五月十六日 聖ジェンマ・ガルガーニ (記念日)
五月十六日 聖ジェンマ・ガルガーニ
(記念)
聖ジェンマ・ガルガーニは、1878年イタリア、ルッカ市近郊に生まれた。幼少の頃より主の御受難の黙想に献身することにより、清い生涯を送り、天国への強い憧れを抱くこととなった。両親を失ってからは、熱心な信徒の家に温かく迎え入れられた。純潔の誓いを神にささげ、喜んで完徳の道をひた走ることに専心し、ご聖体と十字架のイエスに非常に篤い信仰を持っていた。超自然的なカリスマに特別に恵まれ、罪人の回心のために神に自らを奉献。御受難修道女会へ入会を切望したが、様々な困難により実現されなかった。それにもかかわらず、世俗における類まれな聖性の模範として知られることとなった。1903年4月10日、聖土曜日、ルッカにて帰天。
第二朗読 ①
教皇ピオ十二世の教令書簡
「サンクティテユディニス・クルメン」より
《聖女は肉体において、イエス・キリストの生き写しであった。》
卓越した神のはしためジェンマは霊的生活に誠に献身した。聖女は、その養母として有名なチェチリア・ジャンニーニ夫人と、イエスや霊的な事柄について長時間にわたり何度も論じ合った。聖女は社会生活の空虚さを避け、キリストの受難を熱心に黙想するのを常とした。昼も夜も、神との親しい交わりに身を入れていたのである。信頼のおける証言によれば、その生涯の終わりの数年間、神のはしためジェンマはたびたび恍惚の状態になり、他の多くの聖人伝にも記されているような、長時間にわたる恍惚や超自然的な賜物に恵まれた。これら神からの恵みのうち、あるひとつの特別な恵みが存在した。それは聖女の、純潔な身体を通して、生けるキリストが姿を現し、その受難のあらゆる苦しみに彼女を参与させる神秘である。聖女は両手と両足がくぎによって貫かれ槍によって刺されるのを感じた。時には、御傷の跡である聖痕が現れたこともあった。また、主イエスご自身と聖母の出現を受けたとも報告されている。聖女は、守護の天使の存在を身近な友として体験し、しばしば会話を交わしていた。そのほかにも、ジェンマは数々の不思議な恵みの出来事を、霊的指導司祭の命によって詳しく記している。それらを見ると、この選ばれしおとめジェンマとキリストとのあいだには、魂と心の深い一致があり、聖女は使徒パウロと共に「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言えるほどであったことを、明らかに示しているようである。
この神のはしためは、しばらくのあいだ、修道共同体に入ることを望み、自分が御受難会修道女になるよう召されていると思っていた。神が自分を、より厳しい禁欲生活と、キリストの受難のより深い黙想とに呼んでおられると感じていたのである。これが主たる使命であったし、十字架の聖パウロ自身が、創立した修道会に残した聖なる霊的遺産と同類であったために、ジェンマは再度にわたりタルクイニアの観想修道院への入会を願った。しかし数々の妨げ、とりわけ病弱なことと、驚嘆すべき恵みを受けたことによる名声が立ちはだかった。そうしてついに彼女の病気が進行し、もはや入会を完全にあきらめざるを得なくなった。だがたとえ御受難会共同体の囲いの中に属することができなかったとしても、個人的に誓願を立てていたので、聖女はれっきとした会員であると見なされるべきであろう。ジョバンニ・ボルペ司教と、御受難会司祭の、聖スタニスラウスのジェルマーノ神父という、聖なる霊的指導者たちの指導のもとで、ジェンマは信徒としてキリスト教精神を立派に証しし、キリスト教的完徳の模範となった。実際に聖女は神学的および道徳的な徳をすべて、英雄的なまでに実践したのであり、われわれは、聖女の全生涯が徳の絶えまない実践のために費やされたと言えるのである。
聖霊よ、あなたはおん父とおん子からの永遠の力です。アーメン。
(記念)
聖ジェンマ・ガルガーニは、1878年イタリア、ルッカ市近郊に生まれた。幼少の頃より主の御受難の黙想に献身することにより、清い生涯を送り、天国への強い憧れを抱くこととなった。両親を失ってからは、熱心な信徒の家に温かく迎え入れられた。純潔の誓いを神にささげ、喜んで完徳の道をひた走ることに専心し、ご聖体と十字架のイエスに非常に篤い信仰を持っていた。超自然的なカリスマに特別に恵まれ、罪人の回心のために神に自らを奉献。御受難修道女会へ入会を切望したが、様々な困難により実現されなかった。それにもかかわらず、世俗における類まれな聖性の模範として知られることとなった。1903年4月10日、聖土曜日、ルッカにて帰天。
