第三回講座 教会論 (2)
教会論 Ⅱ 松本一宏 神父
10月18日 宝塚黙想の家
要旨:
最初に現教皇が神学教授時代に書いた記事の紹介から始める。
「なぜ私は教会にとどまるのか」(ヨゼフ。ラッツインガー、現教皇
神学ダイジェスト25号、1970年)の記事を引用して、教授が教会を月にたとえるシンボルの意味を紹介して説明する。
《月と太陽の関係、教会が自己の光をキリストから受けることの象徴とされる。・・・教会はそれ自身では、「暗闇」にすぎないが、それにもかかわらず、世界を照らしうる。教会は自らの徳や業績によって明るいのではなく、真の太陽であるキリストからその光を受けるのである。教会は光を受け、さらにこの信仰の闇にあって、わたしたちの歩みに光を投げかけてくれる。
・・・・月は、いわば、「自己自身でないもの」なのである。ところが、「自己のものでない」とはいえ、まさにその「自己のものでない」という性格そのものが、「自己のもの」なのである。・・・それゆえに、これを教会にあてはめると、教会は、石と砂にすぎないが、それにも関わらず、キリストから光を受けて、世界のための光となることである。ここで「自己のものでないもの」こそ、真に教会の「自己のもの」なのである。教会の本質は、実に「自己のものでない」こと、その存在の根拠を自己自身にもたず他にもつこと、したがって自己を空にし、その根拠から光を仰ぐ時こそ本来の姿に帰ることである。》
教会はそれ自身で存在することはない、光であるキリストに照らされて存在する存在である。「わたしたちの教会」の背後に「キリストの教会」の存在がつねにあることを信じる立場から、ラッチンガガーが教会にとどまる述べている。
各時代の教会を照らす評価は、「キリストの教会」と考えて、教会の本質(キリストの教会)とその後の教会の歴史的発展、さらに第二バチカン公会議での教会の自己理解を考える助けとなれば・・・
以下は、教会の歴史を概観します。 「カトリックの教え」の教会の項目を閲覧していただければと願います。
1.教会の起源
神の救いの約束を成就したキリストにおける新しい神の民であるという理解。教会は神の民としてキリストの光をあらゆる人々にもたらす使命を持っている。教会はキリストによって創設された。聖霊降臨の出来事をとおして、使徒たちと土台とするキリストの教会が生まれ、聖霊によって保たれ発展してきた。
2.ユダヤ人教会と異邦人教会
出発点、エルサレム教会-ユダヤ教の伝統と独自の教え・祭儀・祈り
より広い世界へと広がっていく、アンチオキアの教会など、ユダヤ教の枠を超えて、独自の宗教として育っていく
3.初期教会の構造
信仰の遺産・信仰の秘義・信仰の奉仕職
カリスマの奉仕職から制度的奉仕職への歴史的発展
二つの指導体制(長老制度、監督と執事型)の融合→監督・長老・執事(司教・司祭・助祭)
第二節 教会の本質
教会の本質は制度そのものではない
1.神の民
教会(エクレジア)―神から選ばれ特別の目的のために召された民
旧約の神の民と新約においてキリストに従う人々
『教会憲章』1~2章 神の国が広がるよう、信徒は皆神の祭司職と預言職を受けている。教会はまず第一に信仰者の集い、神の国の実現という使命がある。
2.キリストのからだ
キリストと教会の一体性:復活したキリストが生き、働いておられる
洗礼によってキリストの体に組み入れられ、ミサにおいてキリストのからだとしての教会はもっとも完全な形で実現する。
3.聖霊の神殿
聖霊が教会の本質的存立根拠
聖霊の導きにたいする大きな信頼
第三節 教会の歩み
1.教会の歴史性
教会の本質を実現させるために、それぞれの時代で成長発展し、福音を伝えてきた
一、聖、公、使徒継承である教会:それを体現していく努力
2.古代の教会
初期教会の構造 カリスマの奉仕職 1コリント12:28-31
ロマ 12:6-8
一人一人に与えられたカリスマに生かされて信仰の奉仕
制度的役務職
ユダヤ教の長老による団体指導体制とヘレニズム型の監督と執事の制度が融合して、監督を長老団、執事団がサポートした。 司教・司祭・助祭へと発展 司教は指導者としての立場を築く。教会全体のために 正しい教えを確認する役目。313年 コンスタンティヌスによってキリスト教が公認されるまで迫害の時代、告白者、殉教者がたくさん出た。異端とも戦った。公認後国家・社会がキリスト教化
3.中世の教会
より広範なキリスト教社会
教皇は大きな力を持つ。 国家と教会の関係 秘跡を受ける場 教会がこの世の制度と交わるにつれて、福音精神から離れる。
一方福音精神を生きるフランシスコ会、ドミニコ会が現れた。
信仰を理性的に理解するスコラ学派が発展した。
4.近代の教会
教会改革の荒波 -分裂へ 福音にとって大切なものは何か
キリスト。恩恵・聖書ではないか???
