諸聖人の祝日
諸聖人の祝日の解説は、当日の「聖書と典礼」の7ページをご覧ください。典礼学者の南雲正晴神父(フランシスコ会)によって分かりやすく説明されています。
<和歌山県新宮市>
北摂地区から派遣されてカトリック新宮教会共同体で諸聖人の祝日のミサをささげました。教会は現在新築中で、駅近くの会館「蓬莱会館」をミサの仮聖堂として日曜日の朝を借り切って行います。(来年3月完成の予定)
10月23日にローマで助祭叙階の恵みを受けた田中ひろと(博人?)助祭のお父さんがローマでの叙階式の様子を報告。助祭叙階までに16年かかったこと、イタリア語で息子さんが挨拶した様子が堂々して頼もしかったこと、また信仰の恵みを日々の両親の姿から学んだと息子が紹介し話した時に、それまで邪魔になるのではとローマに行くことをためらっていたが、親として来てよかったと感じたことなどを涙で話され、皆さんから拍手を浴びられました。新求道共同体の神学生は、高松からローマに移り、神学院長 平山司教のもと、司祭叙階まで勉学を続けることになりました。日本には派遣されないのではないかとお父さんはさびしそうに話されていました。
<和歌山県新宮市>
北摂地区から派遣されてカトリック新宮教会共同体で諸聖人の祝日のミサをささげました。教会は現在新築中で、駅近くの会館「蓬莱会館」をミサの仮聖堂として日曜日の朝を借り切って行います。(来年3月完成の予定)
10月23日にローマで助祭叙階の恵みを受けた田中ひろと(博人?)助祭のお父さんがローマでの叙階式の様子を報告。助祭叙階までに16年かかったこと、イタリア語で息子さんが挨拶した様子が堂々して頼もしかったこと、また信仰の恵みを日々の両親の姿から学んだと息子が紹介し話した時に、それまで邪魔になるのではとローマに行くことをためらっていたが、親として来てよかったと感じたことなどを涙で話され、皆さんから拍手を浴びられました。新求道共同体の神学生は、高松からローマに移り、神学院長 平山司教のもと、司祭叙階まで勉学を続けることになりました。日本には派遣されないのではないかとお父さんはさびしそうに話されていました。
説教のポイント:
「聖書と典礼」の第一朗読ヨハネの黙示(7章2~4,9~14)下段の説明にあるように、14万4千人は、1万2千×12部族で象徴的数字で無数の神の民のことです。諸聖人は、名のある聖人も名のない聖人も、すべての聖人を祝いますが、それは、すべてのキリスト者を「聖なる者」(ローマ15:25)とパウロが呼びかけたように、洗礼を受けたすべての人は聖性に招かれており、それは、第二朗読では、使徒ヨハネの手紙(1ヨハネ3章1~3)に、「わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」と、洗礼の恵み、救いの約束が語られています。
わたしたちには、聖人といえば特別な人で私たちには何の関係もないと考えがちです。しかし、教皇ヨハネ・パウロ二世は、在位28年間で1338名の福者、482名の聖人を列福、列聖しました。「聖性は少数の人間だけの賜物ではない」という信念を表明されています。決して在名中は、世の中の英雄のようにもてはやされませんが、死後、その聖性は輝いて時代を超えて尊敬されます。南雲神父の説明では、聖人は、殉教者の時代、殉教者(あかし、マルティス Martys)のことで、イエスご自身が殉教者だったから、迫害の時代がすぎて、主の受難と死をとおして主の過越に参与する意味は、文字通りの殉教の血のあかしから英雄的な信仰者の生涯の信仰のあかしを敬うようになったということです。
今年は、福者ダミヤン神父が列聖されました。それは治癒不可能と考えらた癌が聖人のとりなしにより奇跡的に癌が消えたからです。ダミヤンを尊敬するハワイの婦人の証言からです。列聖を待つ福者も多くいます。トレントのワールドユースディでは、福者カテリ・テカクウイタが注目を浴びました。亀族のインディアンで、洗礼を受けたために迫害を受け、同族の男性の回心と赦しのために苦行をした。カナダの原住民の守護者と考えられていますが、死後多くの奇跡的ないやしが報告され、福者となり、今でも列聖のための祈りがささげられています。昨年は御受難会の福者が列聖されました。彼も死後たくさんの病人が癒されましたが、生前から多くの人が祝福に集まり、祝福を受けた人が癒されたことが話題になりました。カトリック教会では、奇跡が目に見えない救いのしるしとして、確かに聖性があれば、そのしるしが現れると考えているからです。