第二朗読 ①
教皇ピオ十二世の教令書簡
「サンクティテユディニス・クルメン」より
《聖女は肉体において、イエス・キリストの生き写しであった。》
卓越した神のはしためジェンマは霊的生活に誠に献身した。聖女は、その養母として有名なチェチリア・ジャンニーニ夫人と、イエスや霊的な事柄について長時間にわたり何度も論じ合った。聖女は社会生活の空虚さを避け、キリストの受難を熱心に黙想するのを常とした。昼も夜も、神との親しい交わりに身を入れていたのである。信頼のおける証言によれば、その生涯の終わりの数年間、神のはしためジェンマはたびたび恍惚の状態になり、他の多くの聖人伝にも記されているような、長時間にわたる恍惚や超自然的な賜物に恵まれた。これら神からの恵みのうち、あるひとつの特別な恵みが存在した。それは聖女の、純潔な身体を通して、生けるキリストが姿を現し、その受難のあらゆる苦しみに彼女を参与させる神秘である。聖女は両手と両足がくぎによって貫かれ槍によって刺されるのを感じた。時には、御傷の跡である聖痕が現れたこともあった。また、主イエスご自身と聖母の出現を受けたとも報告されている。聖女は、守護の天使の存在を身近な友として体験し、しばしば会話を交わしていた。そのほかにも、ジェンマは数々の不思議な恵みの出来事を、霊的指導司祭の命によって詳しく記している。それらを見ると、この選ばれしおとめジェンマとキリストとのあいだには、魂と心の深い一致があり、聖女は使徒パウロと共に「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言えるほどであったことを、明らかに示しているようである。
この神のはしためは、しばらくのあいだ、修道共同体に入ることを望み、自分が御受難会修道女になるよう召されていると思っていた。神が自分を、より厳しい禁欲生活と、キリストの受難のより深い黙想とに呼んでおられると感じていたのである。これが主たる使命であったし、十字架の聖パウロ自身が、創立した修道会に残した聖なる霊的遺産と同類であったために、ジェンマは再度にわたりタルクイニアの観想修道院への入会を願った。しかし数々の妨げ、とりわけ病弱なことと、驚嘆すべき恵みを受けたことによる名声が立ちはだかった。そうしてついに彼女の病気が進行し、もはや入会を完全にあきらめざるを得なくなった。だがたとえ御受難会共同体の囲いの中に属することができなかったとしても、個人的に誓願を立てていたので、聖女はれっきとした会員であると見なされるべきであろう。ジョバンニ・ボルペ司教と、御受難会司祭の、聖スタニスラウスのジェルマーノ神父という、聖なる霊的指導者たちの指導のもとで、ジェンマは信徒としてキリスト教精神を立派に証しし、キリスト教的完徳の模範となった。実際に聖女は神学的および道徳的な徳をすべて、英雄的なまでに実践したのであり、われわれは、聖女の全生涯が徳の絶えまない実践のために費やされたと言えるのである。
聖霊よ、あなたはおん父とおん子からの永遠の力です。アーメン。
第二朗読 ②
聖ジェンマ・ガルガーニの手紙
私はあなたの御傷から生まれた、受難の実です。
私はたびたび、一人きりでいるようでも、実はイエスがそばにいてくださっているのです。私は自分からすべてを遠ざけようとしますが、かえってすべてを見いだします。私は、人生のすべての楽しみを避けます。あるひとつのすばらしい楽しみに出会ったので、私はまったく幸せなのです。私はいつも愛の炎に燃えていて、さらに愛したいと願ってやみません。私は苦しんでいますが、苦難に飽きることはありません。私は生きたい、私は死にたい。私は愛を経験しますが、愛する相手を理解できません。こんなに無知ですから、彼を洞察することもできませんが、それでも彼がたいへん善い方、驚くほど善い方だとはわかります。それはイエスです。
