マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 第24回 百日連続ミサ連帯共同祈願

第24回 百日連続ミサ連帯共同祈願への招き 
 「母は、これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(ルカ2・19)」

兄弟姉妹の皆さま、主の降誕と新年のお喜びを申し上げます。

年末、台風並みの低気圧が列島を襲いました。まことに最後まで気の抜けない一年となりました。さて、年の暮 いつものように 12月23日、第23回目の百日連続ミサ共同祈願を無事に終えました。9月15日から12月23日までのこの期間、たくさんの心痛めるニュースで満ち溢れました。世界中で救いを求める緊急の執り成しの祈りが必要な事件が舞い落ちてきました。あまりにも多くの出来事で心を乱してしまう毎日だったかもしれません。それと同時に、教皇様の行動やことばがメディアやネット上で取り上げられ、毎日のようにそれに触れていると、とても勇気づけられ励まされました。聖霊に満たされ、聖霊の導くところへと身を委ねておられる姿に感動します。近くでは、和平と和解のためにキューバと米国の国交正常化のために働かれ、また、12月2日国連の「奴隷制度廃止国際デー」には、教皇は諸宗教の指導者らと共に(イスラム、ユダヤ教、東方正教会、聖公会、仏教、ヒンズー教を代表した11人)教皇庁科学アカデミー本部で共同宣言に署名されました。現代世界の奴隷制度を2020年までに終わらせるために協働することを誓う共同宣言です。このニュースは、カトリック新聞12月14日号の一面に掲載されていますが、ネット上のYOUTUBEで、教皇庁正義と平和評議会会長ピーター・タークソン枢機卿が会見で、この現代のあらゆる形態の奴隷制へ反対メッセージを1月1日の平和の日のメッセージの中にも取り上げることを発表しました。

ピーター・タークソン枢機卿には、ウガンダでの聖霊刷新全アフリカ大会でお会いして、その人柄の素晴らしさに魅了されましたので、このニュースに注視していたのですが、わたしが属している修道会の総長ヨアキム・レゴ神父のクリスマスメッセージでも、このニュースが取り上げられ、その背景も教えていただきました。共同宣言の背景には、「グローバル・フリーダム・ネットワーク」 という団体の活動があり、その下地になったのは、オーストラリアの少女グレース・フォーレストさんの心痛める体験から始まりました。15歳のとき学校の体験学習でネパールに奉仕活動に出かけたところ、孤児院に派遣されたのです。孤児院では幼い少女たちが性的虐待を受けた境遇から保護されて、生活していました。そこで出会った少女たちの精神的にも、肉体的にも傷ついた姿を見た彼女はショックを受けました。悲惨な状況を見て心を悩ませ、彼女たちのために何かをしなければならないと決意し、2年後にお父さんと共にネパールに行ったところ、そこにあったはずの孤児院もそのような少女たちがいたという記録もすべてが消されていたことに再びショックをうけました。17歳だった少女は、そのとき消された少女たちの生の現実の厳しさを知ったのです。それから彼女の精力的な活動が始まりました。その時から声なき少女たちの声となり、あらゆる形の奴隷制を廃止するキャンペーンを世界中に呼びかける運動をお父さんと共に始めたのです。これが「ウォーク・フリー・ファンデーション(Walk Free Foundation)」で、聖公会やオーストラリアの大学で広がり、今年の3月にバチカン(教皇庁)と調印して共に立ち上げた「グローバル・フリーダム・ネットワーク」の基盤になりました。
12月10日にノーベル平和賞を受けた17歳の少女マララ・ユスフザイさん、また17歳で奴隷制を廃止する運動を始め、12月2日国連の「奴隷制廃止国際デー」にまで導いたグレース・フォーレストさん、二人は現代世界の闇の部分に目をとめ、それを傍観することなく、行動に移しました。いびつな政治・経済・宗教上の軋轢と狭間の中で人間の尊厳を奪われた人々、特に子どもや女性の声なき声の代弁者として勇気ある発言と行動が注目を集めました。ですが、私たちは、ここで感動する話で終わったら、神の始めておられる恵みは私たちと無関係になってしまいます。ここに、わたしたちの執り成しの祈りの役割があると思います。二人には、他者への共感から始まる行動が見られます。そして、それは福音の神髄を貫く愛なのです。

