二つの奇跡
暑さの中 病人・高齢者の方々に大きな慰めと力づけが与えられますように祈ります。被昇天(8月15日)まえの9日間の祈りが8月6日から始まりました。ちょうど平和旬間とも日程が重なります。
この期間 祈りが豊かな実りをもたらす時期でもあります。
昨日 フィリピン人のビッキーさんにご聖体を持っていきました。脳腫瘍で今年1月に手術されましたが、腫瘍がとりきれず、細かい腫瘍が残り放射線治療をされていましたが、効果はなく再び 大きな腫瘍に増大し手術しなければ余命一か月、しても六カ月の余命と診断されました。手術をするかどうか難しい決断でしたが、手術をすることになり、7月29日に手術したところ、大きな腫瘍は消えており、小さな腫瘍を取り去るだけで手術が終わりました。奇跡が起こらなければ助からないと医者に言われたので、友人・知人、私や私が知るカリスマ刷新のフィリピンの全国会長バート神父に手術当日ミサを同時にささげることをお願いしました。そして開頭したところ前述のようになかったのです。数日前に家族に説明されたCTスキャンにあった腫瘍が消えている。家族は奇跡を信じました。アレルヤ 神に感謝!
それだけでなく、ICUにいる間に ビッキーさんは神秘的な体験をして、イエスと共に十字架の道を歩き、十字架上でビッキーさんはイエスになったようにイエスと同じ苦しみと渇きを感じ、渇くと叫び、そして光が彼女を貫き、激しい痛みを感じた。そして、痛みが消えるとともにICUの中で目覚めて歩けるようになったというのです。すごいですね・・・ 池田教会にも奇跡が続きます。
同じころ Kさんの娘さんが自宅前で自動車にはねられ車の前輪と後輪にひかれ、救急車に運ばれました。骨が折れ内臓破裂のケースでしたが、胸の骨もおれず内臓にも何のダメージもありませんでした。お母さんは感謝のためにミサにこられました。奇跡としかいいようがないと。ご主人の天でのとりなしがあったのでしょうとお伝えしました。というのも、私の母が亡くなった後、父も兄も交通事故に会いましたが、不思議と大きな怪我にならないで助かったので、その時、二人とも母のことを思い浮かべました。
わたしの父は今弱ってきています。昔、わたしが神学生のころ、父が狭心症になって、このまま放置すると心筋梗塞になるので入院するようにとのことでしたが入院を断った父のことを哀れに思った母が泣いているところに私が電話をちょうどタイミングよく、ほとんど電話しないのにしたのでその時何らかの理由で母に電話したのでした。母に電話したのはこの一回だけかも知れません
。それほどわたしは親不孝者でさびしい思いを母や父にさせましたが、修道会に入会して有頂天になっていたのでしょう。奉献したという理由で両親の思いはあまり考えたこともありませんでした。そのためでしょうか、わたしは心が騒ぎ、その夜寝れなくなり、ロザリオの祈りを夜中ずっとささげて明け方頃、うとうとしたときにマリアさまが夢に現れ、父のそばに立ったのを見ました。その瞬間、不安が消えたのです。ちょうど台風が関西に来ていましたが、その風雨の中、京都に帰り、父に入院を薦めました。父はわたしの言葉を受け入れ、それから3か月入院し、その後狭心症も起こらず、それから35年、91歳の今日までいくつもの癌と闘いながら生きてきました。
天でのとりなしは 母マリアの祈りがあります。
祈りは聞かれるのです。 私たちが神の言葉を聴くものとなるように信仰の賜物が与えられるのです。わたしの母は広島で被爆し、その後原爆症で様々な疾患と闘いながら73歳で帰天しましたが、何度もいのちの危機を救われた体験を持っています。母が60歳でわたしは助祭だったときは、子宮がんで入院し進行性の癌と肉腫で末期の手遅れと判断され余命3か月と言われました。わたしは知り合いのあらゆる神父さんや信者さんに祈りをお願いしました。わたしの叙階の前の年も、その前の年も司祭候補者の母が天に召されるということが起こっていました。
それで、わたしは主にこんなことが許されていいのかと訴えて、神学部の教授や霊性の高い評判の信者、修道者、司祭に頭をさげてお願いしました。お願いするというのは、自分をへりくだらさせなければなりません。人間のちからではどうにもならないことに対して、愛のある神、主イエスにお願いするしかないのです。9時間に及ぶ手術は成功し、抗がん剤治療で6カ月入院し回復しました。
その時も、ロザリオの祈りをささげ続けて、手術室から天使たちの歌声が聞こえるように感じました。母が手術室から出てきたときには、医者も看護婦も勝利の凱旋門を通る誇らしい戦士のように感じたので、わたしは手術が成功したことを確信しました。
何事であれ 願いと祈りをあきらめないことですね・・・
最近では、何人かの信者さんがイエスは立派な人間として尊敬するが、神として信じないと仰り、公然と教会から離れていく人がいますが、イエスは神(主)であるのは信仰告白のかなめです。せっかく信仰しても祈りが単なる儀式と道徳の形としか受けとめないのであれば、生きている復活されたイエスの愛と真実を体験できないとは当然なのかもしれません。謙遜に祈ることこそ 主が聴いてくださる祈りでしょう。何よりも主イエスの御父にたいする懇願の祈りに参加することになるのですから・・・
アーメン アレルヤ 主に賛美します。主よ、あなたの栄光をたたえます!
