マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 2011年正月三ヶ日

今年の正月三ヶ日は以下のスケジュールで終わりました。猪名川町の元旦は雪を予想していましたが、まったく雪は降らず、穏やかな暖かい朝となりました。昼間は、快晴の冬らしい青空としずかな平和な時間が流れる毎日でした。しかし、エジプトでは、コプト教会でテロに巻き込まれて多数の死者が出たことを知り、教皇さまの平和のメッセージ、「信教の自由」についての考察が一層身近な緊急を要するものと感じました。テロの犠牲となり亡くなられた方々に永遠の安息をお与えください。聖霊 来てください!神の愛が注がれ、人類に留まりますように!

新年ミサ 
 元旦 神の母 「世界平和の日のメッセージ」

 日生中央 深夜ミサ  信徒3名
      11時ミサ  信徒50名

2日 主の公現 (大阪教区時報 池長大司教メッセージ)

 池田教会 11時ミサ  信徒140名

 3日 主のみ名 (互いに愛し合いなさい)
 
 ケアハウス 神の園  7時ミサ 信徒6名
 池田教会      11時ミサ 信徒40名

   ケアハウス1 ケアハウス2 ケアハウス4
 今年の正月も二日の夜からケアハウス神の園を訪問し、久しぶりにゆっくり風呂に入り父と一緒に食事をしてワインを酌み交わしました。翌朝は、七時からケアハウスの祈りの部屋で高田園長夫妻とミサがあると聞いて集まられた熱心な信者の皆さんと共に新年の感謝のミサをささげました。
新年の説教(要旨)
日生中央教会 元旦ミサの説教(「原稿を書かなかったのでだらだらと話を続けた録音テープからの書き起こしです。まとめるのに労苦した小倉さんに感謝いたします。年初めから時間に間に合わない状態になりました。ことしこそ跳躍、兎のように飛び跳ねることができたtらと思います。」)

 新しい年に
2011年 1月1日 元旦ミサ 朝11時

新年明けましておめでとうございます。「明けましておめでとうございます」と、私たちは新年の挨拶をして、新しい年への希望を互いに分かち合います。初夢というものがありますが、みなさんの夢はどのようなものでしょうか。

今日の福音で、マリアさまは色んな出来事をすべて心に納めて思い巡らしておられました。私たち自身も日常生活の中の色んな出来事の一つひとつに、神さまからのメッセージがあるのではないかと思い巡らします。御言葉が人となられたというように、私たちの内にある色んな出来事が肉となり命となるという恵みです。私たちの信仰生活はやはり神秘に満ちたものだと思います。私たちは神との関わりによって命をいただき、人生を歩み営んでゆくということではないかと思います。
今日の福音の個所では、今日は降誕八日目ですが、この日にユダヤ教では新しく生まれた子に割礼というものをほどこして名前を付け、その名前がイエスであったとあります。その後、新約聖書では940回くらいイエス(神は救う)という名前が出てきます。旧約のヘブライ語でヨシュアという名前に当たるのですが、新約ではイエスが「キリスト」となられたことの次第をずっと語ってゆきます。

教会の中での私たちの営みは、やはり典礼からはじまります。昨年からはじめた典礼準備のための集いを通して少しずつ、御言葉が私たちの日常でどのように語られ、それが私たちの中でどのように働いているか、力をもっているかということをもっともっと考えてみたいと思います。

高槻教会の教会便り72号に、アベリーノ神父様が書いておられますが、高槻教会では教会の本質を神秘体、共同体、運動体という三つに分けて研修会をやったそうです。その中で特に神秘性というものが、今や教会の中でどんどん失われているのではないかという危惧を皆がもっているということを少し解説されています。 
神秘性というのは一体何かということで、アベリーノ神父様が「普通の理論、認識を超越した事柄」と、広辞苑から引用されています。

<信仰の神秘とは>
「教会に入ると嬉しくなり、自分自身が満たされ、生活との繋がりがあり、毎日の挑戦のために力をもらう場所」になっているかどうか。教会に来ると、人間関係が煩わしく嫌になってきて、だんだんと足が遠のいてゆくということを度々聞きます。教会の中の色んなごたごたに巻き込まれたくない。祈りだけで十分なのに、なぜ活動したりしなくてはならないのか、そんなふうに思われる方もいますが、教会というものは福音の秘跡の道具であって、神御自身が神秘そのものである。ミサには感謝の交わり(聖体の秘跡)があるということで、私たちはその交わりを通して、神の命に与かるのです。インマヌエル「神は私たちと共におられる」、イエスの名前の本質を現すこの言葉は、何か私たちの存在の本質(神秘)に触れているように思います。

<存在の神秘>
「互いに愛し合いなさい」。お互いに愛し合うということにより、神さまご自身が私たちの内にあって、私たちに命を与えてくださる。それは本当に交わるということだと思います。
「ペルソナ(注:位格=神格、人格、関係性における存在のこと)」という言葉がありますが、ソナというのは「音」という意味があるそうです。互いに共鳴し合うということからきているのではないかと思います。ザビエルが来た頃、キリシタンたちが、友のために命を与えるほど大きな愛はないというあの「友」という言葉を、「知る」と「音」と書いて、「知音」と訳しました。
ペルソナのソナは音、互いに共鳴し合い、心と心が通じ合って分かち合う存在、キリストは友として私たちに命を与えるような愛をもって十字架にかかってくださった。その十字架(クロス)によって表された愛を、「ご大切」と呼んでキリシタンがどれほど深くキリストの愛を感じたかということです。
私たちの本質の中にイエスご自身の愛がある。私たちを友として呼ぶほどの愛をくださっている。そのような交わりが教会の中に、その存在の基礎としてあるわけです。