福音の神髄は、教えとして、山上の説教、そして、その初めに真福八端があります(マタ5章~7章)。二人の行為は、真福八端の第二項、「悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる。(マタ 5章4節)」が真実であることをあかししてくれます。ベネディクト16世名誉教皇の「ナザレのイエス」の真福八端の説明には、このように書かれています。「『悲しむ人は幸いである。その人は慰めを得るであろう』という言葉は、イエスの十字架のもとにおいてもっともよく理解することができます。他者の痛み、苦しみに対して心を閉ざさない人、悪に対して譲歩することなく、その暴力のもとにあって苦しみを耐える人、そしてこのようにして真理の正しさを認め、神の正しさを認める人は、閉ざされた世界に窓をあけ、闇に包まれた世界に光をもたらすのです。苦しむ人には大きな慰めが約束されています。その限りにおいて、真福八端の第二項は第八項と密接につながっているのです。『義のために迫害を耐え忍ぶ人は幸いである。天の国はその人のものだからである』。主がここで語っている悲しみとは、悪に対して迎合しないことです。それは、皆が行っていること、行動の規範として個人に押し付けられることに対して一種の異議申し立てをすることです。この種の異議申し立てを世間は我慢できないのです。世間は一緒に行動することを要求します。この種の悲しみは世間にとっては、麻痺した良心に対する告発と受け取られるので、-そしてそれは事実でもあるのですが-悲しむ者は義のために迫害を受ける者となるのです。悲しむ者には慰めが、迫害を受けるものには神の国が約束されます。それは霊によって貧しい者に約束された約束と同じものです。二つの約束は互いに近いところにあります。神の国、それは、神の力の保護のもとにあること、神の愛のうちに庇護されてあることであり、それこそが真の慰めなのです。」(「ナザレのイエス」第一巻p125引用)
「これらのことがみな起こるまでは決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない(マル13章31節)」とあります。二人の言動は、闇は光に勝てないという言葉を思い出させてくれます。マララさんのノーベル平和賞での講演では、「今日、わたしは自分ではなく、その6600万人の声を上げているのです」と教育を奪われている女の子たちに言及し、そして「いまだに数百万もの人々が戦争や貧困、不正といった極めて古い問題に苦しむ国々」に住む子供たちのことを心に留めて欲しいと訴えました。悲しむということの積極的な面が、ここでは私たちの心を動かし、そしてそれは十字架のイエスにおいて啓示されたように神の御心であるということです。福音は、喜びのメッセージですが、暗い闇の中に投げかけられる光のように見えないものが見えるようになる出来事です。その喜びを知った時、悲しみもまた受けます。「すでに」と「まだ」の終末の時にわたしたちは置かれているからです。そうです。わたしたちは希望の内に召された執り成し人です。苦しむ人、悲しむ人に寄り添いながら、神の国の約束を信じ願い事の成就を祈り続けます。フランシスコ教皇様の「福音の喜び」の中にも、「執り成しの祈りのもつ宣教する力」(p237~239)で、聖パウロの執り成しの祈りを解説しておられます。フィリピの手紙の、「あなたがた一同のために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っています。・・・あなたがた一同のことを、・・・心に留めているからです」(フィリ1・4、7)を引用して、「ここから執り成しを祈ることは真の観想からわたしたちを引き離すものではない、ということが理解されます。他者を心に留めることのない観想、それはごまかしだからです。」と言っておられるからです。つまり、執り成しの祈りは、観想的な次元と表裏一体のものなのです。

第23回の参加者数は、420人でした。人数が減るのは、それぞれのグループで執り成しの祈りが始まり、各グループでたくさんの祈りをしなくてはならなくなったことが大きいと思います。百日をきっちり祈りたいのに、わたしの怠慢から案内が届くのが遅れたことも大きいでしょう。
第24回目は、1月3日を2015年の最初の百日共同祈願として行います。最終日は、したがって、「神のいつくしみの主日」の日曜日、4月12日になります。今回も分かち合いの献金をしています。寄付献金のほぼ半額は、貧しい人々、小さな人々、必要に事欠く人びとへの支援に振り分けており、今回は、第22回と23回を合計した金額、747597円(6340ドル)を、フィリピンの被災地タクロバンで復興計画(バート・パスター神父)に送金いたしました。また第21回の残金を東北支援、特に塩釜小教区に30万8千600円の献金をお送りいたしました。小教区ではバザーやコンサート、街頭募金をしてもこれほどの金額は集まりません。献金を目的にしてキャンペーンしたのではありませんが、ミサの精神そのものから貧しい人々への分かち合いが正しく行われたためです。5千人のパンの増加の奇跡のように皆さまのご協力を感謝いたします。1日10円以上の献金をされた方(250名前後)が多かったことが大きなプラスになりました。参加人数が減っても献金される方は一定で、集まる寄付金も同額です。したがって、これからも続けて私たちの寄り添う心の祈りをしるしとして届けます。その他の使い道は、印刷、発送代が主なもので、あとは、司祭黙想会の講師交通費、宿泊代や刷新関連の図書出版支援費、そしてICCRSの下部組織ISAOの(私の)会議出席交通費などに補填しています。関西委員会では、毎年行われる大会運営のための経費は参加費用から賄っております。初めの10数回、無償で共同祈願を行い、通信費印刷代の支援を関西委員会から受けましたが、現在は大会会場費やホテル宿泊代が高騰し、宿泊費・参加費からの余剰金はありません。「百日連続ミサ共同祈願」を自立継続するためには一日10円の堂内献金方式の現在のやり方がベストと考えています。このような事情ですので、今後とも祈りの輪にご参加ご協力下さるようにお願い申し上げます。
 
