マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 主の公現(祭日)  1月3日

入祭唱 見よ、すべてを支配する主が来られる。王国と権能と主権は、その御手のうちにある。

14世紀リブロ・デ・アポロニオ作 マドリード エスコリアル図書館所蔵 主の公現三王礼拝図 わたしたちは東方から王を拝みに来た。

「すべての民の光である父よ、あなたはこの日、星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。」
説教:
 正月の三が日、皆さんはどのようにお過ごしでしょうか?
 司祭館では今年はデニス神父がクリスマスから入院しておりましたが、この正月の三日間だけ外出許可が出て、ご一緒に新年の祈りをささげることができました。今日も一緒に皆さまのために一年の祝福を共に祈っておられます。元旦には、遠く離れていた息子や娘さんが帰って来られて一家団欒のひと時を過ごされた方も多かったかと思います。司祭にとっては、ゆっくりした時間で、今年一年の夢や希望を思い描きながら、教皇様の平和の日のメッセージや池長大司教様の新生15年目の記念のメッセージなどを読みました。司牧現場の司祭として、池田教会の宣教司牧のあらゆる場面で生かしていくことができればと願っています。

 このような司牧計画や活動の根源には、わたしたちの信仰の理解の基盤を共有することが必要でしょう。一年の計は元旦にありとも言いますが、教会の典礼では、この三日間、キリストの神秘を祝う濃密な内容になっています。元旦は、「神の母」、二日は、三位一体の使徒信条、ニケア・コンスタンチノープル信条の背景になる三位一体の神学に貢献した教会博士、聖バジリオとナジアンズの聖グレゴリオ、二ッサの聖グレゴリオのカパドキアの三教父の前者二人を祝います。そして今日、諸国民の救い主として顕現された神のひとり子の栄光の出来事を祝います。

 この三日間の典礼の中に、福音朗読のキリストの降誕の出来事を語る降誕物語の枠組みの中に、「信仰の光によって歩むわたしたち」自身のために、その出来事の中に含まれる信仰を解き明かす朗読箇所が第二朗読の聖書箇所において提供されています。いつも年の初めにそれを思い起こし、理解して、実践に生かすようにしたいものです。
(説教では以下の聖書箇所は割愛)
 一日目 ガラテヤ書4章4~7: 神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を私たちの心に送ってくださった事実からわかります。
 二日目 1ヨハネ2章22~28: 御父と御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言いあらわす者は、御父に結ばれています。・・・あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
 三日目 エフェソ3章2、3b、5-6:今や霊によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。

 大司教様の年頭の「教区新生の日メッセージ」においては、「新生15年 生気あふれる教会に向かって」と題して、活気にみなぎった教会の姿を楽しむことができるように願っておられ、交わりあかしする5つの教会像が新生15年たって具体的な姿としてあらわれているかを省みることから、活気みなぎる教会の姿をいくつか挙げておられます。
 三つの観点として、
 Ⅰ.社会に向かって宣教する教会
 Ⅱ.信徒としての奉仕職に取り組む教会
 Ⅲ.青少年が集まる活気ある教会

 この中でも三番目は、召命の危機ともいうべき時代、今年は司祭年を祝っていますし、教区も召命に力をいれるように、とくにクリスマス後の教区全体集会での池長大司教様のメッセージ、活を入れるような表現でしたが、青少年が集まる活気ある教会の項目はぜひとも皆さんが(担当司祭)が評議会と共に読んで研究し実践してほしいと望まれました。
 青少年が、教会の価値観のすばらしさを自然に学び取るような取り組みをして欲しいとのことです。

 この点に関しては、教皇の「世界平和の日」のメッセージに教会の責任という項目(12)の中では、「自然という書物は唯一で不可分です。自然という書物には、環境倫理だけでなく、個人倫理、家庭倫理、社会倫理も含まれます。わたしたちの環境に対する責務は、人格にたいする責務に由来します。この場合、人格を個人として、また他者との関係においてとらえなければなりません。」と述べられております。
 「自然という書物」という観点で、今日の朝日新聞の社説(2010年1月3日)には、「摂理」という言葉が出ておりました。「地球文明ー低リスク型へかじ切る年に」の中で、生物医学者ルイス・トマス氏(人間という壊れやすい種)を引用して、『地球では、多種多様な種が「共生」するのが摂理だ。生存競争に勝った種であっても、すべてを奪いつくすことはない。・・・人間という種はなお未熟で過ちを犯しやすい」。宗教色のない朝日新聞でも、「君臨」から「共生」へと頭を切り替えることを提唱していました。