私の心臓の鼓動、生きることも、呼吸することも、すべてイエスのためだけに行えたならと思います。私の舌が、イエスのみ名しか唱えることができなかったら、私の目がイエスしか見えなかったら、私のペンがイエスのことしか書けなかったら、私の思いがイエスにしか馳せることがなかったなら、と。よく私は、いったいどうしたら自分の愛を一心にそそぐことのできるものが見つかるだろうかと考えていました。けれども天地において、それはわが愛するイエス以外に、まったく見いだせませんでした。
天国がわたしたちを待っています。地上でイエスのために生きることがこれほど楽しいものなら、いったい天国はどんなところなのでしょう?わたしたちは、そこで永遠の偉大さと善と美に輝く主を見ることになるのですから。このイエスに私はあわれみを願います、私自身とすべてのあわれな罪人のために。もし可能ならば、私は自分と彼らのすべての罪のために、償いをしましよう。
親愛なるシスター、わたしたちがこのたいへん苦しまれたイエスの弟子であることを思いだしましょう。十字架を見つめたり、身につけたりするだけでは不十分です。わたしたちは十字架を、心の奥底で担わなければならないのです。はりつけにされたイエスを、わたしたちは共に訪れましょう。彼を眺めてみましょう。彼は、十字架上にかけられています。イエスがそこに釘づけられているのなら、彼の足もとに立つことになっても不平を言わないようにしましよう。わがあわれなイエスよ!私の心が、あなたを最も愛する心だけを集めたものであったら、あなたに私の共鳴を示して、あなたを支えることができましたのに。しかし、この弱い体のすべての力、このみじめな心のすべての愛を、あなたにお捧げします。わたしたちがイエスを見捨て、彼をカルワリオヘの道に一人取り残すことができるなどと、絶対に言われることがないようにしましょう。わたしたちは彼と共にとどまりましょう。カルワリオまでではなく、十字架と死まで。十字架へ、新しいいくつもの十字架へと、共に駆けよりましょう。そしてそれらを抱きしめて言いましょう。「ああ聖なる十字架よ、はかりしれない愛をもってイエスがあなたを迎えたことを思えば、わたしたちは二度とあなたから離れないでしょう」と。
イエスよ、私はあなたの御傷から生まれた、受難の実です。ああイエスよ、愛のうちに私を求めてください。私はもはや、何も持っていません。あなたはわが心をさらってしまわれました。私はいつも、愛するとは苦しむことだと自分に言いきかせます。主が、愛する者に十字架をお与えになるからです。御父が主を扱われたように、どうぞ私を扱ってください。イエスよ、あなたの悲しみの杯を、最後の一滴まで飲むよう私に強いてください。ただし、少しずつ飲ませてください。
それでイエスよ、このあわれな罪人たちを、置き去りにしないでください。私には何かをする覚悟があります。あなたは十字架上で亡くなりました、どうか私も十字架上で死なせてください。これらの罪人は、皆あなたの息子であり、娘なのです。ですから彼らを見捨てないでください。イエスよ、私は彼らが全員救われるようにと願っているのです。もしあなたが彼らをお見捨てになれば、もはや希望はありません。彼らのために苦しむのが、私であってはいけませんか?よいのなら、そうなさってください。あなたには多くの罪人がありますが、犠牲者はこんなに少ないのです。
答唱
先 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よこれは御心に適うことでした。
(マタイ十一・二五―二六「 」内)
答 主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。 (Ⅰコリント六・一七)
おお、ジェンマ、御受難の花よ、
この世のいばらの中にあって、
あなたは白く輝きながら、
血の滴でぬれた百合。
聖ジェンマ・ガルガーニの手紙
私はあなたの御傷から生まれた、受難の実です。
