マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 主の洗礼 

福音 ルカ3章15節~16節、21節~22節

 「・・・イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
主の洗礼ギリシャ アトス 
パンタレイモノス修道院朗読福音書 11世紀末

日生中央教会 10時ミサの説教 畠 基幸 神父

この日は、パウロ会の百村神父さんが東京へ異動されることになり、ご自身が日生中央教会の皆様にお別れの挨拶にブラザー阿部と共にミサをささげてくださいました。長年 司祭の留守の時はピンチヒッターとしてミサを喜んでささげてくださいました。説教の話が内容豊かで面白く皆さまの心に残る説教師でした。お世話になりました。
主の洗礼 (説教)

 皆様にご挨拶するのは今日(1月10日)が今年の最初の日となります。新年おめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
 今日の主日のミサは、「主の洗礼」で、主の降誕の神秘を締めくり、明日から教会の救いの歴史の今年の旅が始まります。朗読箇所も、第二朗読では、降誕祭のときと同じテトスの手紙には、その救いの計画が明確に記されています。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」

 さて、今年の旅のテーマは、大阪教区においては、教区時報に掲載された大司教様の年頭のあいさつを参考にして考えていきたいと思います。「教区新生の日メッセージ」が掲載されている教区時報1月号は、後ろの机におかれたままになっていますのでお持ち帰りお読みくださるようにお願い申し上げます。

 新年号で、池長大司教様は、「新生15年 生気あふれる教会に向かって」と題して、活気にみなぎった教会の姿を楽しむことができるように願っておられ、そのために、新生計画の基本方針である交わりあかしする5つの教会像をもう一度読み直し、新生15年たってその教会像が具体的な姿としてあらわれているかを省みて教会活動の見直し評価の参考になるように、ご自身が小区訪問の際に気づいた点を述べて、「活気みなぎる教会の姿」となる示唆を投げかけておられます。

 三つの観点として、
 Ⅰ.社会に向かって宣教する教会
 Ⅱ.信徒としての奉仕職に取り組む教会
 Ⅲ.青少年が集まる活気ある教会

 この中でも三番目の青少年が集まる活気ある教会は、召命の危機ともいうべき時代の渦中にあり、また、今年は世界中で司祭年を祝っています。日本の神学院には、日本人の神学生が少なく、ベトナムや韓国、インドネシアなどの国々から日本語を勉強するところから始める神学生たちが勉強しています。大阪教区でも八尾教会で二人のベトナム人が日本語の勉強をしています。従って、教区も召命に力をいれるように、とくにクリスマス後の司祭の全体集会での池長大司教様のメッセージ、活を入れるような表現でしたが、青少年が集まる活気ある教会の項目はぜひとも皆さんが(担当司祭)が評議会と共に読んで研究し実践してほしいと望まれました。

 青少年が、教会の価値観のすばらしさを自然に学び取るような工夫や取り組みをして欲しいという願いです。

  日生中央教会では、昨日も評議会で分かち合いをしたのですが、日曜学校に少しずつですが人数も増えているのですが、それ以上の学年の青年層があまり見えていないといった点がありあます。今日も、明日は成人式ですが、成人に該当する青年がここにいないということは大変残念なことです。信者籍からは二人の新成人がいますが、長年来ていないので遠慮するとのことでした。それは私たちにとって将来の教会の姿を見る場合、非常にさびしい姿が目に浮かびます。「福音宣教」雑誌の今年の連載記事で、英隆一郎神父さんが書いている「闇の中に輝く福音」の冒頭、教会は衰退期を迎えており、20年後の教会は、修道会は四分の三は姿を消し、消滅する小教区が数多く見られるだろうと述べておられます。一体わたしたちが青年にぜひとも知ってほしい信仰の恵み、喜び、伝えたいものは何なのかをはっきり明確に信仰共同体で共有していないと伝えられないのではないかと思います。

 この信仰の原点を考えるのに、今日の福音箇所、洗礼者聖ヨハネが語った、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)にある「聖霊と火」は、非常に参考になるのではないでしょうか?
 