この期間 祈りが豊かな実りをもたらす時期でもあります。
昨日 フィリピン人のビッキーさんにご聖体を持っていきました。脳腫瘍で今年1月に手術されましたが、腫瘍がとりきれず、細かい腫瘍が残り放射線治療をされていましたが、効果はなく再び 大きな腫瘍に増大し手術しなければ余命一か月、しても六カ月の余命と診断されました。手術をするかどうか難しい決断でしたが、手術をすることになり、7月29日に手術したところ、大きな腫瘍は消えており、小さな腫瘍を取り去るだけで手術が終わりました。奇跡が起こらなければ助からないと医者に言われたので、友人・知人、私や私が知るカリスマ刷新のフィリピンの全国会長バート神父に手術当日ミサを同時にささげることをお願いしました。そして開頭したところ前述のようになかったのです。数日前に家族に説明されたCTスキャンにあった腫瘍が消えている。家族は奇跡を信じました。アレルヤ 神に感謝!
それだけでなく、ICUにいる間に ビッキーさんは神秘的な体験をして、イエスと共に十字架の道を歩き、十字架上でビッキーさんはイエスになったようにイエスと同じ苦しみと渇きを感じ、渇くと叫び、そして光が彼女を貫き、激しい痛みを感じた。そして、痛みが消えるとともにICUの中で目覚めて歩けるようになったというのです。すごいですね・・・ 池田教会にも奇跡が続きます。
同じころ Kさんの娘さんが自宅前で自動車にはねられ車の前輪と後輪にひかれ、救急車に運ばれました。骨が折れ内臓破裂のケースでしたが、胸の骨もおれず内臓にも何のダメージもありませんでした。お母さんは感謝のためにミサにこられました。奇跡としかいいようがないと。ご主人の天でのとりなしがあったのでしょうとお伝えしました。というのも、私の母が亡くなった後、父も兄も交通事故に会いましたが、不思議と大きな怪我にならないで助かったので、その時、二人とも母のことを思い浮かべました。
わたしの父は今弱ってきています。昔、わたしが神学生のころ、父が狭心症になって、このまま放置すると心筋梗塞になるので入院するようにとのことでしたが入院を断った父のことを哀れに思った母が泣いているところに私が電話をちょうどタイミングよく、ほとんど電話しないのにしたのでその時何らかの理由で母に電話したのでした。母に電話したのはこの一回だけかも知れません
。それほどわたしは親不孝者でさびしい思いを母や父にさせましたが、修道会に入会して有頂天になっていたのでしょう。奉献したという理由で両親の思いはあまり考えたこともありませんでした。そのためでしょうか、わたしは心が騒ぎ、その夜寝れなくなり、ロザリオの祈りを夜中ずっとささげて明け方頃、うとうとしたときにマリアさまが夢に現れ、父のそばに立ったのを見ました。その瞬間、不安が消えたのです。ちょうど台風が関西に来ていましたが、その風雨の中、京都に帰り、父に入院を薦めました。父はわたしの言葉を受け入れ、それから3か月入院し、その後狭心症も起こらず、それから35年、91歳の今日までいくつもの癌と闘いながら生きてきました。
天でのとりなしは 母マリアの祈りがあります。
祈りは聞かれるのです。 私たちが神の言葉を聴くものとなるように信仰の賜物が与えられるのです。わたしの母は広島で被爆し、その後原爆症で様々な疾患と闘いながら73歳で帰天しましたが、何度もいのちの危機を救われた体験を持っています。母が60歳でわたしは助祭だったときは、子宮がんで入院し進行性の癌と肉腫で末期の手遅れと判断され余命3か月と言われました。わたしは知り合いのあらゆる神父さんや信者さんに祈りをお願いしました。わたしの叙階の前の年も、その前の年も司祭候補者の母が天に召されるということが起こっていました。
それで、わたしは主にこんなことが許されていいのかと訴えて、神学部の教授や霊性の高い評判の信者、修道者、司祭に頭をさげてお願いしました。お願いするというのは、自分をへりくだらさせなければなりません。人間のちからではどうにもならないことに対して、愛のある神、主イエスにお願いするしかないのです。9時間に及ぶ手術は成功し、抗がん剤治療で6カ月入院し回復しました。
その時も、ロザリオの祈りをささげ続けて、手術室から天使たちの歌声が聞こえるように感じました。母が手術室から出てきたときには、医者も看護婦も勝利の凱旋門を通る誇らしい戦士のように感じたので、わたしは手術が成功したことを確信しました。
何事であれ 願いと祈りをあきらめないことですね・・・
最近では、何人かの信者さんがイエスは立派な人間として尊敬するが、神として信じないと仰り、公然と教会から離れていく人がいますが、イエスは神(主)であるのは信仰告白のかなめです。せっかく信仰しても祈りが単なる儀式と道徳の形としか受けとめないのであれば、生きている復活されたイエスの愛と真実を体験できないとは当然なのかもしれません。謙遜に祈ることこそ 主が聴いてくださる祈りでしょう。何よりも主イエスの御父にたいする懇願の祈りに参加することになるのですから・・・
アーメン アレルヤ 主に賛美します。主よ、あなたの栄光をたたえます!