来年度の計画は、以下のように盛りだくさんです。無事の開催と成功をお祈りください。
・第三回国際司祭黙想会 (ローマ6月10日~14日)3000人限定です。ネットで申し込みます。
・司祭修道者黙想会 (7月5日夕食~10日(金)昼食 )ソルスビー神父(オーストラリア)
・第30回北海道大会(5月4日~6日)講師赤波江神父、ウルバン神父、畠神父 
・関東大会(7月18日~20日 )講師ボブ・カントン氏  ICCRS委員、米国CCR委員 
・第20回関西大会(8月29日~31日) 講師マシュー・ウォルター夫妻、米国CCR委員
・東北大会(未定)
・第3回アジア大会(9月21日~24日) バーレン ISAO主催(アジア・太平洋地区CCR)
2015年度中に出版予定: カンタラメサ神父「イエス・キリストを思い起こしなさい」
                 ICCRS編集   「聖霊による洗礼」

クリスマス直前の8日前、12月17日は教皇フランシスコの誕生日であることを知りました。故マテオ・ベッター神父も同じ12月17日が誕生日だったことを思いだしました。マテオ神父は、クリスマスは誕生日の喜びと重なり、特に好きな季節ですと満面の笑みを浮かべ、毎日がクリスマスの喜びですと話しました。この日の朗読箇所は、マタイ福音書の系図が読まれます。長い系図の最後は、普通のナザレのおとめマリアで終わります。しかし、恵みによって新しい系図が始まりました。この系図に続く人々は、信仰によって新しく誕生する人々です。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか?」(マタ12章46~50節、マコ 3章31~35節、ルカ7章22節)「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とイエスは答えられました。わたしたちはその信じる者の新しい系図に招かれた神の家族として世界中の人類家族、兄弟姉妹のために執り成しましょう。
2015年は、日本の教会は信徒発見150周年を祝います。そして高山右近生誕400年、列福が決定される年になることでしょう。人口1200万人に対して推定40万人を超えるキリシタンがいた日本。高山右近や黒田官衛兵は、戦国の乱世のさなかで、義に飢え渇き、まことの神である天の父の御心を求め、あの血なまぐさい戦乱の中で、平和を実現するために働きました。今、わたしたちもまた、新しい福音宣教のために、新しい聖霊降臨を願って、現在の世界に現われる「しるし」を思い巡らし、緊急の必要のある人々、教会指導者、世界の指導者が平和実現の道を着実に歩めますように執り成し、百日連続ミサ連帯共同祈願を始めましょう。
2014年12月24日 クリスマス・イブ
素晴らしい飛躍の年となりますように 主の祝福を皆さんと皆さまのご家族の上に祈ります。
聖霊による刷新関西委員会委員長
連帯共同祈願司式司祭 畠 基幸
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 第23回百日連帯共同祈願ミサ

第23回百日連帯共同祈願ミサへの招き


✞ 神の賜物を再び燃え立たせるよう勧めます。(第二テモテ1・6b)
親愛なる兄弟姉妹の皆さま

 第22回百日連帯共同祈願ミサは、8月25日無事に満願日を迎え、第17回聖霊による刷新関西大会の派遣ミサで皆様の祈願を奉納しました。さらに、9月2日から行われた司祭修道者の刷新黙想会において引き続き共同祈願を延長し奉納しました。

 前回、ウガンダのアフリカ大会に参加することを書き、皆さまの祈りのバックアップを受けてすばらしい旅になりました。アフリカ全土から集まった賛美の集いのリーダーたちの力強い祈りと体全体に満ち溢れる賛美のリズムが主の復活の喜びを肌で感じることができました。特に中心になった講師は、教皇庁正義と平和の評議会会長のピーター・カークソン枢機卿(ガーナ―出身)でした。枢機卿は、長崎、広島の式典に参加したとのことで、日本から来た私には励ましの声をかけてくださり、また会場のあちこちで、参加者から日本はどうなのかと聞かれました。“How is Japan?” 日本は元気かは直訳ですが、つまり東日本大震災で受けた被害や福島の原子力第一発電所の爆発事故について、その後どうなのか?アフリカの奥地でも皆心配して祈ったとのことです。
 
 先進国日本の発展の中で忘れ去られた”神の存在“は、彼らにとっては大きな関心事です。同じビクトリア湖畔のスペケ国際ホテルには、わたしたちの大会と日程が重なって諸宗教の宗教者の国際会議も別の会場で行われていて紛争を解決するための対話が持たれていました。アフリカの「病」に対する処方箋は、汚職体質を撲滅し公的機関の信用回復と環境保護の啓もう活動です。宗教者たちの宣教活動は、アフリカの非人間的な状況からの解放を教育、病院、社会制度などの面で地道に活動してきたのです。しかし今やその活動がテロリストたちの標的になり善意の奉仕者や活動家を脅かしいています。
 