 ルカ福音書の後編ともいうべき使徒言行録では、「聖霊と火」は、聖霊降臨の日に降ったとあります。聖書と典礼の下段では、「イエスは人を聖霊(火はそのシンボル)という神の命の中に浸す」と説明があります。火は、神の命の炎のようで、モーセが出会った燃える柴のように、神の臨在を表します。それはなにか恐ろしい裁きと清めの火を連想し私たちは恐れるのですが、イエスの言われる火は、地上に愛の火をともすために送られる聖霊です。

 この火をどのように与えることができるのか? ベネディクト教皇様は、幼児洗礼の否定的な見解に対して、ご自身も若い時には厳しく、信仰のない両親の子供に洗礼を授けないという考え方に賛成したこともあったそうですが、教会の司牧を体験することによって寛大な心になり、子供だけのことではなく、若い両親を信仰の共同体に導くよい機会なった体験を話された後、結論的に次のように言われました。
「信仰教育はいつも旅路であり、わたしたちは今日の状況を受容れねばなりません。しかし、わたしたちはまた、一人ひとりに、そうしたことを もっとオープンにしなければなりません。そうしてこそ、その結果が外面的記憶にとどまらず、彼らの心に本当に触れることになります。心に何かが触れた、と確信する瞬間…イエスの愛をほんの少し感じ、その方向へ進もうとほんの少し望む…その時こそが、わたしの考えでは、本当のカテケーシス(教え)をしたと言える瞬間なのです。カテケーシス(教え)の本来の意味は、実際、次のようでなければなりません: それがどれほど小さくとも、子どもの心にイエスの愛の炎を灯すこと。そして、子どもを通して親たちへと、わたしたちの時代の信仰の場を再び開くことです。」(ZENIT ロシカリオ師の引用の引用)

 愛の炎をともすこと、これは聖霊の愛の働きだと思います。ルカの使徒言行録にこんなエピソードがあったことを覚えておられるでしょうか?パウロがエフェソに行った時に、エフェソの弟子たちにした質問です。「信仰に入った時に、聖霊を受けましたか?」。これに対するエフェソの人々の答えは、「聖霊があるかどうか 聞いたこともありません」。わたしたちは聖霊があることをカテキズム(要理)で聞いて知っていますが、聖霊がおられるかどうかわからないというのが一般的な反応ではないでしょうか?まだ 体験のレベルでは、聖霊の明確な感触はないということなのでしょう。

 それは、何か人格的な体験、恋愛の体験にも似ているように思います。コミュニケーションがスムーズに流れて交流できるような愛の体験です。それは、私を満たす体験です。これが、聖霊の体験には、人を神との深い交わりに入れるような心に火をともすの目覚めがあります。イエス様はこの命の恵みを与えるために十字架の死を受け入れてくださいました。わたしが長年経験してきた聖霊刷新の体験もそのような体験なのです。

 今年のテーマ、教会の目標として、このような交わりに向かうような活動を積み重ねることができればと願っております。今日はそのために一年の活動の上に祝福を祈り求めましょう。

(以下は時間がなくて説教で展開できないまま、言いそびれた点)
 
 ※ 教皇様の言われることばは、まさに聖霊の体験です。「心に愛の火を灯す」体験です。ワールドユースディに参加した青年たち、AYDに参加した青年たち、帰国後、愛の火が灯されて信仰を生きる模索を始めた例が数多く見られます。信仰をもつ同じ世代の青年と出会うこと、そこに同じ信仰の価値を生きる葛藤を体験している仲間がいる。自分ひとりでいるのではない。世界的なつながりを体験しています。これもほんの少しの体験ですが一度燃えると大きく火が立ち上がります。

 

 ※ 洗礼の恵みは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとあるように、わたしたちは洗礼によってイエスの死と復活に結ばれ、神の子であるキリストの姿に変容されて、御父と御子が持っておられる永遠の「我と汝」の関係に入る永遠の命が与えられるのです。これが、愛の火をともす体験であり、キリスト教の与える救いの恵みを受けることができるのです。このような素晴らしい恵みを私たちの若い世代に明確に告げ知らせないままわたしたちは手をこまねいています。

 何とかしたい! この窮状を、皆さまと共に考え活動できますように。皆さまの絶え間ない祈りとよい知恵をお貸しください。
 

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