マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


<< 池田教会 待降節準備黙想会 11月16日 | main | 11月21日 聖マリアの奉献 >>

 11月18日 聖ペトロ聖堂・聖パウロ聖堂

聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂は、4世紀に建てられ、聖ペトロ大聖堂の献堂式はシルベトストロ教皇、聖パウロ大聖堂はシチリオ教皇によって行われた。この記念日が祝われるようになったのは近代になってからと記録されている。 (毎日の典礼)より・・・

 この同じ日に、御受難会の福者の記念日が祝われていることは、御受難会の中でもあまり認知されていない。


福者グリモアルド(聖マリアの御清めの)修道者 グリアド
聖マリアの御清めのグリモアルド、洗礼名フェルディナンド・サンタマリアは一八八三年五月四日、ポンテコルヴォ(フロシノーネ)に、五人の子供の長子として生まれた。少年時代に聖母の信心会に入会し、熱心に人々への奉仕につとめた。一九〇〇年三月六日十七才で修道誓願を立て、御受難会員となった。グリモアルドはチェッカーノの修道院で祈りと勉学に励みつつ、司祭職への準備を始めた。誓願を立ててやっと二年経った頃、彼は急性髄膜炎で倒れた。臨終の床でマリアを呼びながら、彼は神のみ旨を果たすことにすっかり満足していることをそばに居合わせた人々に確信をもって話し、一九〇二年十一月十八日息を引き取った。十九才であった。
彼が修道的完全さの高みにすみやかに達した秘訣は無原罪のマリアに対する例外的な信心である。若い頃から彼は自分を無原罪のマリアに捧げていた。
教会の祈り 第二朗読
福者グリモアルドの福者としての列福において若い修道者の召命に光
を当てる教皇ヨハネ・パウロ二世のことばを引用したい。

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅「真理の輝き」(No.19-21)より
「わたしに従いなさい」(マタイ19:21)
ひとたび自分の富と自分自身をささげてしまったら、この完全さの道であると同時にその意味するところは、キリストに従うことです。「わたしに従いなさい」(マタイ19:21)、これがまさにイエスと青年との対話の結論です。それは招きであり、キリストが復活した後、聖霊が弟子たちをあらゆる真理に導くとき(ヨハネ16:13参照)、彼らはそのえもいわれぬ壮麗さを完全にまのあたりにすることになります。
率先して導き、自分に従うよう人々を招くのは、イエス自身です。イエスの招きは、十二使徒をはじめとして、特別の使命をゆだねる人々にまず向けられます。しかし、すべての信者がキリストに従う者となるよう招かれていることも、明白な事実です。(使徒言行録6:1参照)。こうして、キリストに従うことは、キリスト教の道徳の本質的で根本的な土台です。ちょうど、イスラエルの民が、砂漠を通って約束の地に自分たちを導いた神に従ったように(出エジプト.3:21参照)、すべての弟子は、自分たちが御父自身によって引き寄せられているイエスに従わなければなりません(ヨハネ6:44参照)。
これは、教えに耳を傾け、あるおきてを従順に受け入れようとすることだけの問題ではありません。より根本的に、イエスの人格そのものに固く結びつき、イエスのいのちと運命にあずかり、御父の意志に対するイエスの自由で愛をこめた従順を共有しながら生きることを意味します。受肉した知恵である方に信仰によってこたえ、従うことによって、イエスの弟子は真に神の弟子になります(ヨハネ6:45参照)。イエスはまことに世の光、いのちの光です(ヨハネ8:12参照)。イエスはその羊を導き、養う羊飼いです(ヨハネ10:11‐16参照)。イエスは道、真理、いのちです(ヨハネ14:6参照)。御父へと導く方はイエスです。それゆえ、子である方を見ることは御父を見ることになります(ヨハネ14:6-10参照)。こうして、「見えない神の姿」(コロサイ1:15)である御子にならうことは、御父にならうことになります。
イエスは、自分に従い、愛の小道に沿って自分にならうことを、わたしたちに求めています。その愛とは、神への愛から兄弟に自らを完全に与え尽くす愛です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしのおきてである」(ヨハネ15:12)。「ように」ということばは、イエスとその愛にならうことを求めます。弟子たちの足を洗うことは、その一つのしるしです。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:14-15)。キリスト教生活の道徳規則は、イエスのふるまい方、ことば、行い、戒めから成り立ちます。実に、イエスの行い、とくにその受難と十字架上の死は、御父と他の人々へのイエスの愛の生きた啓示です。これこそ、イエスが、自分に従うすべての人にならうよう望む愛なのです。これが、「新しい」おきてです。「あなたがたに新しいおきてを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34-35)。「ように」ということばは、イエスの愛、そしてその弟子が互いに愛し合うように召されている愛の程度を示すものでもあります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしのおきてである」(ヨハネ15:12)と語った後、イエスは、「このうえなく」(ヨハネ13:1)愛されたあかしとして、十字架上で自らのいのちを犠牲として与えることを示すことばを続けます。友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。
イエスは完全さの道に沿って自分に従うよう青年を招くとき、彼に愛のおきてにおいて、すなわち「自らの」おきてにおいて完全であるよう求めます。つまり、イエスの完全に与え尽くす行為の一部になること、「このうえなく」愛した善い先先である方の愛そのものにならい、それを再び燃え上がらせることを求めます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。これが、主に従うことを望むすべての者に、イエスが要求することです。キリストに従うことは、外面的にならうことではありません。それが、人間存在の非常に深いところで人間にふれることだからです。キリストに従う者であるということは、十字架上で自分をささげるまで従う者となった方と同じになることです(フィリピ2-5-8参照)。キリストは、信仰によって、信じる者の心に住み(エフェソ3:17参照)、こうして弟子は主と同じ者になります。これが、恵みの実り、すなわちわたしたちのうちにある聖霊の活動的な存在がもたらす実りです
キリスト信者は、キリストと一つになって、キリストのからだ、すなわち教会の一員となります(Ⅰコリント12:13,27参照)。聖霊の働きによって、洗礼は、信者を死と復活の過越の神秘のうちに根本的にキリストヘと形づくります。つまり、「キリストを着る(クリスチャン)」者にするのです(ガラテヤ3:27参照)。聖アウグスチヌスは、「さあ、喜び、感謝しょう。わたしたちは、キリスト信者になっただけでなく、キリストになったのだから。…驚きなさい。そして喜びなさい。わたしたちはキリストになったのである」と、受洗者に言って叫びます。洗礼を受ける者は、罪に死んで新しいいのちを受けるのです(ローマ6:3-11参照)。イエス・キリストのうちに神のために生きて、彼らは霊の導きに従って歩き、その生活のなかで霊の実りを明らかにするよう招かれています(ガラテヤ5:16-25参照)。「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)というパウロによって伝えられた証言によると、イエスが、わたしたちに典礼と生活のなかで思い起こすよう命じている新しい契約の秘跡である感謝の祭儀(エウカリスチア)にあずかることは(Ⅰコリン11:23-29参照)、わたしたちがキリストと同化する過程の到達点「永遠のいのち」の源(ヨハネ6:51-58参照)、完全な自己奉献の源泉と力です。

このページのトップへ