 赤道直下に位置する東アフリカのウガンダは、日本の本州ほどの広さの小国で、キリスト教徒は90%を超えるキリスト教国です。20数年前には北の国境付近で200万人の難民を生み出しましたが、現在はキリスト者であるムセベニ大統領により長期安定政権を維持して治安もよく貧困状況から離脱した国です。ウガンダの国民の48%はカトリックで、聖公会の36%と共に村々にまで小教区、巡回教会が置かれ、司祭修道者の召命も多く、レジオ・マリアの活動とともにカリスマ刷新の祈りの集いは小教区の中に組織され、信徒の奉仕者のリーダー教育と啓蒙活動に力をいれているとのことでした。大会の最終日には、1964年に列聖された殉教者、聖カロロ・ルワンガと同志殉教者の巡礼地を訪問し、列聖50周年記念ミサが行われました。アフリカ全土のカリスマ刷新家族の集いが、殉教者の地ウガンダで行われたのは、キリスト者に対する迫害と殺略の事件が日常茶飯事のように報道されるなかで、聖霊の賜物が豊かに現れ、小教区で賜物による奉仕が教区で認められ、現実に活動している刷新のあるべき姿が他のアフリカの国々の教会の将来の姿となることを期待したものと思います。

 ところで、ピーター・カークソン枢機卿の講話は、「Going out (出て行く)」という表題でした。これは、主催者側が、教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」を念頭に置き、第一章 教会の宣教の変革の最初の項目と同じ主題「出向いて行く教会」の意味を重ね合わせて、枢機卿に講話を依頼したようです。枢機卿は「Going out(行きなさい)」のテーマだけをローマで受け取って来たので、カリスマ刷新の大会で何を話したらいいかわからないがと、聖書的なアブラハムの「旅立ち」や、モーセの出エジプトの「脱出」や、エレミヤの預言者の召命物語にある「派遣」などを説明して、今日的な意味とイエスの「宣教命令」を生きる上のチャレンジ(挑戦)について語られたように思います。まさに教皇フランシスコの本の内容と重なっていました。「五旬祭の日に使徒たちから『自分の故郷のことば(使徒言行録2・6)で説教を聞いて最初に回心した人々も、驚嘆に満ちてその喜びを味わいました。この喜びは、福音が告げられ、実を結び始めていることのしるしです。けれども、この喜びには、脱出と自己犠牲、すなわち自分自身から出て行くダイナミズムが伴います。それは、つねに、新たに、より遠くに、種を蒔き続けることです。』(「福音の喜び」21項 p29) 

 聖霊による刷新が、内的なグループにとどまらず、教会の核として「本来的に宣教を生み出す」(同上23項p30)恵みの源泉となるために「あらゆる人に、あらゆる場所で、あらゆる機会に、ためらうことなく、嫌がることなく、恐れることなく、福音を告げるために出向いていくことは重要です。」(同上23項p30)

 それでは、「聖霊による刷新」は、福音を告げるためにどこに出向いて行くのか?今年の夏の大会では、シリル・ジョン氏は、聖霊降臨を体験した使徒たちは、「Fellowship」(交わり)に向かったと言明されました。教会の原点というべき、「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(使徒2章42節)」初代の教会の模範です。教皇フランシスコも、「福音の喜び」(29項p36~37)で、「小教区における豊かな現実との関係を失うことなく、喜んで部分教会の司牧組織の一部となるのが非常に健全なことです。」と、種々の運動体や諸団体、つまり聖霊によって生じた公会議後の刷新運動が根無し草の放浪者となることを避けなければならないと述べておられることを真剣に考慮して活動していかなければならないということです。そして、教会に「福音宣教の新たな熱意と世界と対話する能力」(同書29項)をもたらして教会を刷新する奉仕を目指さなければならないと思います。これは大胆なことですが、謙遜にことは始めなければ何もなすことができないと思います。

 「福音宣教の新たな熱意」として、わたしたちは頂いた「聖霊の満たし」の恵みの本質を理解して仲間に、兄弟に、家族に、そして教会共同体に伝えたいと奮闘しています。

 前回は、名誉教皇ベネディクト16世の「ナザレのイエス」(第二巻第5章)から得た知識を土台に、「祈りの集い」で行われる賛美がミサと無関係の賛美でないことをお伝えしたかったのです。「祈りの法は信仰の法」といわれます。「典礼」の中にカトリック教会の豊かな信仰の宝があり、聖霊による刷新は典礼の宝を燃え立たせる働きがあるように思います。聖霊の油注ぎによって信仰が燃え上がり、典礼のことばとしるしが聖霊の息吹によって生き生きと祝われるようになることを経験するからです。そして、第17回聖霊による刷新関西大会では、三日間を会場全体が「高間(二階の広間)」での出来事を祝うという典礼の枠組みを意識して取り組みました。聖週間の典礼の一部を取り入れることで、洗足式、十字架の礼拝による回心への招き、復活ローソクと洗礼の約束の更新、堅信の更新など秘跡によって受けた聖霊の恵みを燃え立たせることをしました。聖霊による奉仕の賜物(カリスマ)を受けて派遣されるために、イエスと同じ僕の姿を通して奉仕する必要があることを典礼の行為によって確認できたと思います。わたしたちの聖霊の賜物の奉仕は、新しい愛の掟、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34、15・12)によって、「これをわたしの記念として行いなさい」というイエスの十字架に至るまでの愛と従順、イエスご自身の従順を反映し伝え奉仕する者として派遣されるはずです。羊の世話をする恵みの分配者であって管理者ではありません。
 
