第28主日 A 年
集会祈願
希望の源である神、すべての人を神の国のうたげに招いてくださる方。さまざまな思いを抱えてここに集まるわたしたちが、あなたの愛に気づき、ふさわしい心と行いでこたえることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたたともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
第一朗読 イザヤの預言 25・6-10a
(この箇所は、イザヤの黙示録と名付けられる24章~27章である。当該個所の預言者は前5世紀ですが、紀元前3世紀には黙示思想に発展する萌芽的なものがまとまって見受けられるためイザヤの黙示録と呼ばれたととのことです。この箇所の背景は、外国支配の長期化の中で政治的経済的な諸問題に人間の無力さを痛感して、神の直接的介入による世界支配を待望する人々の叫びがあります。)
答 唱 詩篇 23 2+3、5、6 典 123、①③④
第二朗読 フィリピ 4・12-14 19-20
福 音 マタイ 22・1-14 ( マタイ 22・1-10 )
(このたとえ話は、エルサレム神殿でのイエスが祭司長と民の長老たちとの対決の場面に置かれている。キリストを受け入れなかったユダヤ人の運命と異邦人に救いをもたらされた歴史が背景あります。)並行箇所ルカ14・15-24
共同祈願:
殉教者列福のための祈り:テーマ 2 信仰のきずなと教会
「教会とは、イエス・キリストを信じ、ともにその教えを伝承し、人々にも伝えるすべてのキリスト信者の集まりです」(どちりなきりしたん)
「これで有馬の教会の信仰がお分かりでしょう。わたしたちはみな同じこころで、一つになっています」(レオ武富勘右衛門)
祈り:いつくしみ深い父よ あなたは何のとりえもないわたしたちを、恵みによって神の子の身分にしてくださいました。このきずなによって集められたわたしたちが、あなたの思いをすべての人に伝え、あなたとのきずなのうちに、まことの幸せを見いだすことができる恵みをお与えください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
希望の源である神、すべての人を神の国のうたげに招いてくださる方。さまざまな思いを抱えてここに集まるわたしたちが、あなたの愛に気づき、ふさわしい心と行いでこたえることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたたともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
第一朗読 イザヤの預言 25・6-10a
(この箇所は、イザヤの黙示録と名付けられる24章~27章である。当該個所の預言者は前5世紀ですが、紀元前3世紀には黙示思想に発展する萌芽的なものがまとまって見受けられるためイザヤの黙示録と呼ばれたととのことです。この箇所の背景は、外国支配の長期化の中で政治的経済的な諸問題に人間の無力さを痛感して、神の直接的介入による世界支配を待望する人々の叫びがあります。)
答 唱 詩篇 23 2+3、5、6 典 123、①③④
第二朗読 フィリピ 4・12-14 19-20
福 音 マタイ 22・1-14 ( マタイ 22・1-10 )
(このたとえ話は、エルサレム神殿でのイエスが祭司長と民の長老たちとの対決の場面に置かれている。キリストを受け入れなかったユダヤ人の運命と異邦人に救いをもたらされた歴史が背景あります。)並行箇所ルカ14・15-24
共同祈願:
殉教者列福のための祈り:テーマ 2 信仰のきずなと教会
「教会とは、イエス・キリストを信じ、ともにその教えを伝承し、人々にも伝えるすべてのキリスト信者の集まりです」(どちりなきりしたん)
「これで有馬の教会の信仰がお分かりでしょう。わたしたちはみな同じこころで、一つになっています」(レオ武富勘右衛門)
祈り:いつくしみ深い父よ あなたは何のとりえもないわたしたちを、恵みによって神の子の身分にしてくださいました。このきずなによって集められたわたしたちが、あなたの思いをすべての人に伝え、あなたとのきずなのうちに、まことの幸せを見いだすことができる恵みをお与えください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
説教ノート:
宴には「礼服」を着ていかなければならない・・・招かれたことに対する感謝のしるしが必要なのです。招かれたことに対する感謝を忘れるのは、その婚宴の大切さを十分に理解し心を向けなかったからだともいえます。王子の婚宴を準備した方は 王さまが自ら整え準備した宴でした。
先に招かれた人々は、祭司長や長老たちを指しています。彼らにはさまざまな口実がありました。でも、それは、自分の「義」をたてたのです。
第二朗読では、今日もフィリピの手紙が選ばれていますが、この箇所は年間の24主日から継続して読まれてきて、最後の部分にあたります。全部で4章あるフィリピの手紙なかで、読まれなかった部分は、3章です。3章は、ユダヤ人たちがフィリピの教会にやってきてキリスト教になったばかりの信徒にユダヤ教の習慣を押し付けようとしたことを聞いて、パウロが憤慨して、自分のダマスコでの体験を振り返りながら、復活したキリストに出会う前と出会った後の自分の変化を語る場所です。継続の朗読では省かれているのです。しかし、この箇所こそ、パウロの体験をどのようにパウロ自身が理解したかのカギとなるところです。
『とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのないでした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです』(フィリピ3章4節~11節)
