マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 「主日の典礼」奉仕者準備会 趣旨説明

この夏の宿題の一つがだんだんと形になってきました。秋はこれにじっくり取り組むことになります。

 わたしが「主日の典礼」奉仕者準備会でしようとしていることは、信仰共同体、奉仕者共同体、家庭共同体の中に学びと養成の場と分かち合いの場のひな型となるようなものを考えているのです。これは、「キリスト者小共同体」-21世紀への希望の展望ー(菊池功訳、新世社)で紹介された「小教区内のさまざまな小共同体」の概念に近いものです。ただ端緒は、主日の典礼の積極的参加と共同体としての奉仕を学びながら、中心にみことばを祈り、みことばを黙想し、みことばから力を受けるようなキリスト的生き方を伝達する場にしたいのです。

 趣旨説明を書いてみました。これまでの小教区のやり方では現在の問題を解決できないので、やはりこのようなみことばを中心にしたビジョンを推し進めたいと考えていることを書きました。これはシノドスでも強調されたことですので、いい方向だと思います。
趣旨説明

 典礼準備会への提案

毎日曜日の典礼では、奉仕者が毎回役割を担当して典礼を行っている。教会生活の中心にある愛の奉仕です。ここを活性化することが典礼を生きる喜びが湧き上がることでしょう。

 池田では 奉仕者は地区別にあり、日生では希望者を募ることで毎日曜日をつつがなく行っている。だが、これは幾分担当者任せになっており、互いの連携が弱いことに気づきます。朗読者、奉納者、典礼聖歌隊、共同祈願、聖体奉仕者、そして司祭・・・ 朗読者(2名)と奉納者(2名)それに共同祈願(1名)は司式者と一緒にみことばの分かち合いと祈りをして準備する必要があると思います。典礼聖歌やオルガニストの準備はかなり前から入念にしているのに、朗読者はほぼ一週間まえか、当日になって初めて当番と気づいたり、担当者が欠席したりして急きょ埋め合わせするような場合がたびたび見られます。これは日曜日の典礼奉仕の重要性に対する意識が欠けているようです。個人的にはちゃんと朗読できるから、きちんと歌を歌えるからということよりも、奉仕する奉仕者たちがチームとして典礼の準備をともにし、祈り互いに励まし合うような一体感をつくることです。これが全体を変えます。

 それで 現在のところ ミサ後に何とか翌週の典礼準備会をすることを提案しています。これは当番になった奉仕者がチームとして奉仕するのだという連帯と責任の意識を深め、主日のミサの典礼奉仕を目に見える一致の共同体に奉仕することを目指しています。

 レクチオ・ディヴィナの方式を取り入れ、司祭と共にみことばを聞き、その日の典礼の反省も加味しながら、次の週の日曜日に向けて祈りの時を持つのです。時間がなかなかとれないというのが共通の悩みですが・・・日生ではミサ後すぐに、池田では12時から13時までというようなスケジュールを考えています。9月ごろまでには具体化していきたいと思います。

 まずは、以下のような 提案内容ではどうでしょうか?
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 受難の主日(枝の主日)

聖週間の始まりです。
 串本教会で受難の主日を祝いました。小教区のメンバー8名、
谷口夫妻、柏谷夫妻、堤さん、西澤さん、本田さん、小川さんと私で9名の主のエルサレム入場の行列と主の受難のミサでした。グレグ神父がこの地で亡くなり司祭が常駐しない教会です。
 
 前晩、昼の2時に池田を発って、6時15分に串本駅に到着、そこで連絡先の信者さんに電話すると、駅から下りて、大通りを右へまっすぐ進んで10分ほどで串本高校に突き当たり、その近くにありますと教えていただいた。住所も地図もなく薄暗くなった夜道をとぼとぼ15分ほど歩いても高校に出くわさないので、なんとなくこっちの方向でいいのかな不安になって信者さんの携帯や連絡先の電話に電話しても誰も出てくださらないので、さらに歩き続ける。主の天使の導きを信じて、教えてと願うと、そこに大きな裁判所の看板が目に入る。このあたりの奥にあるかなと思い、入り組んだ細い道に入ると大きな建物が遠目に目に入ってきて、あれが高校かなと見当をつけて歩くと、案の定高校だったが、そこからどこに教会があるのかわからないので、ちょうど駐車場で立ち話をしている人がいたので、声をかけて教会はどこですかと聞くと、カトリック教会はまだずっと先の突き当たりを右に回ってと教えていただき、真っ暗な道を通りぬけて右に回ると教会らしき門の前にたち、十字架の屋根とマリアのご像があってようやく無事到着、安心しました。もう6時45分、地図がないとこうも時間がかかるのかな。・・・あらかじめ教えていただいた鍵の隠し場所を見つけて教会の中に入りました。