私はたびたび、一人きりでいるようでも、実はイエスがそばにいてくださっているのです。私は自分からすべてを遠ざけようとしますが、かえってすべてを見いだします。私は、人生のすべての楽しみを避けます。あるひとつのすばらしい楽しみに出会ったので、私はまったく幸せなのです。私はいつも愛の炎に燃えていて、さらに愛したいと願ってやみません。私は苦しんでいますが、苦難に飽きることはありません。私は生きたい、私は死にたい。私は愛を経験しますが、愛する相手を理解できません。こんなに無知ですから、彼を洞察することもできませんが、それでも彼がたいへん善い方、驚くほど善い方だとはわかります。それはイエスです。
私の心臓の鼓動、生きることも、呼吸することも、すべてイエスのためだけに行えたならと思います。私の舌が、イエスのみ名しか唱えることができなかったら、私の目がイエスしか見えなかったら、私のペンがイエスのことしか書けなかったら、私の思いがイエスにしか馳せることがなかったなら、と。よく私は、いったいどうしたら自分の愛を一心にそそぐことのできるものが見つかるだろうかと考えていました。けれども天地において、それはわが愛するイエス以外に、まったく見いだせませんでした。
天国がわたしたちを待っています。地上でイエスのために生きることがこれほど楽しいものなら、いったい天国はどんなところなのでしょう?わたしたちは、そこで永遠の偉大さと善と美に輝く主を見ることになるのですから。このイエスに私はあわれみを願います、私自身とすべてのあわれな罪人のために。もし可能ならば、私は自分と彼らのすべての罪のために、償いをしましよう。
親愛なるシスター、わたしたちがこのたいへん苦しまれたイエスの弟子であることを思いだしましょう。十字架を見つめたり、身につけたりするだけでは不十分です。わたしたちは十字架を、心の奥底で担わなければならないのです。はりつけにされたイエスを、わたしたちは共に訪れましょう。彼を眺めてみましょう。彼は、十字架上にかけられています。イエスがそこに釘づけられているのなら、彼の足もとに立つことになっても不平を言わないようにしましよう。わがあわれなイエスよ!私の心が、あなたを最も愛する心だけを集めたものであったら、あなたに私の共鳴を示して、あなたを支えることができましたのに。しかし、この弱い体のすべての力、このみじめな心のすべての愛を、あなたにお捧げします。わたしたちがイエスを見捨て、彼をカルワリオヘの道に一人取り残すことができるなどと、絶対に言われることがないようにしましょう。わたしたちは彼と共にとどまりましょう。カルワリオまでではなく、十字架と死まで。十字架へ、新しいいくつもの十字架へと、共に駆けよりましょう。そしてそれらを抱きしめて言いましょう。「ああ聖なる十字架よ、はかりしれない愛をもってイエスがあなたを迎えたことを思えば、わたしたちは二度とあなたから離れないでしょう」と。
イエスよ、私はあなたの御傷から生まれた、受難の実です。ああイエスよ、愛のうちに私を求めてください。私はもはや、何も持っていません。あなたはわが心をさらってしまわれました。私はいつも、愛するとは苦しむことだと自分に言いきかせます。主が、愛する者に十字架をお与えになるからです。御父が主を扱われたように、どうぞ私を扱ってください。イエスよ、あなたの悲しみの杯を、最後の一滴まで飲むよう私に強いてください。ただし、少しずつ飲ませてください。
それでイエスよ、このあわれな罪人たちを、置き去りにしないでください。私には何かをする覚悟があります。あなたは十字架上で亡くなりました、どうか私も十字架上で死なせてください。これらの罪人は、皆あなたの息子であり、娘なのです。ですから彼らを見捨てないでください。イエスよ、私は彼らが全員救われるようにと願っているのです。もしあなたが彼らをお見捨てになれば、もはや希望はありません。彼らのために苦しむのが、私であってはいけませんか?よいのなら、そうなさってください。あなたには多くの罪人がありますが、犠牲者はこんなに少ないのです。
答唱
先 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よこれは御心に適うことでした。
(マタイ十一・二五―二六「 」内)
答 主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。 (Ⅰコリント六・一七)
おお、ジェンマ、御受難の花よ、
この世のいばらの中にあって、
あなたは白く輝きながら、
血の滴でぬれた百合。