「歳末たすけあい募金にご協力を・・・」
阪急池田駅改札付近と満寿美町出口ダイエー前の二か所で池田教会の社会活動委員とボランティの皆さんで呼びかけました。あなたにも届いたはずです!声を出せば、なるほど答えてくれる人がいる!でも、声を出さなければ、ほとんどの人は通り過ぎていく。『貧しい人のためなら、乞食になるのも辞さず。勇気が湧き上がる。これも一つのカリスマ、神からの賜物であろう。』王神父ーイエスのコットネ(花村)兄弟姉妹会ー創立者の言葉。
こんな感想は的を得ているのだろうか?答えてくれる人の多くは高齢のお年寄りか、障害者か、幼い子供連れの家族、それに対して、まったく無視して通るのは金髪のコスプレやしゃれた服を着た若者たち、この若者たち、必死に働いた小遣いだろうか?自分の稼いだ金は自分の楽しみのためにだけ使う。誰にも迷惑をかけていない。意味のない世界にほんの少し夢を身につけたい。そんな声が聞こえてくるように感じる。・・・イエス様は金持ちとラザロの譬えを話された。「おまえは生きている間に良いものをもらっていたが、反対にラザロは悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、おまえは悶え苦しむのだ。(ルカ16:25~26)」
これだけを聞くと、この世は恐ろしい裁きの時のように聞こえる。しかし、待降節、降誕節は喜びの季節である。救いの喜びに歓喜する時である。御父の愛に全世界は満ち溢れて、御子の誕生を喜び迎える。どんな喜びがあるのか?人が神と、神が人と、相互の交わりに入る喜びである。福音は、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある(ルカ15:10)」と、この世の死の文明(ものとなる宿命)から愛の文明(愛の人ー他者のための存在すなわちペルソナーとなる約束)に軸足を変えて(回心)、あなたのために命となってくださった「主」のために生きる神の子の誕生(目覚め)を喜ぶ。
イエス様は高価なナルドの香油をイエスの埋葬の準備のために惜しみなく注いだ女に、「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。・・・世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。(マルコ14:7~9)」と言われた。そしてイエス様は、たとえで話したラザロとは、たとえではなくご自分のことで、御父のふところにいるのはイエスご自身のことだと明かされる。
募金への呼びかけは、あなたの愛への呼びかけとなりますように祈ります。