ラシャペール神父 追悼
ラシャぺール神父さまが津波に巻き込まれたというのは誤報でしたが、ちょうどラシャペール神父さまと共に元寺小路教会で地震に合い、その後小教区へ向かう神父様を見送った方から電話をいただきました。
33回目の東北大会の準備の祈り会をしているときで、階下の教会の事務所で3メートルの津波が来ていると聞いて、すぐに石釜教会へもどらねばと急がれ、別れ際に自室の倒れた本棚の図書を整理するのは大変だなあと車に乗り込まれたのが生前の最後の姿になりました。その直後に亡くなられた聞いたときは、信じがたいことで、確認のため葬儀に参列しました。見送った時と同じ優しいお顔で棺に納められていたので、ようやく天に召されたことを理解できました。77歳で、特に持病があったわけでもないので、津波の恐ろしさとすごい勢いで破壊される町の様子をみて、胸が裂けるような体験だったのではと・・・神父様ほとんど感情の起伏がない優しい方だったので、やはりショックで心臓がとまったのでしょうか。「体の異変を感じ、病院へ向かう途中死亡し、車の中で発見されました。」とケベック会の神父様から遺体発見時のことを聞きました。
ラシャぺール神父様とは、聖霊による刷新の全国委員会などでお目にかかり、東北大会15周年のとき、25周年のとき、そして30周年のときの3回、大会の講師に呼ばれお世話になりました。神父様は教義学の専門のようで、中高生向きの要理の本を書きおろし、上下二巻を贈ってくださった。その本は、かなり高度なものだったけれども内容のしっかりしたものです。宣教生活全体をまとめられた本だと思います。教師を退職するまえに自分の教えてきたことを整理して、大人の信仰入門書にもなるように全体をバランスよく書かれています。25周年の東北大会のあと、一緒に食事誘われて同席した時、わたしがちょうど小教区担当になって今まで要理を教えた経験のないことを話したのを覚えておられ、本ができたのでと送ってくださったのでした。
以前は釜石教会におられたと記憶していますが、今回の東北関東大地震で心臓マヒのため亡くなられたことお悔みいたします。聖霊に関するフランス語圏の本はすべて読んでいるとおっしゃっていたことを思い出します。羊の群れと共にいつも一緒にいてくださったラシャぺル神父様、あなたは波にさらわれる日本の友のためにはらわたをえぐられるような苦しみを体験し、その人々の運命に寄り添われました。長い東北での宣教生活の最後まで東北の人々と共に生活し、共に死にいたるまで、キリストの十字架のくびきを担われました。今は、その死を悼み、神の栄光の現れを待ち望むのです。
33回目の東北大会の準備の祈り会をしているときで、階下の教会の事務所で3メートルの津波が来ていると聞いて、すぐに石釜教会へもどらねばと急がれ、別れ際に自室の倒れた本棚の図書を整理するのは大変だなあと車に乗り込まれたのが生前の最後の姿になりました。その直後に亡くなられた聞いたときは、信じがたいことで、確認のため葬儀に参列しました。見送った時と同じ優しいお顔で棺に納められていたので、ようやく天に召されたことを理解できました。77歳で、特に持病があったわけでもないので、津波の恐ろしさとすごい勢いで破壊される町の様子をみて、胸が裂けるような体験だったのではと・・・神父様ほとんど感情の起伏がない優しい方だったので、やはりショックで心臓がとまったのでしょうか。「体の異変を感じ、病院へ向かう途中死亡し、車の中で発見されました。」とケベック会の神父様から遺体発見時のことを聞きました。
ラシャぺール神父様とは、聖霊による刷新の全国委員会などでお目にかかり、東北大会15周年のとき、25周年のとき、そして30周年のときの3回、大会の講師に呼ばれお世話になりました。神父様は教義学の専門のようで、中高生向きの要理の本を書きおろし、上下二巻を贈ってくださった。その本は、かなり高度なものだったけれども内容のしっかりしたものです。宣教生活全体をまとめられた本だと思います。教師を退職するまえに自分の教えてきたことを整理して、大人の信仰入門書にもなるように全体をバランスよく書かれています。25周年の東北大会のあと、一緒に食事誘われて同席した時、わたしがちょうど小教区担当になって今まで要理を教えた経験のないことを話したのを覚えておられ、本ができたのでと送ってくださったのでした。
以前は釜石教会におられたと記憶していますが、今回の東北関東大地震で心臓マヒのため亡くなられたことお悔みいたします。聖霊に関するフランス語圏の本はすべて読んでいるとおっしゃっていたことを思い出します。羊の群れと共にいつも一緒にいてくださったラシャぺル神父様、あなたは波にさらわれる日本の友のためにはらわたをえぐられるような苦しみを体験し、その人々の運命に寄り添われました。長い東北での宣教生活の最後まで東北の人々と共に生活し、共に死にいたるまで、キリストの十字架のくびきを担われました。今は、その死を悼み、神の栄光の現れを待ち望むのです。