死者の日 (第31主日 A年)
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである。(ヨハネ6・40)
集会祈願 : 恵み豊かな神よ、復活された御子キリストに従うわたしたちの信仰を強め、死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
ことばの典礼
第一朗読 哀歌 3章17節ー26節
答 唱 詩篇 130 典 117 ① ② ③
第二朗読 Ⅱコリント 4・14 ~ 5・1
福 音 ヨハネによる福音 6:37 ~ 40
共同祈願
テーマ 5 復活の福音を担う女性たち
「だいじょうぶ、もうすぐすべてがはっきりと見えるから」
(テクラ橋本)
ヨハネによる福音 19章25節
「ところで、イエスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアがたたずんでいた。」
祈り:
いつくしみ深い父よ、聖母マリアの取り次ぎによって祈ります。
あなたはイエスの母、教会の母である聖母マリアの生涯の神秘をとおして、女性一人ひとりが受けた召命の尊さと豊かさを示してくださいます。わたしたちが、殉教した女性たちにならい、混迷する現代社会の中で、与えられた召命と使命を希望と喜びのうちに果たす恵みをお与えください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン
集会祈願 : 恵み豊かな神よ、復活された御子キリストに従うわたしたちの信仰を強め、死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
ことばの典礼
第一朗読 哀歌 3章17節ー26節
答 唱 詩篇 130 典 117 ① ② ③
第二朗読 Ⅱコリント 4・14 ~ 5・1
福 音 ヨハネによる福音 6:37 ~ 40
共同祈願
テーマ 5 復活の福音を担う女性たち
「だいじょうぶ、もうすぐすべてがはっきりと見えるから」
(テクラ橋本)
ヨハネによる福音 19章25節
「ところで、イエスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアがたたずんでいた。」
祈り:
いつくしみ深い父よ、聖母マリアの取り次ぎによって祈ります。
あなたはイエスの母、教会の母である聖母マリアの生涯の神秘をとおして、女性一人ひとりが受けた召命の尊さと豊かさを示してくださいます。わたしたちが、殉教した女性たちにならい、混迷する現代社会の中で、与えられた召命と使命を希望と喜びのうちに果たす恵みをお与えください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン
説教ノート:
諸聖人の祭日(11月1日)の翌日死者の日(2日)があり、今年は主日の典礼に重なりました。
諸聖人の福音朗読箇所は、マタイ5章1-12aで、山上の垂訓と言われる箇所です。「小踊りして喜べ。天においてあなたがたが受ける報いは大きい。」 この言葉はすべての聖人・殉教者にあてはめられる。天の報い ・・・神のもとに迎えられ、すべての人のためにとりなす聖人たち、山上の垂訓のことばは、シナイ山での十戒を意識したもので、新約の掟のように威厳に満ちた響きがあります。ちなみにヨハネの福音の新約の掟は、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)とイエスご自身において神への愛と隣人への愛の最も大切な二重の掟を二律背反しない一つの掟、わたしの掟として宣言されました。山上の垂訓の八つのことばは、イエス自身のみことばが肉となった生き方を反映するものです。そして、わたしたちをも同じ言葉に生きる生き方へと招きます。
その生き方の報いとは、諸聖人たちの現在の状態=、カテキズムの教えによれば、「神の恵みと神との親しい愛のうちに死に、完全に清められた人々は、キリストともに永遠に生きます。この人々は永遠に神に似た者となります。神をありのままに(一ヨハネ3・2)、「顔と顔をあわせて」(一コリント13・12)見るからです」(カテキズム1023)「天国で生きるとはキリスト共にいる」ということです。(カテキズム1025)上記の引用句にあるように、その具体的な神に似た者の姿は、山上の垂訓のことばを生きた諸聖人、地上での生活の中でキリストに似たものとなった聖人たちの模範にあらわされているように思われます。それでは誰がそのような聖性の理想に招かれているのでしょうか? わたしたち信仰を生きるものではありませんか?
集会祈願では、聖人たちの取り次ぎを願うわたしたちが、あがないの恵みを豊かに受けることができますようにと祈ります。わたしたちは上からの助けを必要としているのです。一方、死者の日の集会祈願は、先に記したように「復活された御子キリストに従うわたしたちの信仰を強め、死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください。」と死者の復活を待つわたしたちの希望を願います。また、死者のためにわたしたちは「亡くなったすべての人が、光と平和の国に導かれますように」と祈ります。
諸聖人と死者の違いは、諸聖人はわたしたちのためにとりなしてくださるのであり、死者のためにはわたしたちの復活の信仰と希望をに願い求めます。この祈りの違いには、「終わりの日」の理解が影響しているし、煉獄の清めの教義が生きています。
第一朗読でも、オプションで 知恵の書(3章1-6,9)を選ぶと、「わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る」という箇所がある。「カトリック教会のカテキズム」(カトリック中央協議会)には、第二部 第三章 第12項 「永遠の命を信じます」の項目の中で、3 最終の清め・煉獄 (1030番~1032番)があります。たびたび聞くことですが、聖書に十分な根拠がないから煉獄の教義がなくなったというのはウソでしょう。煉獄という言葉が、ダンテの神曲や仏教の地獄絵図のようなイメージでは、わたしたちの信仰体験や世界観や希望に意味を与えないということだけで、この教義の奥にある真理というものは取り消すことができません。