 ところで、わたしたちは教皇フランシスコのイタリア大会(6月1日)での刷新に対する期待のなかで、刷新の初期の頃、皆熱心に聖書を持っていたこと指摘され、今もそうしていますかと聞かれました。この聖書を大切にする必要性は、聖書の民の存続にかかわる重要な意味があることを理解するとすんなり納得できるのです。つまり、ミサのことばの典礼の由来は、ユダヤ教の安息日の会堂(シナゴーグ)の典礼と深くかかわっていることを、5月の関西地区での祈りの集いの勉強会で聖霊に導かれて理解できました。

 この時の主題は、「主の日 -日曜日の重要性」(聖ヨハネ・パウロ二世教皇使徒的書簡)です。聖霊の年の聖霊降臨の日に発布されたこの使徒的書簡は、「主の日」を祝う意義を余すところなく解き明かしている書です。「聖霊による刷新」の中心的な体験、「イエスは主」であるということを簡潔に表現しています。21項「キリスト者には、・・・キリストに対する賛歌を神に対するかのように歌う」という習慣がありました。そしてキリスト者たちが『主の日』について語った時、かれらはこの表現に復活を告げ知らせることの十全な意味を与えて、『イエス・キリストは主である』(フィリピ2・11、使徒2・36、1コリント12・3参照)と語りました。こうしてキリストには、70人訳聖書が旧約の啓示において発音してはならなかった神の名『YHWH』を翻訳するときに用いていたのと同じ称号(主)が与えられました。」(p29)こう告白することは、「聖霊によらなければ誰もイエスは主であるとは言えないのです(1コリント12・3)」。これが聖霊刷新の満たしの共通体験です。聖霊に満たされると、主の日は、新しい創造の日、主の復活を心からすなおに喜び祝えるのです。それは、ある意味で小さな復活、聖霊降臨の体験であり、その体験を踏み台にして救いの業を記念する賛美と感謝の祈り(エウカリスチア)を共同体と共に分かち合う喜びに満たされます。(カトリック教会のカテキズム 1345~1347)
 
 注:聖霊の満たし(The Baptism in the Holy Spirit)は、①洗礼や堅信の恵みを更新すること、②新しい派遣に際して神の特別の賜物が与えられる の二つの面があることは、カトリック教会の共通の認識です。

 さらに、安息日の典礼に関して、「キリスト教の礼拝」(J、Fホワイト著、越川弘英訳)には、ことばの典礼と感謝の典礼の共通の源泉を考察する資料があります。
 「みことばの礼拝の歴史という項目の中で、シナゴーグ礼拝の起源と目的について詳細に書かれています。バビロン捕囚期のバビロンで始まった礼拝形式で、民族の生き残りをかけたアイデンティティを想起するために発展した儀式です。神のみ業を想起する文書を残し、共同体で声を出して読むこと、その内容を深く思い巡らすこと、それを喜んで受け入れることが主な会堂で礼拝でした。神殿も祭司もいらない。一般信徒が導く形式で、10人の男性が集まれば会堂の礼拝は成り立った。そして、シナゴーグ(会堂)の礼拝の焦点は、神のみ業に置かれ、神のみ業の歴史(聖書)を読むことによってほめたたえただけでなく、この歴史で生み出された賛美(詩編)を歌い、その歴史を祝福される神に祈り、そしてその歴史を深く顧みること(説教)によって、それをほめたたえた。こうして礼拝は、契約についての共同の記憶を教えたり伝達したりする方法になった。イスラエルの存続は想起(アナムネーシス)を通して、客観的な「死せる過去」でなく、「生ける神」を思い起こすことで可能になった。現在の礼拝の中で過去の出来事は、現在化されたリアリティ-となり、神の力が体験されたからです。(要約p206~207)」

 このようなユダヤ教の礼拝形式が、ミサの一つの礼拝、二つの部分(ことばの典礼と感謝の典礼)の原点になったでしょう。会堂の典礼の中核にあった「神がご自分の民になさったことがらについての記憶」は、キリスト者にとって洗礼の恵みの源にある主キリストの救いの業の記憶(過越の神秘)を祝うことが賛美の礼拝の中心になりました。紙面が足りなくなりました。再び手紙が遅れたことをお詫び申し上げます。

