マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 母の故郷へ墓参り

 兄と一緒に墓参りに戸河内まで行ってきました。母が亡くなって15年、葬儀の時にお会いして以来ご無沙汰していた母の兄弟姉妹のところへ行きました。90歳を超える伯母や伯父、80歳を超える叔母たちや母がお世話になった親族の方々に挨拶とつかの間の時を過ごすことができました。皆、子供たちが都会に出てしまい、残された孤老の一人住まいなど、現代の世相を反映しているけれども、幸いなことに、誰一人弱って寝込んでいる人はいませんでした。親族の中でも被ばくした母など当時広島市内に出ていた身内の者は被ばくの後遺症で早死にしました。村では農業を営む人はほとんどおらず、自分の畑で自分たちの食べるものだけを作って後は年金暮らしという人がほとんどということだそうです。点在する村々も合併して戸河内村はなく、広範囲な地域に一つの町に再編されて安芸太田町ができました。三段峡入口が可部線の終点駅でしたが、今は平成15年に廃線となり、過疎が進んでいます。

 無縁社会といわれる現象は、わたしの家族にも言えることで、父の両親も母の父も子供たちが幼い時に病死したため、母も父も、兄弟姉妹とは、それぞれ別の親族や家族に引き取られて育ち、血縁があっても共有する家族の思い出がないため、葬儀の時ぐらいにしか親族は顔を合わせることがありません。わたしたち兄弟はいとことたちともほとんど交流もなく顔を合わせたこともないので、父が亡くなって、わたしたち兄弟どちらかが亡くなれば、残された者は、もう血縁による親族は無く無縁社会の中で生きる人たちと変わりません。わたしたちは、母方の親族が生きている間に、少しでも感謝の気持ちを伝えるために墓参りをしました。母の遺骨は、故郷の人たちがお寺に分骨して納め、この故郷の人たちと共に眠っているからです。母はカトリックだからと断ると、絶縁状態になり、故郷の人たちを悲しませるにちがいありません。わたしたちは誰一人自分のために死ぬのではありません。パウロが言うように、生きるにしても死ぬにしても主のために生きるのです。母は私たちにもふる里があることを最後に形見として残してくれたのです。

 もっとも、わたしのふる里は、教会の関係とか修道会の関係で、祈りの中での永遠の今を生きる神との交わりですので、家族のような身体性はなくても、これ以上の確かな関係性があると信じるほかは、幸せになれないのですが、同時に、地縁、血縁などの人間関係の学習が希薄だと神との関係もうまく築けなないことも事実あるように思います。

 最近の信仰者は教会を簡単に離れる人が多くなりましたが、信仰者の人間関係が希薄だからということが一番大きい原因なのでしょう。アブラハムを祖とするイスラエルの民が四〇〇〇年の歴史をあれほどの悲惨さを味わいながらも信仰の民として歩み続けることができたのは、血縁と信仰の伝統が結合していたからでした。浄土真宗は、民衆の生活の中に溶け込む形で教えが浸透したことが布教の大きな発展の基いであるとの、安芸門徒衆の熱心な信仰生活の理由を説明した文章を読みました。東日本大震災の悲惨な状況にあっても、地縁や血縁が希薄にならないように絆を確かめる伝統文化のお祭りをして励ましや慰めによる力づけが行われたとのニュースを見ました。地方の人脈と伝統文化を大切にするならば、人は立ち上がり再生できるように思います。家族や家や仕事や故郷など当然あるべきものが失われるという喪失の悲劇が現実に身に起こりましたが、もっとも大切なのは、やはり地縁や血縁を結びつける人の心、人の考え方、人の生き方の基本である神との正しい関係を養う信仰を伝えていかなければ共同体の復興はできないでしょう。
 
 過疎化した村も、安芸門徒は信心深く、お寺では親鸞没後の750年の大遠回忌を祝う行事をしており、叔母さんの家には、仏壇に700回忌のときの写真が置いてあり、その話題から母の父は仏壇を作ることを家業としていたことを知りました。母の記憶から、祖父は仏師だっと伝え聞いていたのですが、本家は「坊主屋敷」(お坊さんの旅籠)という屋号があり、「大谷家」(出所不明)の名を継ぐ信心深い心があったとのことでした。故郷のルーツをたどる小旅行となりました。

三段峡

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