パウロの回心の体験は、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ3・12節)と証言しているように、突然天からの光の光によって周りが照らされ、「サウロ・サウロ、なぜ わたしを迫害するのか」と呼びかける声にを聞き、復活された主イエスと出会うことから始まりました(使徒9章1~19)。パウロ自身が言うように、キリスト信者を迫害し投獄し殺すことさえ意気込んだ青年パウロが変えられた体験は、それまで誇りとしていた律法など有利と思われるものを捨てて、イエス・キリストを知ることの素晴らしさに生涯をかけるまで変えられました。以前のパウロは、律法を完璧まで学び実践していましたが、それは宗教によって人を殺すことまでしてしまいました。非の打ちどころのないほどまでに律法を実践していましたが、キリストに出会い、キリストを知ることによって、それは、「自分の義を立てることにしかならなかったことを悟りました。パウロは、義<律法による正しさ>を求めることによって自分が自分のためだけに生きていたことを知ったのでした。パウロは、自分の人生の新しい方向づけを必要としていました。この新たな方向付けは、キリストによって、キリストともに生きる(ガラテヤ2・20)ことでした。「わたしたが、今 肉のうちに生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子にたいする信仰によるものです」(使徒ー教会の起源ーベネディクト16世教皇講話集p190-191 参照)
信仰による義、自分自身の義を築くことをやめ、キリストによって、キリスト共に生きる。キリストの自己奉献である、十字架の贖いの血によって罪がゆるされ新たにされ、神と和解させていただくこと。古い自分をすて、キリストとともに生きること。そしてキリストの十字架に従う。それはもはや自分のために生きる義ではなく、他者のために生きる義です。その結果、キリストに自分をささげると同時にキリストと一つになる・・・自分の十字架を背負い、キリストと運命をともにすることになるということです。
長くなりました。 礼服をきること・・・キリストを着ること,悪人も善人も大勢招かれました。自分の義ではなく、キリストの義によって宴の席に着けたのです。自分の義で席に着くならば、感謝しなかったでしょう。でも、この祝宴に、天上の祝宴であるミサに私たちは招かれたのは、ただ主イエスの招きだったからです。この食卓につくのは、その感謝の心をあらわす人々がふさわしいのです。キリスト者として生きる生き方そのものが婚宴の主人からのまねきなのですから・・・
宴には「礼服」を着ていかなければならない・・・招かれたことに対する感謝のしるしが必要なのです。招かれたことに対する感謝を忘れるのは、その婚宴の大切さを十分に理解し心を向けなかったからだともいえます。王子の婚宴を準備した方は 王さまが自ら整え準備した宴でした。
先に招かれた人々は、祭司長や長老たちを指しています。彼らにはさまざまな口実がありました。でも、それは、自分の「義」をたてたのです。
第二朗読では、今日もフィリピの手紙が選ばれていますが、この箇所は年間の24主日から継続して読まれてきて、最後の部分にあたります。全部で4章あるフィリピの手紙なかで、読まれなかった部分は、3章です。3章は、ユダヤ人たちがフィリピの教会にやってきてキリスト教になったばかりの信徒にユダヤ教の習慣を押し付けようとしたことを聞いて、パウロが憤慨して、自分のダマスコでの体験を振り返りながら、復活したキリストに出会う前と出会った後の自分の変化を語る場所です。継続の朗読では省かれているのです。しかし、この箇所こそ、パウロの体験をどのようにパウロ自身が理解したかのカギとなるところです。
『とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのないでした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです』(フィリピ3章4節~11節)
パウロの回心の体験は、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ3・12節)と証言しているように、突然天からの光の光によって周りが照らされ、「サウロ・サウロ、なぜ わたしを迫害するのか」と呼びかける声にを聞き、復活された主イエスと出会うことから始まりました(使徒9章1~19)。パウロ自身が言うように、キリスト信者を迫害し投獄し殺すことさえ意気込んだ青年パウロが変えられた体験は、それまで誇りとしていた律法など有利と思われるものを捨てて、イエス・キリストを知ることの素晴らしさに生涯をかけるまで変えられました。以前のパウロは、律法を完璧まで学び実践していましたが、それは宗教によって人を殺すことまでしてしまいました。非の打ちどころのないほどまでに律法を実践していましたが、キリストに出会い、キリストを知ることによって、それは、「自分の義を立てることにしかならなかったことを悟りました。パウロは、義<律法による正しさ>を求めることによって自分が自分のためだけに生きていたことを知ったのでした。パウロは、自分の人生の新しい方向づけを必要としていました。この新たな方向付けは、キリストによって、キリストともに生きる(ガラテヤ2・20)ことでした。「わたしたが、今 肉のうちに生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子にたいする信仰によるものです」(使徒ー教会の起源ーベネディクト16世教皇講話集p190-191 参照)
信仰による義、自分自身の義を築くことをやめ、キリストによって、キリスト共に生きる。キリストの自己奉献である、十字架の贖いの血によって罪がゆるされ新たにされ、神と和解させていただくこと。古い自分をすて、キリストとともに生きること。そしてキリストの十字架に従う。それはもはや自分のために生きる義ではなく、他者のために生きる義です。その結果、キリストに自分をささげると同時にキリストと一つになる・・・自分の十字架を背負い、キリストと運命をともにすることになるということです。
長くなりました。 礼服をきること・・・キリストを着ること,悪人も善人も大勢招かれました。自分の義ではなく、キリストの義によって宴の席に着けたのです。自分の義で席に着くならば、感謝しなかったでしょう。でも、この祝宴に、天上の祝宴であるミサに私たちは招かれたのは、ただ主イエスの招きだったからです。この食卓につくのは、その感謝の心をあらわす人々がふさわしいのです。キリスト者として生きる生き方そのものが婚宴の主人からのまねきなのですから・・・