 教皇は、13項で、単なる自然の偶然ではなく、神の愛の計画、つまり、摂理とは、「造り主がその手の業のうちに刻んだ『文法』を尊重します」と述べているのです。

(以下の点は説教では割愛しました。) 
 この文法は、この三日間で祝う典礼の秘義の中で、頂点に達します。それは、教皇が、何度も繰り返すように、教会の価値観の宝は、「人格」の概念にあり、「環境にたいする責務は人格に対する責務にある」と述べられている背景であります。古代の神学論争は、キリストが神であるという信仰から始まっています(ヨハネとパウロの信仰)が、唯一神の神概念のなかでこの信仰を消化するために古代の教父たちが論争したわけです。その中で異端になる考え方には、従属説と様態説があります。
 従属説には、御子が御父に従属しているという場合に、御父が大きい神で御子が小さい神がいる二人の神のように考えられたり、一神教に捉われると御父から生まれた御子は永遠ではないという説に傾きます。これはアリウス派の異端に代表されます。御子を被造物(神ではない)と考えたのです。これがニケアで開かれた公会議(325年)で、御子キリストが父なる神と同一本質のかたであるとニケア信条「神よりの神、光よりの光、造られずして生まれ、父と一体(同一本質)なり。すべては主によりて造られたり。」にまとめられました。私たちがよく使う祈り、「栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン」が、アリウス派に対抗するために造られた賛歌でした。
 次に、4世紀後半、聖霊の神性が否定される考えが現れてきました。聖霊が神でなければ、わたしたちうけているいのちの賜物は神からのものでなくなります。キリスト教の救いの理解から、つまり聖書の理解から離れてしまいます。この異端に対抗する論争が、二日に祝われるカパドキアの教父たちの三位一体論の神学の発展につながりました。父と子と聖霊は、それぞれ他と異なった自存者(ないしはペルソナ)であり、父であること、子であること、聖霊であることは、相互の関係の違いによって区別されます。しかし、三者は神の本質を共有し、皆、神性をもっています。すなわち神は父と子と聖霊の三位一体の神である。」これが、381年の第一コンスタンチノープル公会議で、正統信仰の要として、先にニケア信条(325年)に、聖霊の信仰箇条を付け加えて、聖霊を「主であり、いのちの与え主、父から発出し、父と子と共に礼拝され栄光を帰される方、預言者を通して語られた方」として、その独自性と神性が強調されたました。
 
 様態説は、同じ唯一の神が時と場所で違った顔になるというような考えで、父と子は同じ神となってしまうことになります。主体を強調する従属説と神の一性を強調する様態説の対立は、三位一体論の形成の過程で、顔に主体(位格)を与えることで統合されたのですが、わたしたち東洋の者には、それでも解決していないように感じるのは、なじみがある化身といったものとか、宗教が違っても同じ神ですというような捉え方の根には、日本的な発想が漠然としてあることでしょう。古代のキリスト論(上からキリスト論)と現代のキリスト論(下からのキリスト論)は、この点で比較してみると面白いものがあります。イエスは神の子の位格(ペルソナ)において神性と人性があるというのは、非常に消化しにくい信仰内容ですが、キリストの神性にもかかわらず、完全な人間性があるという正統信仰(カルケドンの公会議)と確立する古代の論争過程を見ることができます。(1、325年ニケア公会議、2、381年コンスタンチノポリス 3、431年 エフェソ公会議 4、451年 カルケドン公会議 6、681年第三コンスタンチノポリス公会議 )(割愛)

 この神学論争は、聖アウグスチヌスにおいてようやく落ち着きます。教皇は、聖アウグスチヌスや聖ボナベンツーラの研究を若い時にされていますので、ペルソナの定義を、「関係性における存在」と述べておられます。参照:「新ローマ教皇 わが信仰の歩み」(里野泰昭 春秋社)

(説教に戻って)
 人格的というと難しい言葉ですが、この元旦に若い夫婦と赤ちゃんが祝福を求めてこられました。赤ちゃんの目を見てにっこりすると赤ちゃんが笑って、わたしとかかわってくれました。このように人間には関係によって目覚めてくるものがあります。赤ちゃんが両親の呼びかけに応えて次第に言葉を覚え、次第に人間性に目覚めていく。これは類比的ですが、神様との関係もそのようなものなのです。わたしたちが聖霊に満たされて、御父と御子の永遠の我と汝の関係の中に入ることができる。それはアッバと呼ぶ霊を注がれたからだとパウロが述べているのです。
 青少年たちとのかかわりはそのようなものです。青年たちに呼びかけること。挨拶することなどが基本なのです。もちろん昨今、司祭もあまり挨拶もしないことがあります。司祭も恥ずかしがりで寡黙だったりします。でも、基本は、神の呼びかけで目覚めるように、わたしたちの呼びかけで青年たちは目覚めるのです。近隣の人たちとあいさつする。呼びかける。これが教会の基本的原点、つまり人格的な交わりが教会の価値であることを、そして、それが自然と教会の価値をまなぶものになるのではないかと思っております。今年も評議会のみなさまとさまざまな計画をしていきながら教会の宣教の使命を果たすものとなれるように願っております。本年もよろしくお願いします。

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