 静かで、暗く、誰もいない聖堂、いいえ、イエスのおられるところです。これはわたしの隠れ場に最適な場所かもしれない。テレビもインターネットもない。祈るには最適な所だとの印象。台所に冷蔵庫とガスレンジがあったので、早速、夕食の材料を買いに出かけて、超モダンなスーパーマーケットを見つけました。まぐろの本場と値段を見て買うかどうか財布と相談しながら行ったり来たりしながら、やはり四旬節、10個98円のたまごと38円のもやしとトーストパン(3枚)110円と具入りのインスタントちゃんぽん麺で済ますことにしました。ここなら数日間自炊しながら快適に過ごせそうだなとか独りごと言いながら、食事をして風呂に入り、いつもよりも早めに寝ました。主イエスと私だけの結構楽しい夜でした。

 

 四旬節第三主日(奈良登美ヶ丘教会)

四旬節は黙想会シーズンです。各司祭はあちらこちらの教会へ共同回心式や黙想会の依頼を受けて奉仕に出かけます。ほとんど多忙な毎日に司祭もまた黙想のために立ち止まり自分の説教に耳を傾けます。自分が話していることを生きているのかどうかを?

 四旬節第三主日 2010年3月7日(日)
 
 『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされた。(出エジプト3.14)

 ルカによる福音(13.1-9)
 
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 
畠神父の講話(要約)登美ヶ丘教会のホームページ掲載され今はバックナンバーの中におさめられています。たまには人がどう聞いたのか考えてみなければなりません。これはまったく原稿もなく何を話すかも話の筋が見えていなかったものを上手にまとめてくださったのです。感謝です。皆様ありがとうございます。

  登美ヶ丘01
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 あたらしいぶどう酒 (奈良・登美が丘教会)

四旬節第三主日 
奈良・登美が丘教会で土日黙想会を指導しました。テーマは、「あたらしいぶどう酒」です。

 今回も原稿もなくアウトラインもなく話したので、途中どこへいくのか不安になりました。が、運よく聖霊の導きで話がまとまりました。皆様のお祈りありがとうございます。

 あたらしいぶどう酒
 土曜日 -午後7時から8時半-

 聖書箇所 ヨハネ福音 15章1節~17節 

 「わたしはまことのぶどうの木」(1節)
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(5節)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(9節) 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(13節)「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節C)「わたしがあなたがたを選んだ」(16節B)共同訳

 命のパンとあたらしいぶどう酒(西町教会黙想会)

灰の水曜日(2月17日)~四旬節第一主日(2月21日)

 今年の四旬節の黙想会には、長崎の西町教会、奈良の登美が丘、和歌山の串本教会で奉仕いたしました。四旬節の黙想は、テーマが回心への導きです。そこで、二〇〇八年の世界代表司教会議(シノドス)のみことばについてのテーマ「教会生活と宣教における神のことば」の報告書を参考にして、「命のパンとあたらしいぶどう酒」を考えてみました。

 報告書の中で討議され脚光を浴びた、みことばを信仰のレベルで祈る方法、「レクチオ・ディビナ」(聖なる読書)の伝統を紹介して、主日のミサ(年間第一主日主の洗礼~第六主日真福八端)を読み解き、黙想の題材としました。


西町001 パソコンの画面を見ながらの説教 
この日は、ハイテク神父と冷やかされました。朝晩 2回ずつの講話とミサ、そして四旬節第一主日の説教 3回、原稿もなくだらだらと話し続けてきたので、最後の説教だけはと、一大決心パソコンに原稿を書いて話をしました。それでも話す直前になると別の考えが浮かんできたので、三回とも同じではなかったのです。原稿を書くのが苦手なのです。 同じ説教は二度はできません。聞き手のあるものですからね・・・毎回300人位の信者さんの集まりの多さに、そしてわかりにくい神父の話にも熱心に聞いてくださったのには感謝でした。

 主の洗礼 

福音 ルカ3章15節~16節、21節~22節

 「・・・イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
主の洗礼ギリシャ アトス 
パンタレイモノス修道院朗読福音書 11世紀末