ヒントとしては、三つのカテキズムの項目が参考になります。1030から1032までですが、一つは、完全に清められていないままで死ぬ人々は、永遠の救いは保障されていても、死後、天国の喜びにあずかるまえに必要な聖性を得るように、ある浄化の苦しみを受けるといこと、この選ばれた人がうける最終的な浄化を煉獄とよんでいるということ、それから三つ目に、死者のための祈りが有効だということ、そのために償い、免償、施しなどがささげられてきたということ、
「煉獄」の考えは、教会の長い伝統があり簡単に論じられるものではないが、「悟り」を与えるようなシンボルであり、現実を深く見る信仰のエッセンスのような位置づけができる。つまり、神の正義、善、愛、解放、自由、救いを理解できる。そしてその悟りに基づいて回心が起こるのであろう。新約において、神の正義は、キリストにおいて行われる。キリストが掟であり、最終的な審判者となられるから。山上の垂訓でみられるような至福は、キリストに完全に合体した聖人たちの仲間になることであり、そこへいくためには、わたしたちは最終の清めの期間が必要だということは当然のように感じます。
人間には、受けた命に対する責任を果たす義務があり、それを完全に遂行できなかったために、神に対し、隣人に対し、自分に対して負い目がある。それだけでなく、自由の乱用により悪に加担した罪や、罪とは断言できなくても他者に苦しみをもたらした責任がある。そのために清めやゆるしと祈りが必要だが死者はなにもできないので、生きている兄弟や諸聖人にとりなしの祈りを願わざるを得ない。
諸聖人の祭日(11月1日)の翌日死者の日(2日)があり、今年は主日の典礼に重なりました。
諸聖人の福音朗読箇所は、マタイ5章1-12aで、山上の垂訓と言われる箇所です。「小踊りして喜べ。天においてあなたがたが受ける報いは大きい。」 この言葉はすべての聖人・殉教者にあてはめられる。天の報い ・・・神のもとに迎えられ、すべての人のためにとりなす聖人たち、山上の垂訓のことばは、シナイ山での十戒を意識したもので、新約の掟のように威厳に満ちた響きがあります。ちなみにヨハネの福音の新約の掟は、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)とイエスご自身において神への愛と隣人への愛の最も大切な二重の掟を二律背反しない一つの掟、わたしの掟として宣言されました。山上の垂訓の八つのことばは、イエス自身のみことばが肉となった生き方を反映するものです。そして、わたしたちをも同じ言葉に生きる生き方へと招きます。
その生き方の報いとは、諸聖人たちの現在の状態=、カテキズムの教えによれば、「神の恵みと神との親しい愛のうちに死に、完全に清められた人々は、キリストともに永遠に生きます。この人々は永遠に神に似た者となります。神をありのままに(一ヨハネ3・2)、「顔と顔をあわせて」(一コリント13・12)見るからです」(カテキズム1023)「天国で生きるとはキリスト共にいる」ということです。(カテキズム1025)上記の引用句にあるように、その具体的な神に似た者の姿は、山上の垂訓のことばを生きた諸聖人、地上での生活の中でキリストに似たものとなった聖人たちの模範にあらわされているように思われます。それでは誰がそのような聖性の理想に招かれているのでしょうか? わたしたち信仰を生きるものではありませんか?
集会祈願では、聖人たちの取り次ぎを願うわたしたちが、あがないの恵みを豊かに受けることができますようにと祈ります。わたしたちは上からの助けを必要としているのです。一方、死者の日の集会祈願は、先に記したように「復活された御子キリストに従うわたしたちの信仰を強め、死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください。」と死者の復活を待つわたしたちの希望を願います。また、死者のためにわたしたちは「亡くなったすべての人が、光と平和の国に導かれますように」と祈ります。
諸聖人と死者の違いは、諸聖人はわたしたちのためにとりなしてくださるのであり、死者のためにはわたしたちの復活の信仰と希望をに願い求めます。この祈りの違いには、「終わりの日」の理解が影響しているし、煉獄の清めの教義が生きています。
第一朗読でも、オプションで 知恵の書(3章1-6,9)を選ぶと、「わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る」という箇所がある。「カトリック教会のカテキズム」(カトリック中央協議会)には、第二部 第三章 第12項 「永遠の命を信じます」の項目の中で、3 最終の清め・煉獄 (1030番~1032番)があります。たびたび聞くことですが、聖書に十分な根拠がないから煉獄の教義がなくなったというのはウソでしょう。煉獄という言葉が、ダンテの神曲や仏教の地獄絵図のようなイメージでは、わたしたちの信仰体験や世界観や希望に意味を与えないということだけで、この教義の奥にある真理というものは取り消すことができません。
ヒントとしては、三つのカテキズムの項目が参考になります。1030から1032までですが、一つは、完全に清められていないままで死ぬ人々は、永遠の救いは保障されていても、死後、天国の喜びにあずかるまえに必要な聖性を得るように、ある浄化の苦しみを受けるといこと、この選ばれた人がうける最終的な浄化を煉獄とよんでいるということ、それから三つ目に、死者のための祈りが有効だということ、そのために償い、免償、施しなどがささげられてきたということ、
「煉獄」の考えは、教会の長い伝統があり簡単に論じられるものではないが、「悟り」を与えるようなシンボルであり、現実を深く見る信仰のエッセンスのような位置づけができる。つまり、神の正義、善、愛、解放、自由、救いを理解できる。そしてその悟りに基づいて回心が起こるのであろう。新約において、神の正義は、キリストにおいて行われる。キリストが掟であり、最終的な審判者となられるから。山上の垂訓でみられるような至福は、キリストに完全に合体した聖人たちの仲間になることであり、そこへいくためには、わたしたちは最終の清めの期間が必要だということは当然のように感じます。
人間には、受けた命に対する責任を果たす義務があり、それを完全に遂行できなかったために、神に対し、隣人に対し、自分に対して負い目がある。それだけでなく、自由の乱用により悪に加担した罪や、罪とは断言できなくても他者に苦しみをもたらした責任がある。そのために清めやゆるしと祈りが必要だが死者はなにもできないので、生きている兄弟や諸聖人にとりなしの祈りを願わざるを得ない。