つめ続ける敬慕すべき母
言葉なく苦しむ母のその心を、
人間の心はどれだけ味わいつくし、
反復することが出来ようか。

打たれ、嗤笑され、呪われ、汚された心を…。
むち打たれ血塗られた、
いつくしみそのものの息子を見つめる母。

同胞の罪の故に、命が取られるまで、
絶望的な十字架につるされている御子を看取る母。
キリストよ、あなたがわたしを呼ばれるとき、
あなたの母がわたしの避難所でありますように。
あなたの十字架が私の勝利でありますように。
アーメン。




   ②
アダムの悲しい罪の後に、
彼の子供等は自らの運命を見た。
正義は為されなければならなかった。

失われた恩恵、悲しみ、反逆者の肉、
暗い死、祝福されながらも無効にされた希望。
これらすべては罪深い民の上に押し被せられた。

だれがこのアダムの子供を助けるのだろうか。
神お一人ががそうされなかったなら、
神以外の誰がそれを完全に贖うことが出来ただろうか。神以外の誰かを捜しても無駄だ。

神御自身こそが
重荷を負う肉なる者を保証されたのだから。
神は苦しみ、償う。
わたしたちに対する愛のあまりに、
ご自分で罪を贖われる。

これがすべてではない。
イエスの母は共に立つ、
わたしたちが贖われるために、
イエスの御受難に
母の悲しみを添えて参加されるのだ。

私たちの確かな母であることを証する
悲しむ母の姿を、
わたしたち皆はいつも思い起こす。

栄光は父と子と聖霊に。
初めのように 今も いつも 世々に。 アーメン。
第二朗読 
      ①
神の御母の福者ドミニコ司祭による
御悲しみの聖母の黙想
(フランス語からの翻訳は自伝的書簡 
AGCP、B.I,VIII,VI-16から)

 御子をこよなく愛された聖母の悲しみは本当に深淵であり、どのような悲しみもそれに勝らなかったのです。誰もそれをはかることが出来ません。悲しみは、愛の結果であり、悲しみはいつもその愛につり合って大きくなります。心が何かを愛するほどに、それを失ったり、死別したりすればその苦しみもそれだけ大きくなります。悲しみは愛の偶面の印です。愛は悲しみの深さのユニークな原因です。マリアの苦しみをはかるならば、わたしたちはマリアがいかにイエスを愛されたかが分かるでしょう。

 しかし、だれが、彼女の神でもあった彼女の一人子への母としての愛の熱意を測定することができるでしょうか?この地上では母の子供に対する愛以上に、優しく生き生きとし強いものはないと思います。母だけが、母の愛が何であるかを知っています。したがって、私は世界の母なるものに問いかけます。「あなたはどれほどあなたの子供を愛しているのでしょうか、もし言うことが出来るなら言って下さい」と。神様が我々に対する愛の強さについて質問を受けるなら、神様御自身は母性愛のイメージを使われるのです。神様は、この勉上でこれ以上大きな愛を見つけることが不可能であると知っておられるからです。

 かくして、あなたはもう既にマリアの愛の何であるかをお解りになっています。彼女はイエスの本物の母でした、イエスは母マリアにとって誠にユニークで無垢で想像を超える愛らしい一人子でした。この母マリアの心と一人子の心は一つとなり、マリアの愛の強さと情熱をさらに増幅します。彼女の御心はもっとも崇高な感情を持ち、一人子の御心とはまったき愛であり、罪なき心であり、完全な愛であられるのです。
 
 彼女の心は絶えず成長していました。いつの時にもマリアはその一人子に栄誉を捧げ、一人子はマリアに尊敬を捧げていました。それはいつも愛がまし加わる新しい機会となったのです。マリアのもっと力強い愛の源となったものは、イエスが彼女の一人子であるばかりでなく、イエスが彼女の神でもあったと言うことにつきます。この源こそはマリアにとって、もっとも偉大で力強く豊かさに満ち満ちており、他のものは比較すれば取るに足らないものでした。マリアは神を非常に熱心に愛しました。その熾烈さは全ての生ける被造物の愛と、全ての母の愛と、全ての聖人、全ての天使の愛を一つにまとめても足りないほどです。

 わたしはマリアの神への愛の大きさを確信します。しかしイエスは彼女の子であり、彼女の神なのです。もしそうすることができるなら、イエスに対するマリアの愛の大きさを想像してください。それはかならずわたしたちの想像を超えているでしょう。ああ、しかし、彼女の悲しみは愛の深さ、大きさに釣り合っていました。彼女が優しく愛すれば愛するほど、彼女はそれだけ心に深く傷ついたのです。イエスより愛すべき息子を見つけるのは不可能です。そしてマリアがイエスを愛したよりももっと愛することは不可能です。どんな悲しみもマリアのそれに勝るものはありません。なぜなら彼女の子以上に愛らしいものはいないからです。


