マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 高山への巡礼 再び

2013年4月6日(土)北摂地区宣教評議会の主催で高山右近生誕の地高山へ巡礼の旅をすることになりました。
 昨年の秋に行う予定だった巡礼の企画は台風で流れて、今回は再度の必死の呼びかけでしたが・・・春の美しい季節ですので ゆっくりと山村の風景を味わえると思います。次は写真を掲載します。

すでに日生中央教会では一昨年6月、三位一体の祝日にミサを西方寺内でささげることが許され400年ぶりにこの地でミサを最初にささげました。住職の日下部師には大きな心で受け入れていただき感謝のほかありません。特に住職の説話も聞く機会があり、教会メンバーは大変感銘をうけて、やはりわたしたちは日本人、日本の宗教の方が親しみやすいとの評判でした。ミサをささげたわたしはただただ感銘して声も聞きづらいものだったことをお詫び申し上げます。この日の感動だけが収穫ということです。


日生中央教会前評議会会長の松風光氏が撮影したYoutube映像を貼り付けました。1900回以上の視聴者があったようです。



2年前に西方寺の集会室でミサをささげた記録です。西方寺の建てられた場所には高山右近の祖母が祈りをささげていたオラトリオ(祈祷所、実際の場所は不明)があったと伝えられています。

 生き生きとした典礼をめざして

北摂地区 信徒奉仕職養成委員会(宣教評議会)主催 参加費無料
 
 7月9日(土) 午後2時~5時45分 (45分講義、4回)
        講師 フランコ・ソットコルノラ神父
        日本カトリック典礼委員会委員
        諸宗教対話センター所長(熊本)
        ザベリオ会員

 「日曜日の生き生きとしたミサ典礼と福音宣教」
 表題のテーマで、講師としてフランコ神父さんをお招きしました。 講座受講対象者は、北摂八教会の信徒奉仕職養成講座受講者と典礼および福音宣教担当者のために池田教会で講座と講演が行われます。
 フランコ

 7月10日(日)
 9時 主日のミサ (司式、説教 フランコ神父 )
 「日曜日の生き生きとしたミサ典礼と福音宣教」
 ミサ後
 第一講演 10時30分 ~ 11時15分
 第二講演 11時30分 ~ 12時30分

 (対象者:典礼担当者及び福音宣教担当者、典礼に興味ある方はどなたでも・・・)

 北摂地区 信徒奉仕職養成コース

病者訪問コース(基礎コースの継続)

 スケジュールが以下のように決まりました。

 第一回(10) 3月7日 午後2時~4時 池田教会
         講師 シスター川原
         病人の身体介護について  

 第二回(11) 3月14日 午後2時~4時 豊中教会
         講師 松本信愛神父 
         パストラルケア、スピリチュアルケアについて

 第三回(12) 3月28日 午後2時~4時 池田教会
         講師 未定
         病者の聖体拝領の実際

 信徒奉仕職講座

第八回目 信徒奉仕職講座

 2月7日(土)2時~4時 
 場 所  池田教会 カール記念館
 テーマ  信徒奉仕職
 
 講 師  畠 基幸 神父

 <レジメ>まとまったレジメを作成する時間がなかったため講座受講者には配布しませんでした。以下のレジメは 内容を振り返って整理したものです。

 
 (1)配布資料プリントの説明

  配布資料: 大阪教区企画課作成 信徒奉仕職講座 基礎コース
  このプログラムは『みんなで担う「信徒奉仕職」』を利用して、
  信徒奉仕職養成「基礎コース」を2時間×5回で学ぶために
  教区養成企画チームが編集したものです。

   第一回 教会とは何か、その使命は?
   第二回 信徒の役割
   第三回 奉仕の種類
   第四回 奉仕の源泉(固有の賜物、カリスマ)
   第五回 教会共同体とのつながり

 導入:「カトリック教会の教え」第8章の内容は、もう一度目を通していただくと全体の整理ができると思います。第二節第二バチカン公会議による信徒の祭司職という項目です。「信徒奉仕職」のなかでも、今回の勉強は、集会祭儀の司式と聖体奉仕者の任命を受けるためのものだからです。特に「信徒の祭司職」は短い叙述ながらよくまとまっています。・・・第二バチカン公会議は、キリストの救いの業を継続する教会の活動を、①預言職(宣教活動)、②祭司職(典礼活動)、③王職(司牧活動)という三つの分野に要約して説明しました。公会議までの教会はこれらの主な活動の主体は聖職者・修道者と考え、信徒は指導される者という二分化がありました。それが、洗礼・堅信の秘跡によりすべての<信者>同じ教会の使命に与り、信徒も、宣教活動、典礼活動、司牧活動に、信徒の固有の任務と役割をはたして参加するように方向付けが与えられました。

 このような使命を、「共通祭司職」または「信徒使徒職」と呼びます。イエス・キリストの救いのわざを継続する教会の使命に参加することを使徒職といい、それは王職、預言職、祭司職といい、これらの使命に何らかの形で引き受けてその役割を果たすことを「奉仕」あるいは「奉仕者」と呼ばれます。教区の奉仕職基本コースでは、上述のように5点にまとめて、このことを徹底することを目指しています。