カトリック教会は制度を強調した。
脱宗教化の時代
5.現代の教会
第二バチカン公会議のインパクト
世界の救いの秘跡としての教会・世界の諸現実に向かって開かれた教会、教えの伝達と神の愛のあかしとしての福音宣教、未来に向かう教会
6.宣教する教会
神の国に向かって旅をする神の民ー教会=イエス・キリストを述べ伝える。教会の宣教の使命は一部の聖職者・修道者に課せられているのではなく、全信徒のものであるという意識変革が必要
再びラッチンガー司教(現教皇)の論文に戻って・・・
「なぜカトリックにとどまるのか」ラッツインガーの理由は、H・ド・リュバクのことばを引用して、キリスト信仰は教会によって可能になるという基本的な考え方を披瀝しています。(注:続き)
「教会は自分にとって母である。というのは、教会が自分にキリストを与えたからである」・・・ 同時に 母であるということで、あばたもえくぼ・・・ド・リュバックは、教会のために、教会の中で、実に多くの苦しみを嘗めてきたにもかかわらず、「教会は私の母である。それはこの教会であって、他のいかなる教会でもない。わたしはこの教会を、自分の生みの母の胎内から知り、また自らの人生にくりかえされるあらゆる出来事と、あらゆる状況にあって、いつも、より深く知るようになった。・・・<中略> さげすまれた母の顔をみて、わたしはこの母をいっそう深く愛さざるをえない。わたしはこれらの批判に対して、躍起になって弁論する前に、このはしための姿をとった母を愛するのである。ある表情で、その顔がますます老けて見えたとしても、愛は私に、それ以上の真理と黙示、隠れた働きを発見させる。そこには、永遠の若さが保たれている。偉大なものがそのうちに生まれ、それが世を回心させるのである」(リュバック)
現教皇のコメントは素晴らしいと思います。「この原理を教会にもあてはめていく・・・私たちは今日、教会をもう一度愛の目で見直さなければならないだろう。」
「愛は盲目と言われる。確かに一理ある。しかし、それ以上に真実なのは、愛が目を与えるということである。老人のしわだらけの顔は、外見的には美しくないが、愛は、その内面に、この顔を形作った人間というもの、その素晴らしいものを発見するのである。」
休憩の後: 畠神父が後半の司会を担当する。
解説本の紹介:
「神の国をめざして」(松本三郎著、オリエンス宗教研究所)の本が、南地区では教科書的な扱いで読まれていること、内容は、公会議文書の明快な解説です。信徒の立場と視点も重視しています。1990年初版ですが絶版かもしれません。(注へ)
「みんなで担う『信徒奉仕職』」7ページ、「いまさらながら教会ってなに???」を朗読し、以下の説明後グループに別れた。
「第二バチカン公会議における教会憲章は、教会自身の根本的な意味について問い直そうとしました。教会とは一体何なのか?何のために誰のために教会はあるのか?教会は世界の中で何をしようとしているのか?教会が自己自身の回心を求めて打ち出した理想像であり目標です。(前掲書、松本三郎 p17-)教会の歴史的展開を最初の時間で松本神父から解説されました。皆さん自身は現在の教会のイメージや、教会とは何かのご自身の理解をどう説明されますか?
