年間29主日 A年
<皇帝のものは皇帝に、神のものは神のものに返しなさい>
集会祈願:
世界を治める唯一の神、すべての人を救いに導いてくださる方、あなたを賛美する民の集いを祝福してください。神こそ主であることを深く心に刻み、救いのことばに心を開くことができますように。
聖霊の交わりのなかで、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
みことばの典礼
第一朗読 イザヤの預言 45章1節、4~6節
答 唱 典 148 ②③⑤ (詩篇96)
第二朗読 Ⅰテサロニケ1章 1-5b節
アレルヤ唱 あなたがたはいのちのことばを保ち
ともしびのように世を照らしなさい。
福 音 マタイ 22章15節~21節
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
共同祈願:
テーマ3 ゆずれないものとまことの自由
「他のことであれば、すべて従うことができますが、救いにかかわることならば、受け入れることができません」(レオ税所七衛門)
ヨハネ 12・24-26 一粒の麦が・・・
人々にまことの自由を与えてくださる神よ、殉教者に学ぶわたしたちに、大切なものを見分ける確かな判断力と、どのような困難の中でも、ゆずることのない信仰をお与えください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
集会祈願:
世界を治める唯一の神、すべての人を救いに導いてくださる方、あなたを賛美する民の集いを祝福してください。神こそ主であることを深く心に刻み、救いのことばに心を開くことができますように。
聖霊の交わりのなかで、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
みことばの典礼
第一朗読 イザヤの預言 45章1節、4~6節
答 唱 典 148 ②③⑤ (詩篇96)
第二朗読 Ⅰテサロニケ1章 1-5b節
アレルヤ唱 あなたがたはいのちのことばを保ち
ともしびのように世を照らしなさい。
福 音 マタイ 22章15節~21節
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
共同祈願:
テーマ3 ゆずれないものとまことの自由
「他のことであれば、すべて従うことができますが、救いにかかわることならば、受け入れることができません」(レオ税所七衛門)
ヨハネ 12・24-26 一粒の麦が・・・
人々にまことの自由を与えてくださる神よ、殉教者に学ぶわたしたちに、大切なものを見分ける確かな判断力と、どのような困難の中でも、ゆずることのない信仰をお与えください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
説教ノート:
雨宮神父様の「主日の聖書解説<A>年」(教友社)の第29主日の解説によれば、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」はよく知られた言葉ですが、さまざまな解釈があり、イエス様の真意はよくわからないと切りだして、いくつかの解釈の紹介の後に、「いずれ分からせてもらえる時が来ると信じて、その解釈であれ、合理的な根拠がある限り、記憶にとどめておくべきだと思う」(p321)と「発展途上の信仰者で未来に開かれた存在だ」と書いておられます。
イエスの言葉の解釈は難問ですが、罠を仕掛けた場面の設定や状況からファリサイ派やヘロデ派の律法解釈がかえって罪深い人間の姿を浮かび上がらせると同時に福音の光がイエスをとおして明らかになるように感じました。
先週のフィリピ書の読まれなかった部分の個所にこそ、パウロの神学思想のカギがあり、福音理解のヒントがあるということです。つまり律法が人を神に導く道しるべ(トーラ)であるはずが、却って律法を守ることによって自分の義を立てる奴隷になり、イエスの死は、律法によって断罪されたことにあり、そこに律法の矛盾が露呈されており、そこからの解放は、イエスの十字架の死によって贖われる無償の愛によってわたしたちは律法の縄目から解放されたという福音です。
福音とは「よきたより」つまり、解放の知らせです。第一朗読にある「よきたより」は異国の王ですら万軍の主は、解放のしもべとしてお使いになるということです。この解放のしらせは、イエスのよい業をなしながら神の国の到来を宣言したことによって(ルカ4章)もっと明らかになりますが、わたしの理解では、マルコもルカもそしてマタイですらパウロの神学思想の影響をうけて福音を書いたのではと推測するので、律法からの解放のメッセージが物語のなかに隠されているのです。(マルコ・ルカは確かにパウロの神学思想の影響を受けているといえますが、マタイはどうでしょうか? 聖書学の正統な訓練を受けていないので、合理的節めにになるどうか、今後の課題として、これは雨宮神父にならって発展途上としておきましょう。)
であるとすれば、律法の解釈の罠にイエスを引きづり込もうとしたファリサイ派やヘロデ派は、律法によってイエスを断罪しようとしているわけですが、イエスは、神の似姿である私たちの本来の姿、神のものである私たちは、神のものに、つまり、イエスのものである私たちは、人を律法の奴隷や死に導くのではなく、律法によって人を生かすために神の律法を生きる自由の民であることを含蓄的にいったのではないでしょうか?
雨宮神父様の「主日の聖書解説<A>年」(教友社)の第29主日の解説によれば、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」はよく知られた言葉ですが、さまざまな解釈があり、イエス様の真意はよくわからないと切りだして、いくつかの解釈の紹介の後に、「いずれ分からせてもらえる時が来ると信じて、その解釈であれ、合理的な根拠がある限り、記憶にとどめておくべきだと思う」(p321)と「発展途上の信仰者で未来に開かれた存在だ」と書いておられます。
イエスの言葉の解釈は難問ですが、罠を仕掛けた場面の設定や状況からファリサイ派やヘロデ派の律法解釈がかえって罪深い人間の姿を浮かび上がらせると同時に福音の光がイエスをとおして明らかになるように感じました。
先週のフィリピ書の読まれなかった部分の個所にこそ、パウロの神学思想のカギがあり、福音理解のヒントがあるということです。つまり律法が人を神に導く道しるべ(トーラ)であるはずが、却って律法を守ることによって自分の義を立てる奴隷になり、イエスの死は、律法によって断罪されたことにあり、そこに律法の矛盾が露呈されており、そこからの解放は、イエスの十字架の死によって贖われる無償の愛によってわたしたちは律法の縄目から解放されたという福音です。
福音とは「よきたより」つまり、解放の知らせです。第一朗読にある「よきたより」は異国の王ですら万軍の主は、解放のしもべとしてお使いになるということです。この解放のしらせは、イエスのよい業をなしながら神の国の到来を宣言したことによって(ルカ4章)もっと明らかになりますが、わたしの理解では、マルコもルカもそしてマタイですらパウロの神学思想の影響をうけて福音を書いたのではと推測するので、律法からの解放のメッセージが物語のなかに隠されているのです。(マルコ・ルカは確かにパウロの神学思想の影響を受けているといえますが、マタイはどうでしょうか? 聖書学の正統な訓練を受けていないので、合理的節めにになるどうか、今後の課題として、これは雨宮神父にならって発展途上としておきましょう。)
であるとすれば、律法の解釈の罠にイエスを引きづり込もうとしたファリサイ派やヘロデ派は、律法によってイエスを断罪しようとしているわけですが、イエスは、神の似姿である私たちの本来の姿、神のものである私たちは、神のものに、つまり、イエスのものである私たちは、人を律法の奴隷や死に導くのではなく、律法によって人を生かすために神の律法を生きる自由の民であることを含蓄的にいったのではないでしょうか?