答唱
先 マリアは、十字架上に死に行くイエズスのそばで、魂においてイエズスと共に死を味わわれた。
答 愛のきずなで御子に結ばれて、母は御子の十字架に釘づけられた。
先 槍がキリストのわき腹を開き、剣が母なるおとめの魂を刺し貫いた。
答 愛のきずなで御子に結ばれて、母は御子の十字架に釘づけられた。

神の御母の福者ドミニコ司祭のマリア論から
(イタリア語のAGCP原稿、B.1、VIH、VI-16,ParteH1影写本)

〝イエスの十字架のそばには母マリアが立っていた〟
 
 イエスは偉大な犠牲を成就する山、カルワリオにつきます。その犠牲こそはアダムの子孫の罪を贖い、神と人間の間に永遠の契約を打ち立てるのです。新しいイサクのように、彼は肩で幡祭の木を運びます。イエスは偉大な愛のドラマを展開する舞台に近づくにつれ、彼の歩みを早めます。神はしかしながら、イエスがたった一人で犠牲をお捧げになることを欲しませんでした。イブがアダムに対して陰謀者であったごとく、神はマリアに創造の秩序を回復する過程においてイエスの同伴者となることを望まれたのです。それ故に、神はこの高貴な婦人がカルワリオに行き、犠牲を看取るためだけでなく、贖いの内にパートナーとしての役割を果たすように促されたのです。

 悲しみと愛の強さに促され、マリアは血にまみれた一人子の足跡に従います。彼女は彼のうめきを聴き、彼の受ける暴力の激しさを見ます。ああ、マリアの御子はこれ以上耐えられるような拷問はないといえるほどの苦しみを受けます!

 ついにマリアは真のイサクがいけにえとして捧げられるカルワリオの丘にやって来ます。そこに着くと、荒れ狂ったような叫び声とイエスの敵達の狂喜の叫びを耳にします。彼らは長い間望んでいた目的であるイエスをついに手に入れ、ほくそえみます。マリアは彼等がイエスの衣を素早く剥ぎ取るのを見ています。彼等がイエスを荒い表面の十字架の上に投げ出すのを。そしてイエスの手のひらに乱暴に釘を刺し重いハンマーで打ちつけるのを。

 イエスの十字架刑は終わりました。しかし、マリアの御心が刺し貫かれるということはまだ終わっていません。イエスは彼女の目の前に、世界中が見るように十字架に上げられました。マリアはイエスの足元で荒れ狂う波に打ち付けられてもびくともしない岩のように悲しみに打たれながらも勇敢に立ち続けます。  〝イエスの十字架のそばには母マリアが立っていた〟。母はイエスの言葉の一つ一つに注意深く耳を傾けます。イエスが天の父に自分を迫害する者のために許しを請う言葉を。悔い改める盗人を許しだけではなく天の国を憐れみ深く約束されたかを。

 罪人のためのキリストの愛は、聖母がわたしたちを愛するように促した。しかし確かに、彼女の愛の最もすばらしい動機は、イエスが残した遺言です。彼は弟子を見て、母を見ます。そして優しく、しかし鋭い言葉で言われます。婦人よ、これがあなたの息子です。母よ、彼を見て下さい。わたしは彼をあなたの息子として残していきます。あなたが私にしてくれるように彼にしてください。今、彼の母となりなさい。彼にする事は私にしてくれることです。
 
 ああ、なんと幸いな弟子でしょうか!しかしわたしたちも同じように幸いなものです。ヨハネにおいて全てのキリスト者はマリアに捧げられました。今度はあなた方に、これらの言葉がマリアの御心にどんな感情を喚起したかを、考えて見ていただきたいと思います。マリアの御心は愛と悲しみの力によって溶かされる蝋のように、どんな形にも変わることができます。
 
 最後に、苦しみの海に浸りつつ、イエスは、彼の霊を聖父の御手にゆだね死につきます。マリアにとっては、物理的太陽が地上を照らすために戻るときには、正義の太陽は暗くされているのです。

 イエスが死んだ後に、マリアは何をするのでしょうか?彼女は十字架の下に、恐れなく留まっています。〝イエスの十字架のそばには母マリアが立っていた〟。彼女の息子に対する新たな虐待を目にするために。槍を持った残酷な兵士がやってくる。イエスの御心を突き刺すようせきたてられて。止めよ、野蛮人よ、止めよ。彼を傷つけるな。せめて十字架の下で悲しんでいる母に憐れみを持て。しかし兵士は聴きません。彼はイエスの脇腹に槍を突き刺し、御心を貫きます。

 おお、シメオン、これが乙女マリアの御心に突き刺された剣です。ああマリアよ、イエスの魂はもはやそのお身体にありません。しかしあなたの魂は引き離されることはありません。ヨアブは三本の槍で一つの心を突き刺しました。しかし今この二つの御心は槍の一突きで同時に貫かれたのです。

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