注 及び追加記入:
10月18日 宝塚黙想の家
要旨:
最初に現教皇が神学教授時代に書いた記事の紹介から始める。
「なぜ私は教会にとどまるのか」(ヨゼフ。ラッツインガー、現教皇
神学ダイジェスト25号、1970年)の記事を引用して、教授が教会を月にたとえるシンボルの意味を紹介して説明する。
《月と太陽の関係、教会が自己の光をキリストから受けることの象徴とされる。・・・教会はそれ自身では、「暗闇」にすぎないが、それにもかかわらず、世界を照らしうる。教会は自らの徳や業績によって明るいのではなく、真の太陽であるキリストからその光を受けるのである。教会は光を受け、さらにこの信仰の闇にあって、わたしたちの歩みに光を投げかけてくれる。
・・・・月は、いわば、「自己自身でないもの」なのである。ところが、「自己のものでない」とはいえ、まさにその「自己のものでない」という性格そのものが、「自己のもの」なのである。・・・それゆえに、これを教会にあてはめると、教会は、石と砂にすぎないが、それにも関わらず、キリストから光を受けて、世界のための光となることである。ここで「自己のものでないもの」こそ、真に教会の「自己のもの」なのである。教会の本質は、実に「自己のものでない」こと、その存在の根拠を自己自身にもたず他にもつこと、したがって自己を空にし、その根拠から光を仰ぐ時こそ本来の姿に帰ることである。》
教会はそれ自身で存在することはない、光であるキリストに照らされて存在する存在である。「わたしたちの教会」の背後に「キリストの教会」の存在がつねにあることを信じる立場から、ラッチンガガーが教会にとどまる述べている。
各時代の教会を照らす評価は、「キリストの教会」と考えて、教会の本質(キリストの教会)とその後の教会の歴史的発展、さらに第二バチカン公会議での教会の自己理解を考える助けとなれば・・・
以下は、教会の歴史を概観します。 「カトリックの教え」の教会の項目を閲覧していただければと願います。
1.教会の起源
神の救いの約束を成就したキリストにおける新しい神の民であるという理解。教会は神の民としてキリストの光をあらゆる人々にもたらす使命を持っている。教会はキリストによって創設された。聖霊降臨の出来事をとおして、使徒たちと土台とするキリストの教会が生まれ、聖霊によって保たれ発展してきた。
2.ユダヤ人教会と異邦人教会
出発点、エルサレム教会-ユダヤ教の伝統と独自の教え・祭儀・祈り
より広い世界へと広がっていく、アンチオキアの教会など、ユダヤ教の枠を超えて、独自の宗教として育っていく
3.初期教会の構造
信仰の遺産・信仰の秘義・信仰の奉仕職
カリスマの奉仕職から制度的奉仕職への歴史的発展
二つの指導体制(長老制度、監督と執事型)の融合→監督・長老・執事(司教・司祭・助祭)
第二節 教会の本質
教会の本質は制度そのものではない
1.神の民
教会(エクレジア)―神から選ばれ特別の目的のために召された民
旧約の神の民と新約においてキリストに従う人々
『教会憲章』1~2章 神の国が広がるよう、信徒は皆神の祭司職と預言職を受けている。教会はまず第一に信仰者の集い、神の国の実現という使命がある。
2.キリストのからだ
キリストと教会の一体性:復活したキリストが生き、働いておられる
洗礼によってキリストの体に組み入れられ、ミサにおいてキリストのからだとしての教会はもっとも完全な形で実現する。
3.聖霊の神殿
聖霊が教会の本質的存立根拠
聖霊の導きにたいする大きな信頼
第三節 教会の歩み
1.教会の歴史性
教会の本質を実現させるために、それぞれの時代で成長発展し、福音を伝えてきた
一、聖、公、使徒継承である教会:それを体現していく努力
2.古代の教会
初期教会の構造 カリスマの奉仕職 1コリント12:28-31
ロマ 12:6-8
一人一人に与えられたカリスマに生かされて信仰の奉仕
制度的役務職
ユダヤ教の長老による団体指導体制とヘレニズム型の監督と執事の制度が融合して、監督を長老団、執事団がサポートした。 司教・司祭・助祭へと発展 司教は指導者としての立場を築く。教会全体のために 正しい教えを確認する役目。313年 コンスタンティヌスによってキリスト教が公認されるまで迫害の時代、告白者、殉教者がたくさん出た。異端とも戦った。公認後国家・社会がキリスト教化
3.中世の教会
より広範なキリスト教社会
教皇は大きな力を持つ。 国家と教会の関係 秘跡を受ける場 教会がこの世の制度と交わるにつれて、福音精神から離れる。
一方福音精神を生きるフランシスコ会、ドミニコ会が現れた。
信仰を理性的に理解するスコラ学派が発展した。
4.近代の教会
教会改革の荒波 -分裂へ 福音にとって大切なものは何か
キリスト。恩恵・聖書ではないか???