 今回の共同祈願の期間は、悲しみの聖母の祝日(9月15日)から天皇誕生日(12月23日)までの百日間を祈ります。この連帯100日共同祈願は、日本の教会に聖霊が豊かに注がれるように新たな聖霊降臨を願うというものです。そのために、全国の刷新のメンバーがともに家族として同じ食卓に囲む交わりを保ち、日本の教会の刷新のためにとりなすこと、緊急の助けを必要とする兄弟姉妹のために連帯すること、そして、教会奉仕のために聖霊の賜物が与えられるように願います。皆さまの上に神の祝福を祈ります。 

アーメン・アレルヤ

聖霊による刷新関西委員会
委員長

畠 基幸 CP

 第23回百日連帯共同祈願ミサ(はがき文)

9月15日 悲しみの聖母の記念日から再び共同祈願を始めます。今回は、12月23日までです。

はがき文:

 第23回百日連続ミサ共同祈願
(2014年9月15日~12月23日)
✙ 来てください 聖霊よ
 父と子の霊であるあなたを賛美します!
皆様の意向:ご自身のとりなしの祈りをお書きください。




今日も、新しい聖霊降臨の恵みを受けて感謝の祈りをささげます。
今もっとも助けが必要な人々のために愛の奉仕ができますように。
栄光は父と子と聖霊に、初めのように今もいつも 世々に、

▼アーメン アレルヤ
氏名(+霊名)             

 青年の集い 9月23日

梅田のサクラファミリア(聖家族)で毎月第二木曜日 分かち合いと聖体賛美式をおこなっています。7時から8時半までの短い時間ですが、聖書箇所を読んで、感じたところを声に出して祈ってみる。 何か感じたら それを分かち合うというようなやり方ですが、毎回 10名前後集まって続けています。 9月23日は、その集いをもう少し時間のある形で自分自身を知るようにプログラムが生まれました。時間のある方は どうぞ。 高校生以上はどなたでも


  召命促進チーム メンバー 畠
  ちらし(PDF)をアップロードしました。 見てください。
  

 国井神父さま 叙階50周年おめでとうございます。

2014年6月1日 主の昇天の主日(祝日)、国井神父様の叙階金祝ミサが池田教会で10時から執り行われました。

goldenjubilian ミサ後の記念写真

Kunii 002 祝賀会 
 風船は 中高生たちの飾りつけ 前日一日をかけてがんばりました。
 食事は、200人分、これまでの最大の種類と量がもてなされました。池田教会の婦人たちの一致団結、協力の精神が発揮され、普段からの交わりの真価が発揮されました。ありがとうございます。ご本人、会員、参列者の喜びが満ち溢れました。 

 Pope Francis attended the Italian Charismatic Renewal Conference

5万人以上のメンバーが教皇のために祈りました。

 「はじめは、カリスマ刷新はサンバの学校だと思っていたのです。そして、その祈りのやり方や教会に新しい事柄を持ち込んだので嫌いだったのです。でも、そのグループの何人かの人と出会い、その人たちを知るようになって、そこにすばらしい実りがあることがわかるようになりました。・・・最初の頃、カリスマの人たちは聖書や新約聖書を持っていることでよく知られていました。それは今でも本当ですか? ~はい~ それはわたしにははっきりしません。どうか、いまもその習慣を続けてください。はじめの愛に戻ってください。」
そして、7つのグループが証をした後、教皇様は今日悪魔が家族を、そして教会を破壊しようとしているから、主に守られるように祈ることを求めました。
 5万人以上の参加者がひざまずく教皇のために祈りました。




もっと詳細な情報は高木様のブログに掲載されています。
 (http://kerygma.hatenablog.com/)

 第22回百日共同祈願 はがき文面

第22回百日連続ミサ共同祈願
(2014年5月18日~8月25)
✙ 聖霊、来てください!
 賛美と感謝の賛美歌を歌いましょう。
皆様の意向:ミサの感謝の祈りにささげるご自身の感謝と賛美を自由にお書きください。
1 全国共通のとりなしの意向




祈願 キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉と栄光は、世々に至るまで  ▼アーメン
氏名(+霊名)             

 第22回 百日連続ミサ共同祈願

第22回百日連続ミサ共同祈願への招き
✞ 復活節の恵みに満ちた日々の内に
「これをわたしの記念として行いなさい。」(ミサの聖体制定句を参照)
親愛なる兄弟姉妹の皆さま
 聖ヨハネ二十三世教皇と聖ヨハネ・パウロ二世教皇の聖人誕生おめでとうございます。第21回共同祈願は、二人の教皇様の列聖式を準備して皆さまの祈りをミサの奉献に加えて奉げ、列聖式の当日、いつくしみの主日の四月二十七日に満願を迎えました。この度の共同祈願の参加者は、五百二十五名でした。また、フィリピンの災害への支援も合わせて呼びかけた皆さまの分かち合い献金の合計は、前回の献金額の残余を加えて、126万1千400円になり、内わけは、東北被災地献金30万8600円(20回の残余)、フィリピン・タクロバン市被災地献金(バート神父への送金は五千ドル=52万円)49万7千500円、そして事務局への献金45万5千300円という結果になりました。事務局献金は、刷新関係の本の出版準備金と百日共同祈願の事務経費に当てられます。皆さまの支持を得て、一日10円の事務経費をお願いし、その半額を使徒たちの時代から実践された貧しい人々への奉仕にささげる献金ができるようになったことをまことに感謝いたします。毎回参加人数は減っていますが、その分、なじみになったお名前を心にとめて祈ることも喜びになっています。毎日の奉献のミサの中に皆様の名前を覚えて祈ることで、私自身皆さまから支えられ祈られていることを実感しております。さらに22回の百日共同祈願への参加を通して、皆さまの上に聖霊の豊かな注ぎと働きを願って祈り続けます。