キリスト者の場合、親しかった友人や家族が亡くなると、その聖性のしるしが確かに現れることがあります。わたしの家族では、母が亡くなった後に、父も兄も交通事故にあってもほとんど無傷になったり、難病の手術の結果がよかったりしています。また教会の信者さんでも、一緒に活動していた方が亡くなり、その友人が葬儀に参加したあと、病気の奇跡的な回復があったりします。上から、すなわちキリストの復活の力に与り、とりなしてくださるからでしょう。これは周囲でもたまにあることですが、カトリックでは公表することは慎重にも慎重に扱います。こういう種類はすぐに大げさに宣伝されることになりかねないからです。聖人と公にされなくてもこのように普通の信者や司祭でも死後にそのようなしるしがあらわれることはあるのです。これは、無名の聖人だったことがしるしによって確信でき、残された遺族や友人に慰めと信仰の励ましを与えるわけです。
今年は、司祭年、アルスの聖人ビアンネのことは特筆に値します。
彼の心臓は取り出されて飾られ、その死体は150年たった今も腐敗を免れて、そのまま眠るように安置されています。これは本当にすごい聖なるしるしでしょう。
「聖書と典礼」の第一朗読ヨハネの黙示(7章2~4,9~14)下段の説明にあるように、14万4千人は、1万2千×12部族で象徴的数字で無数の神の民のことです。諸聖人は、名のある聖人も名のない聖人も、すべての聖人を祝いますが、それは、すべてのキリスト者を「聖なる者」(ローマ15:25)とパウロが呼びかけたように、洗礼を受けたすべての人は聖性に招かれており、それは、第二朗読では、使徒ヨハネの手紙(1ヨハネ3章1~3)に、「わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」と、洗礼の恵み、救いの約束が語られています。
わたしたちには、聖人といえば特別な人で私たちには何の関係もないと考えがちです。しかし、教皇ヨハネ・パウロ二世は、在位28年間で1338名の福者、482名の聖人を列福、列聖しました。「聖性は少数の人間だけの賜物ではない」という信念を表明されています。決して在名中は、世の中の英雄のようにもてはやされませんが、死後、その聖性は輝いて時代を超えて尊敬されます。南雲神父の説明では、聖人は、殉教者の時代、殉教者(あかし、マルティス Martys)のことで、イエスご自身が殉教者だったから、迫害の時代がすぎて、主の受難と死をとおして主の過越に参与する意味は、文字通りの殉教の血のあかしから英雄的な信仰者の生涯の信仰のあかしを敬うようになったということです。
今年は、福者ダミヤン神父が列聖されました。それは治癒不可能と考えらた癌が聖人のとりなしにより奇跡的に癌が消えたからです。ダミヤンを尊敬するハワイの婦人の証言からです。列聖を待つ福者も多くいます。トレントのワールドユースディでは、福者カテリ・テカクウイタが注目を浴びました。亀族のインディアンで、洗礼を受けたために迫害を受け、同族の男性の回心と赦しのために苦行をした。カナダの原住民の守護者と考えられていますが、死後多くの奇跡的ないやしが報告され、福者となり、今でも列聖のための祈りがささげられています。昨年は御受難会の福者が列聖されました。彼も死後たくさんの病人が癒されましたが、生前から多くの人が祝福に集まり、祝福を受けた人が癒されたことが話題になりました。カトリック教会では、奇跡が目に見えない救いのしるしとして、確かに聖性があれば、そのしるしが現れると考えているからです。
キリスト者の場合、親しかった友人や家族が亡くなると、その聖性のしるしが確かに現れることがあります。わたしの家族では、母が亡くなった後に、父も兄も交通事故にあってもほとんど無傷になったり、難病の手術の結果がよかったりしています。また教会の信者さんでも、一緒に活動していた方が亡くなり、その友人が葬儀に参加したあと、病気の奇跡的な回復があったりします。上から、すなわちキリストの復活の力に与り、とりなしてくださるからでしょう。これは周囲でもたまにあることですが、カトリックでは公表することは慎重にも慎重に扱います。こういう種類はすぐに大げさに宣伝されることになりかねないからです。聖人と公にされなくてもこのように普通の信者や司祭でも死後にそのようなしるしがあらわれることはあるのです。これは、無名の聖人だったことがしるしによって確信でき、残された遺族や友人に慰めと信仰の励ましを与えるわけです。
今年は、司祭年、アルスの聖人ビアンネのことは特筆に値します。
彼の心臓は取り出されて飾られ、その死体は150年たった今も腐敗を免れて、そのまま眠るように安置されています。これは本当にすごい聖なるしるしでしょう。