日生中央教会 10時ミサの説教 畠 基幸 神父

この日は、パウロ会の百村神父さんが東京へ異動されることになり、ご自身が日生中央教会の皆様にお別れの挨拶にブラザー阿部と共にミサをささげてくださいました。長年 司祭の留守の時はピンチヒッターとしてミサを喜んでささげてくださいました。説教の話が内容豊かで面白く皆さまの心に残る説教師でした。お世話になりました。
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 主の公現(祭日)  1月3日

入祭唱 見よ、すべてを支配する主が来られる。王国と権能と主権は、その御手のうちにある。

14世紀リブロ・デ・アポロニオ作 マドリード エスコリアル図書館所蔵 主の公現三王礼拝図 わたしたちは東方から王を拝みに来た。

「すべての民の光である父よ、あなたはこの日、星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。」
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 待降節準備黙想会 11月15日

11月15日 年間33主日の日曜日、池田教会では恒例の黙想会が行われた。
 指導司祭には、和田神父(箕面教会主任)を招き、専門の聖書学の立場から「詩篇の祈り」を黙想し味わう信仰者のなすべき霊性の道を教えていただいた。
 ミサと講話   9:00 ~ 10:30
 第二 講話  10:40 ~ 11:30
ゆるしの秘跡 11:30 ~ 12:30 (聖体賛美式を伴う)

和田幹男神父和田01 和田02 聖体01

説教では、信者のなすべき道が「祈り」にあるということを強調され、信仰は、飛び跳ねることであり、一つの高みから私たちの世界を見る視点というものの確立が大切ではないかと私たちに呼びかけ、特に、専門分野でも詩篇の研究が1980年代から長足の進歩があり、以前の文学類型に終わっていた詩篇理解も、つまり詩篇はいろいろな文学の寄せ集めではないかという表面的な理解から、詩篇150篇の並びの連続性の中に信仰者の神への歩みの道が見えてくるような理解へと進んでいることを踏まえて、再び学び始められた動機を語り、ご自身の祈りの生活に大きな力と喜びを感じる毎日を紹介された。特に「教会の祈り」を小教区に就任して以来毎日のミサの前に共同体で唱えることを欠かさず行ってきたことを披露された。
黙想会のテーマとして、「聖書の詩篇で祈る」実際の例として、よく親しまれている 詩篇23を解説してくださった。前半は砂漠、それも出エジプトの体験を踏まえている。後半は、祝宴だが、復活したイエスの宴に与り、ご聖体の深い意味が含蓄的にある。このように解釈できるのは、イスラエルの詩篇を祈るカギが「イエス・キリスト」で、この視点によってすべての旧約の意味が明らかになる。
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 第32主日 B年

第一朗読 列王記上 17章10~16節
第二朗読 ヘブライ人への手紙 9 章24節~28節
福  音 マルコ       12章38節~44節

二人のやもめの話です。旧約では「主のことば」に信頼するやもめ、新約では、「主に信頼して生きる姿」が焦点になります。ヘブライ書では、罪の贖いのために一回限りのいけにえとなられた主は、再び現れるときは、罪の償いではなく、わたしたちに救いを与えるために、つまりご自身の霊、聖霊を与えるために来られます。死者の月、この終末的な展望のなかで私たちはすべてをささげても失うものは何もない、却って、自分の命を救うのです。

寡婦旧1 寡婦新2 日生中央<小倉さん>提供



十字架の聖パウロの手紙 (神秘家)

 内的にも外的にも自らを貧しくするならば、何と豊かになることでしょう。あなたの魂が真の自由と豊かさを獲得し、イエスの喜びの庭となるように、無味乾燥の味わいは、神があなたに与えたいと望まれる聖なる心の貧しさの土台なのです。
"…how rich you will be if you make yourself poor within and without. The dryness and insensibility is one foundation for a holy poverty of spirit that God wishes to give you so that your soul will acquire true liberty and riches, and become the garden of the delights of Jesus…" 2ペニー 「持っている物すべて、生活費の全部」

~Paul of the Cross' letter to Agnes Grazi 27th letter on June 29, 1736 in Volume #1 - Paul's Letter #106 (スーザン・ハーカ提供)
追記:訳は転々としましたが、a holy poeverty of spirit は聖書のマタイ5章3節に合わせました。その方が聖書の語句とも関連させてインスピレーションが次から次へと湧き黙想になると思うのです。聖書箇所は他の聖書箇所によって解釈するという手法です。
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