<典礼の中の神秘>
そして、最後の晩餐において私たちにそのような形を残してくださったのがミサですから、私たちが本当にミサの中に神秘を体験しなかったら非常にもったいないと思います。この一年、私たちがもっともっとこの場でこの愛の記念を通して祈ることで、聖霊を豊かにいただきたい。御父と御子の愛の交わりである霊、聖霊、キリストの霊を私たちがいただくことによって、互いに響き合い、本当に人々の苦しみに心を動かされて活動する者でありたいと思います。 
ミサを、ただ単なる典礼の儀式として捉えてしまうと、ただ上手にやろうという意識だけになってしまう。そうではなくて、ミサはまさに神の命との交わりで私たちに命を与える場である。そのような観点から今年は頑張っていきたいと思います。そしてそこに若者たちがどんどんやってこなければ私たちの典礼は本当ではないのではないかと思います。

<教会の神秘への招き>
若者たちはまさに命に満ちた存在で、これからの教会を建てていく人たちですが、その若者たちが神秘に触れることがなかったならば、すぐに枯れてしまうのではないかと思います。ですから若者たちへの呼びかけを今年はなんとかやっていければと思います。
今年はスペインのマドリードでワールドユースデイがあります。たくさんの若者が世界中から集まってきますが、いつも日本からは時間も費用もかかるためか、参加者が少ないのですが、今年は8月の終わりにありますので学生も参加できるのではないかと思います。
若者のために何かできるかということも今年の課題ではないかと思います。
a. <教皇メッセージからのヒント>
今日は世界平和の日ですが、教皇様が書かれた文章では、「信教の自由」ということを訴えておられます。「信教の自由」がなければ世界の文化も経済の営みも十分に本来の力を発揮できないとおっしゃっています。中央協議会のサイトからダウンロードして入ると簡単に手に入りますので、後で読んでいただければと思います。 
原理主義と世俗(理性)主義が信教の自由を脅かしている。そして若者たちはともすれば原理主義に走るか、あるいは信仰は役に立たないと世俗(理性)主義を信奉します。両方の主義は「信教の自由」にとって危険なものです。人間性本来の尊厳の基盤を揺るがすものです。教皇様は何度も何度もその危険について書かれています。そして人間の尊厳が大切にされるときに、「信教の自由」というのは平和の道具になる。そしてこれは預言者的な使命で私たちキリスト者がなさなければならないことだということをおっしゃっています。

b.<大司教メッセージからのヒント>
そして大阪教区の池長大司教様が新生のメッセージで、色んな活動をしてきたけれども、その活動は、神との交わりが基盤にあって、その祈りから生まれるものでなければならない。基本に立ち返っていきましょうと呼びかけられています。 
新生活動から、色んな社会活動が活発になったけれども、その一番基本に祈りがなければ問題だとおっしゃっています。大阪教区の特徴というのは、活動の源に典礼と祈りがあるようにしたい、そして沈黙の祈りを勧めておられます。どの小教区を訪れても、皆ミサの前に聖堂の中でしゃべっている。ここが神様との交わりの場である、ミサのために心の準備をする場であるという意識が弱っているのではないかとおっしゃっています。
以上の点を顧みて、若者たちが教会の神秘にきづくには、基本的に祈るということ、そして取り次いでゆくということではないかと思います。

<恵みの権利と義務、神の子の特権>
教皇様も大司教様も教会の内外にある危険に警告を鳴らしておられます。確かにわたしたちは神秘をなかなか体験できませんが、この間、私はBさんの息子さんのために祈ったとき、この子どもが病気でこのまま弱ってしまったら、あなたの教会の子供たちがバラバラになってしまうのは許せないのではないかというそんな気持ちでお祈りしていたら、ものすごい熱が手から出てきました。やはり病気で動きがとれない方のためにお祈りしていても、何も感じないときもありますが、その場でお祈りしたら熱が出てきて、聖霊が注がれているような気がしました。その後、回復したと聞きました。

皆さんの祈りが若者たちに、私たちの教会の子供たちに注がれます。私たち一人ひとりが洗礼の名前をもらいました。イエスさまが、ユダヤ教の中の一人として社会的に認められるのが割礼であり、名前がつけられたように、私たちもまた洗礼を通して、キリスト教共同体の一員となりました。その責任もあるし、恵みをいただく権利も義務もあるわけです。私たちは神の子として御父の配慮の下にある。だから祈ることによって、たくさんの恵みと命の力をいただくということです。

<結び>
教会に来ても全くつまらない。教会にきても何もない。かえって煩わしいと言う人もいますが、でも、私たちが洗礼を受けて名前をいただいたということは、この信仰共同体の一員であり、その恵みをすべていただく権利と義務をもっていることです。その恵みは私たちが執り成す義務を通して、確かに注がれてきて、私たちの病も苦しみもすべてが神さまの栄光を讃えるものとなるのです。そのような信仰をもって今年も一年新たに挑戦し、闇が光になるようにお祈りを注いでいきたいと思います。
よろしくお願いします。

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