この度お知らせが遅くなりましたが、第22回百日連続ミサ共同祈願は、5月18日(主日)から始めて8月25日(月)までの百日間を祈ります。祈りの意向は、いつものごとく日本の教会に聖霊の力強い注ぎが現われますように執り成すことです。そして、日本の教会のリーダーのため、また日本の政治経済を司るリーダーのために祈り、またわたしたちの心にかかる人々のために祈ることです。
毎回、百日間共同で、ミサの共同祈願の意向として毎日ささげますが、どのように祈ったら祈りが聞かれるのか? それはわたしたちの一番の関心事です。どのような態度と心構えで祈るべきなのか。気になるところです。祈りは御父へのイエスの祈りが最高の模範であり、ミサはその祈りの頂点であるとわかっております。そして、百日共同祈願は、そのイエスの奉献に与ってささげる祈りですから、確かな実りが期待できるのですが、わたしたちは、まだその実りを見ていないと落胆するなら、イエスの祈りを十分にまだ理解していないと思われます。毎日ミサをささげているわたしも、落胆はしなくてもマンネリに陥ることはあります。そんなとき、ベネディクト名誉教皇16世の本で、目からうろこのミサの理解を新たにして、祈り始めると、すごく豊かな恵みを感じるようになりました。ですら、時々は、どのように祈るべきかご自身の祈りや祈り方を省みて、意識して祈りを学ぶ必要があるのです。
 その本とは、教皇様の「ナザレのイエス」のことで、第二巻第5章、「最後の晩餐」についての論述は、地上で実際に起こった歴史に基礎づけられたエウカリスチア(聖体祭儀)の制定をテーマにして、信仰にとって本質的なことを詳述したベネディクト教皇様の信仰告白と言えるものです。わたしにとって光になった個所は、「わたしの記念として、これを行いなさい」というイエスの命令のことばです。 ベネディクト教皇様は、「主は、正確に何を繰り返すことを命じたのでしょうか。」と読者に問いかけます。「イエスの最後の晩餐が、過越しの食事であったとしても、過越の食事を繰り返すことが命じられたのではないことは確かです。」と旧約の過越の食事(ニサンの月の十四日)のことではなく、イエスご自身の過越、すなわち「イエスがあの晩に新たに行ったこと、すなわち、パンを裂くこと、祝福と感謝の祈り、そしてパンとぶどう酒の聖変化の言葉、これ以外ではないのです。」(前掲書p167)と明快に答えられています。ミサの典礼文では、直後に記念唱で歌い、「これ」を指し示す内容として過越の神秘を記念する言葉が続きます。「主イエスの死と復活の記念を行い(第二奉献文)」、「御子キリストの救いをもたらす受難、復活、昇天を記念し(第三奉献文)」です。その一回限りのイエスの過越の奉献とわたしたちのミサとの関係を、教皇様は明解に、パンを裂くこと、祝福と感謝の祈り、そして聖変化の言葉の三点を列挙して神学的に解釈し奉献文(感謝の祈り)の内容をより広く深い理解の高みへと導いてくださったのです。その中で、神の賜物に対する感謝と賛美について新たな光があったのです。
エウカリスチアの制定の記述には、ユダヤ教の重要な感謝と祝福の祈り(ベラカー)の背景があることは、典礼書に解説されていることですが、名誉教皇様は、テモテ第一の手紙4章4節を引用してイエスの最後の晩餐はこの伝統に従っていると指摘し、「エウカリスチアの制定の言葉は、この祈りの枠の中にはめ込まれ、この祈りの言葉において、感謝は祝福となり、聖変化となるのです。」(前掲書p154)と述べておられます。そのテモテの第一の手紙の部分を引用しますと「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです(Ⅰテモテ4・4)」。教皇様は、続けて「聖変化の言葉は、イエスと共に祈る祈りの一部であり、感謝と賛美の中心部分です。それによって地上的な賜物は、イエスのからだと血として、すなわち、自らをわたしたちに委ねる子の愛による神の自己贈与として、神から与えられるのです」(前掲書p155)と指摘してくださいました。