カトリック教会は制度を強調した。
脱宗教化の時代
5.現代の教会
第二バチカン公会議のインパクト
世界の救いの秘跡としての教会・世界の諸現実に向かって開かれた教会、教えの伝達と神の愛のあかしとしての福音宣教、未来に向かう教会
6.宣教する教会
神の国に向かって旅をする神の民ー教会=イエス・キリストを述べ伝える。教会の宣教の使命は一部の聖職者・修道者に課せられているのではなく、全信徒のものであるという意識変革が必要
再びラッチンガー司教(現教皇)の論文に戻って・・・
「なぜカトリックにとどまるのか」ラッツインガーの理由は、H・ド・リュバクのことばを引用して、キリスト信仰は教会によって可能になるという基本的な考え方を披瀝しています。(注:続き)
「教会は自分にとって母である。というのは、教会が自分にキリストを与えたからである」・・・ 同時に 母であるということで、あばたもえくぼ・・・ド・リュバックは、教会のために、教会の中で、実に多くの苦しみを嘗めてきたにもかかわらず、「教会は私の母である。それはこの教会であって、他のいかなる教会でもない。わたしはこの教会を、自分の生みの母の胎内から知り、また自らの人生にくりかえされるあらゆる出来事と、あらゆる状況にあって、いつも、より深く知るようになった。・・・<中略> さげすまれた母の顔をみて、わたしはこの母をいっそう深く愛さざるをえない。わたしはこれらの批判に対して、躍起になって弁論する前に、このはしための姿をとった母を愛するのである。ある表情で、その顔がますます老けて見えたとしても、愛は私に、それ以上の真理と黙示、隠れた働きを発見させる。そこには、永遠の若さが保たれている。偉大なものがそのうちに生まれ、それが世を回心させるのである」(リュバック)
現教皇のコメントは素晴らしいと思います。「この原理を教会にもあてはめていく・・・私たちは今日、教会をもう一度愛の目で見直さなければならないだろう。」
「愛は盲目と言われる。確かに一理ある。しかし、それ以上に真実なのは、愛が目を与えるということである。老人のしわだらけの顔は、外見的には美しくないが、愛は、その内面に、この顔を形作った人間というもの、その素晴らしいものを発見するのである。」
休憩の後: 畠神父が後半の司会を担当する。
解説本の紹介:
「神の国をめざして」(松本三郎著、オリエンス宗教研究所)の本が、南地区では教科書的な扱いで読まれていること、内容は、公会議文書の明快な解説です。信徒の立場と視点も重視しています。1990年初版ですが絶版かもしれません。(注へ)
「みんなで担う『信徒奉仕職』」7ページ、「いまさらながら教会ってなに???」を朗読し、以下の説明後グループに別れた。
「第二バチカン公会議における教会憲章は、教会自身の根本的な意味について問い直そうとしました。教会とは一体何なのか?何のために誰のために教会はあるのか?教会は世界の中で何をしようとしているのか?教会が自己自身の回心を求めて打ち出した理想像であり目標です。(前掲書、松本三郎 p17-)教会の歴史的展開を最初の時間で松本神父から解説されました。皆さん自身は現在の教会のイメージや、教会とは何かのご自身の理解をどう説明されますか?
注 及び追加記入:
分かち合い後の反省点:
キリストの教会と教会が文書で公言している像と私たちが実際に知っている教会像の違いがありことがわかり、また皆さんの中にある教会像と「教会って何かという」自己理解もそれぞれあり、それらを分かち合うことができればよかたのですが、分かち合いのルールそのものが確立されていなかったので、分かち合いが難しかったこと、その点が反省点と祈りで始まらなかったことも一つの反省点ではないかと全体会では指摘があった。しかし初めて他教会の参加者と話し合えたことはよかった。
注)
キリストの教会と教会が文書で公言している像と私たちが実際に知っている教会像の違いがありことがわかり、また皆さんの中にある教会像と「教会って何かという」自己理解もそれぞれあり、それらを分かち合うことができればよかたのですが、分かち合いのルールそのものが確立されていなかったので、分かち合いが難しかったこと、その点が反省点と祈りで始まらなかったことも一つの反省点ではないかと全体会では指摘があった。しかし初めて他教会の参加者と話し合えたことはよかった。
注)