マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


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 待降節第二主日 黙想会 (日生中央教会)

待降節 第二主日 日生中央教会

 時間割 9 時 ~ 10時 講話  畠 基幸 神父
     10時 ~ 11時 ミサ
      植樹記念:ウォード神父・畠神父による
      ローズマリーの植樹    
     
     11時半~ ゆるしの秘跡  
     ウォード神父、デニス神父、ハタ神父

講話: 初台での話を1時間にまとめた。(続きに資料添付)
ミサ:
 集会祈願

 ことばの典礼

 

 説教
 共同祈願
 奉納祈願
 拝領祈願
日生中央教会 待降節黙想会
パウロ年生誕2000年で、ベネディクト十六世教皇は今年から来年の聖ペトロ・パウロの祝日までパウロ年と制定されました。日生中央教会の評議会も、「聖パウロから学ぶこと、キリストを学ぶこと、そこからついに正しく生きる道を歩むこと」をテーマに活動することを柱にしています。待降節の黙想は、聖パウロから学ぶべき「回心の出来事」を学び、主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさ味わい、主の降誕のこころを準備し待望いたしましょう。
 
教会の霊性に与えたパウロの回心の意味:
パウロは、パウロの手紙のなかでもたびたびダマスコの道の途上で起こった出来事について語っています。資料02に当該個所を収録しています。パウロは、手紙の中で、また使徒言行録の中の自分の紹介の中で、自分の体験を率直に語ります。それは、主との出会いの体験ですが、その内容を霊的な識別の方法として教会の霊性のなかで生きています。

パウロの手紙におけるダマスコへの途上での体験  (資料 02)

*パウロ手紙にはいたるところにダマスコへの体験についての言及がある。
・フィリピ3・7-11 「わたしにとって有利であったこれらのことを、・・・」
・ガラテヤ1・15-16「私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出し…」
・1コリント9・1「・・・わたしは主イエスを見たではないか?…」
・1コリント15・8-9 「最後に月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。…」
・2コリント4・6「闇から光が輝きでよ」と命じられた神は、私たちの心のうちに輝いて…」
・ガラテヤ 2・20
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する信仰によるものです。」

*使徒言行録(福音記者 ルカによる)
・使徒 9・1-18、22・6-16、26・12-18

"回心"する前のパウロは自分をどのように見ていたのか?
良い参考書としては、中央協議会から出版された「使徒ー教会の起源」(教皇ベネディクト16世講話)「信仰によって義とされる」内容の説明をパウロの回心の出来事から上手に説明しています。特に189ページから192ページです。
以下の対照表はこれーン神父様から教わったものです。

特権や功績によって自分を義とする生き方
*特権:・ユダヤ人として生まれ、
・割礼を受け、選ばれた民に属し、(神に愛されて)
・モーセの律法の下に、
・ファリサイ人としての教育を受けた。ガラテヤ1章13-14、使徒22章1-5
*功績: 倫理的、宗教的な功績
・モーセの律法の完全な知識
・モーセの律法の完壁な実践(非のうちどころのない生活)
しかし、「キリストとの出会いに照らされることによって、このおうな行いによって自分が自分自身を、すなわち自分の義を立てようとしていたことを知りました。そして、このようなすべての義によって自分が自分のためだけに生きていたことを知りました。」(前掲書p190)から

ダマスコへの途上での体験を振り返って語るパウロ

(1)(復活した)主イエスを見た
主イエスはわたしにご自分を現してくださった: ガラ1・12、15-16;
1コリ9・1; 1コリ15・8 (恵みの体験)。

(2)思いがけない時に、激しい体験であった
1コリ15・8「月.足らずで生まれたようなわたしにも現れた…」
使徒9・3-5「突然…、サウロは地に倒れ_」
フィリ3・8「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが…」
2コリ4・6「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて」

(3)(愛をもって)主を知る
主の死と復活の意味を知る。ガラテヤ2・20、ロマ8:17

(4)人間を"義"として下さる主の死と復活の愛の力を知る。
主が生きた愛、十字架に至るまで生きた主の愛を信じる。ロマ8:31-39
憎しみや律法の呪いに打ち勝った主の愛に自分のすべてをゆだねる。ローマ8・1~11

キリスト信者のあり方を定義する、第二の到達点(p192)「キリスト信者のあり方は、二つの要素から成り立っています。すなわち自分自身のことを求めず、キリストによって受け入れられ、キリストに自分をささげること。そして、そこから、キリスト自身の生き方に自らあずかり、キリストと一つになり、キリストと生死を共にすることです。」(教皇ベネディクト16世)

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