つまり、わたしは、「聖霊による刷新」の特徴的な祈り、賛美と感謝の祈りは、このエウカリスチア(感謝の祈り、あるいは奉献文)の祈りと結ばれていると感動したのです。プロテスタントの兄弟たちに、ミサの奉献の祈りがないのに大きな実りを受けるのは、みことばにしたがって賛美と感謝の祈りをするからではないかと・・。そして、「これをわたしの記念として行いなさい」という命令は、まさにミサに限らず、すべての日常の出来事の中にあって、神に賛美と感謝をささげることによってすべてが聖なるものとされるという恵みが現実のものとなるとわかってうれしくなったのです。そして、わたしたちが単にアレルヤや賛美の歌を口にして霊に酔いしれている人々ではない、まさに新約の民、イエスの過越の神秘、主の十字架と死と復活に与る恵みを証しするために選ばれ呼ばれている者であると自覚できるのです。そして、教皇様は、イエスは何を感謝されたのでしょうかと聞き、祈りが聞き遂げられたこと(ヘブ5・7)、イエスは復活の恵みについて父に感謝されたのですとだめ押しされました。(前掲書p168)これこそ、まさにわたしたちが、「聖霊による洗礼」の恵みとして祈りの集いの中で「イエスは生きておられる復活された方、主」と告白してきたことでした。
まさに、かって日本のカトリック教会でも「賛美の力」(マーリン・キャローザース)の本が読まれ、聖霊刷新の集いの中で喜びにあふれた人々の祈りを思い出しました。油注がれた賛美の歌の大半は、キリストがなしてくださったことへの喜びと感謝の表現です。ミサもまた、旧約の祭儀のいけにえを捧げる奉献ではなく、イエスの成し遂げてくださったことへの感謝のいけにえの奉献なのです。「古い神殿祭儀を解消し、それに代わる新たな祭儀、それは言葉による神の賛美、イエスにおいて受肉した言葉による神の賛美です。それは、死のただ中を通りぬけて行ったイエスのからだによって人間全体、全人類を包み込む言葉による神の賛美です。それは新しい創造の始まりです。」(前掲書p169)
わたしにとって、ますますミサは喜びの感謝の歌となって、何度ささげても疲れどころか、いのち全体が復活するわたしの主への賛美の歌と感謝の祭儀になっているのです。ミサと賛美の集いは別物ではないのです。
長文で複雑な内容になったので、わたしの喜びの発見を皆さまに十分お伝えできたか心もとないのですが、たいへん百日共同祈願のお誘いが遅くなったので、丁寧に推敲することができませんのでお許しください。ちょうど、バート神父さんからタクロバン市でのその後を伝えるメールが届きました。
「建物の修理や建て替え、そして人々の生活を立て直すことに忙殺されています。パラクレート(聖霊の名=弁護者、助けぬし)刷新センター周辺の山側の斜面にココナツとカカオの木を栽培するために大規模な植林計画を立てて実行中です。また、長期的に貧しい村落の人々を支援するため、特に学校を離脱した青年たちを助けるために、新しいパラクレート農業経営学校を16歳から26歳までの青年を対象に開設し、2年間農業経営を指導する目的で建設中です。現在35名の青年たちがパラクレート刷新センターでわたしと一緒に生活しています。神の恵みによって、2年から4年の内に、彼らを園芸や家畜の生産農家や農園者に育て上げたい望みを持っています。 これは、非常に大がかりな計画に思えることでしょう。しかし、わたしは、このようにしてこそ、私たちの周りに生活する貧しい家族を助けることができると信じております。」
 被災して瓦礫となった山林や田畑を再び復興させ、近隣の村人の生活を再生させるためにバート神父さんとその共同体は今立ち上がって活動しておられる様子です。バート神父さんから、百日共同祈願の皆さまに祝福を送ります。くれぐれもよろしくとのことです。
 まだまだ復興には時間と資金が必要と思いますので、前回と同様に第22回も献金を集めてタクロバン市のバート神父様のプロジェクトへ支援する予定です。また、8月23日(土)から25日(月)まで関西大会が行われ、シリル・ジョン氏を迎えます。「預言的とりなしの祈り」についての更なる祈りと行動の呼びかけがあるものと期待しています。この大会の最終日に百日共同祈願の満願を迎えますので、どうか大会の準備と成功のためにお祈りください。また、関西委員会から川瀬さんと私が全国を代表してウガンダ(カンパラ)で行われる「カトリック・カリスマ刷新の家庭大集会」に参加します。イスラム過激派によるキリスト教徒弾圧のセクトが暗躍しておりますので、どうかアフリカ大陸のために主キリストの力ある業をお祈りください。 賛美と感謝の内に、アーメン アレルヤ!   

 初誓願 御受難会女子 5月5日

女子御受難会では 5月5日午後1時半より 一人の修練者の誓願式がありました。

 初誓願式 ヨセフ 稲葉善章 修道士

久しぶりに御受難会の初誓願が行われました。23日午後4時より誓願式ミサが行われ、近隣の会員があつまり、また黙想の家関係者と近隣の女子修道会のシスターたちが参列しました。
これからアントニオ神学院に通い司祭職を目指します。皆様のお祈りをお願いします。
 誓願式の様子は ここにある写真ビデオをご覧ください。
 
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