マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 年間第30主日 A年

 あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。

 集会祈願:
 ひとり子イエスを遣わし、限りない愛を示してくださった神よ、
 賛美と感謝の集いを祝うわたしたちを祝福してください。キリストの教えを心に留め、神と人とを愛する心を豊かにすることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。

 みことばの典礼:
 第一 朗読 : 出エジプト 22章20節~26節
 答   唱 : 詩篇 18 典64番、① ③ ⑥ 
 第二 朗読 : テサロニケの手紙 1章5c節 ~10節
 アレルヤ : わたしを愛する人はわたしのことばを守る
       わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人の
       もとに行く。

 福   音: マタイの福音 22章34節~40節

 共同祈願:
 テーマ 4 弱い立場の中に輝く希望
 「わたしをだましたつもりですか? わたしには夜道などありません。まして刑場への道は鮮やかに見えます」。
 
 心身が不自由な人々は、日ごとに食を請うてその日をつなぐしかない時代。自分の衣食を得る光を失ったダミアンは、人々のこころを養う信仰の光を得たのです。社会の底辺に追いやられ、いわれないさげすみを受けたダミアンは、福音を信じる者の中心にいて、生きる力と勇気を与えました。・・・
 祈り: 限りない愛を示してくださる神よ。あなたは弱い人々を選んで人々の助けとし、喜びの福音を告げる足としてくださいます。弱い立場に追いやられた苦しみをとおして主と出会った殉教者にならい、苦難の中にこそ主への希望をみいだす恵みをお与えください。わたしたちの主、イエス・キリストによって。 アーメン
説教ノート:
(説教の資料や黙想の材料であって、説教そのものではありません。)

 今回もイエスを試みる話です。皇帝への税金(ファリサイ派)、復活についての問答(サドカイ派)、そして、もっとも重要な掟(律法の専門家)・・・ファリサイ派の律法の専門家、パウロのような学者が質問したのだと思います。
 律法を文字通り守る。そうすることを誇りにする。究極的には、自分の義を立てる、つまり、神を口実に他者を支配する。権力をもつ者は神を後ろ盾にして万能の神のようになる。これがイエス様がファリサイ派や律法学者を偽善者として非難される理由ではないだろうか。”薄荷、いのんど、ういきょうの十分の一はささげるが、律法のなかで最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ”(マタイ23章23節)重箱の隅を楊枝で突っつくという抽象的な法律論議では、律法の制定者である神の心が見えなくなる。”盲目”になっていることです。まさに、この章のあとは、23章1節から36節まで律法学者とファリサイ派の非難のことばで埋め尽くされている。

 「律法と預言者は この二つの掟に基づいている」。旧約聖書全体を表すことばで、神への愛と人への愛は一つのことであるとイエスが「わたしの掟」として律法をまとめられる。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)この掟は、十字架上のまことのいける神の姿、イエスにおいていつくしみと憐みの主が愛としてお姿をあらわされたと言えるのではないか。他者への愛と神への愛の行為が一つに結ばれる。パウロ自身、この掟を理解することによって回心の恵みを説明できるようになったのではないか?パウロ自身、ファリサイ派の盲目の縄目に結ばれていたときは、熱心のあまりキリスト者を捕縛して殺害していた。光に照らされて盲目となり、闇の中にいたことに気づく。復活の主イエスのいつくしみに触れて目から鱗がとれるようにイエスの十字架の愛によってまことの愛を知った。律法から主イエスの福音へという体験は、Ⅱコリント書3章全体に書かれていことにまとめられる。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく、霊に仕える資格を与えてくださいました」(6節)・・・「今日に至るまで、古い契約が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の”霊”のおられるところには自由があります。」(16~17節)

 ダミアンは目の見えない障碍者で琵琶法師で、人々からさげすまれる身分だったがキリストに出会って、闇から光へと導く光の案内人となった。聖霊に照らされた彼は、誰よりも多くの人を洗礼に導いた。

 わたしたちが律法の縄目から解放されるとき、主のいつくしみのまなざしに出会う。ルカの福音には、鶏が鳴いた後、「主は振り向いてペトロを見つめられた(ルカ22章61節)」との一文を挿入している。主のまなざしに出会ったパウロもペトロも主のいつくしみを知る者となりました。

 神の名は、ヤーウェと発音されないと教皇庁から通達があり、代わりに主が使われるとのことです。ユダヤ教の伝統では、「主」は、いつくしみとあわれみの神の名前です。主の愛を知った者が神を呼ぶ名前になりました。

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