これを配布した基礎コースのプリントを概観しながらお話します。

(a)第一回教会とは何か、その使命
ここで引用されている公文書は、教会憲章1項と現代世界憲章1、3項、信徒の召命と使命3項です。第二バチカン公会議の教会観がはっきりとでている箇所です。信徒の召命と使命を考える場合に、<秘跡>についての捉え方が刷新されたことがカギになっていると思います。「カトリック教会の教え」では、第二部の典礼と秘跡についての第1章第一節、第二節、第三節の内容を復習することが理解の助けになると思います。
 
   第二バチカン公会議の教会観<秘跡>の神学的背景 
   
   教会憲章1章 教会の秘義
     
    第一項 諸国民の光  キリストは光  教会はその反映
        いわば秘跡  教会は一致と交わりのしるしと道具
   
   秘跡論の刷新が背景にある
   キリスト論 →教会論 → 秘跡論
   (原秘跡)(根源秘跡)(救いの普遍的秘跡=7つ)   
     
   しるし(道具)とは何か?
   アウグスチヌスの秘跡論をモデルを基に私流に説明したが、目に見えない神の領域をしるしを通して目に見えない神の恵み(実在)をいただくこと・・・
    しるし(目に見える素材)=神の恵みそのもの
    ことば(キリスト秘跡制定句)=恵みをもたらす 

「カトリック教会の教え」では、典礼と秘跡を扱う第二部の冒頭、第1章で、キリストと教会、そして典礼と秘跡というタイトルが新しい秘跡論への道案内をしている。古いモデルと新しいモデルの違いは大きいのですが、まだまだ信徒の中に浸透していない。この新しいモデルを理解することが信徒奉仕職の実践を理解し応用でできる理論的柱になる。
 参考文献 「秘跡神学総論」 ケナン・B・オズボーン著 太田実訳 新世社
      「典礼と秘跡のハンドブックⅠ」 具正謨著 教友社

    キリストの人性が目に見えない恵みのしるし(現存)
 
    *質量・形相モデルから受肉モデルへ
     見える現実と見えない現実の世界の仲介

(b)第二回信徒の役割

 公文書の引用箇所は、同じですが、教会憲章31項と現代世界憲章1項、信徒の召命と使命15項、17項 信徒の固有の特質は世俗的特性・・・ 世に派遣されている。(普遍的秘跡)
 任命などによらない預言職、王職、祭司職とは何か?
 どのようなものがあるか? 
  配布資料  「カトリック教会のカテキズム」p278~281

(C)第三回奉仕の種類  
 
 配布資料 奉仕の種類のリスト
 具体的に教会で見られる奉仕と奉仕職の種類
 奉仕の分類 自発的奉仕 
       存在による奉仕
       信仰からの奉仕 
       信仰への奉仕(叙階・任命) 

(D)第四回奉仕の源泉 (固有の賜物・カリスマ)

 使徒職教令 3 (信徒使徒職の基礎)
 コリントの手紙 Ⅰ 12章(霊的賜物13章愛 14章異言 
  愛の賜物ー奉仕の賜物は、愛の現れとして描かれている。 
  種々の賜物 しかし 一つの賜物(愛)
  これこそ信徒の奉仕の賜物の真髄です。

   パウロの教会論 -頭と体の肢体 一つのからだをたてる。

(E)第5回教会共同体とのつながり

 配布資料の事例研究を参考に! 
 信徒の奉仕職とくに典礼奉仕者の場合に、多くの課題を克服するひつようがある。 昨年の暮れにお配りしたアメリカの事例のプリントをご覧ください。主に信徒の奉仕者を迎える共同体や聖職者との関係に多くの課題があることがわかります。
 
 奉仕者がもつ霊性が問われる場合もあります。この点で「秘跡とカリスマ」についての違いが任命よる奉仕と任命でない奉仕の違いにも影響することでしょう。有名な例では、アシジのフランシスコは、当時の教会の堕落に対して批判するよりも、教会がex opera oprato( 事効的)であるので従うように仲間を諭したと同時に彼自身は何よりもキリストに近い生き方をしたカリスマの人でex opera operantis(人効的 ) であったということです。秘跡の場合は、キリストが制定したと定義にあるように、神の意志により確かな恵みが保障されていますが、カリスマの場合は、賜物が教会のためになるかどうか賜物の結果で判断されます。

 とりわけ、 わたしたちは目に見えない現実(実在)をしるしをとおして恵みを奉仕するのであるから、神の恵みにふさわしいしるしや象徴について考えなければならいでしょう。・・・

    
 
 (2)主日のミサについて考える


   「教会の秘跡としてのミサ」
   
 キリストの体について

 信徒奉仕職講座 第七回講座

1月17日(土) 信徒の霊性 (祈り)

講 師 来住 英俊 神父 (御受難会管区長)
場 所 宝塚黙想の家

レジメ(プリント資料は省く)

○時間の制限があるので、「ミサの祈り」に限定して話す○

1.ミサの祈り
(1)ミサの祈りは、「御父」に向かう祈りである。
 (イエス・キリストの父である神)
・聖霊において、
・御子(キリスト)を通して、
・御父に向かって祈る(申し上げる)

(2)ローマ典礼では、声を出して祈るのは(ほとんどの場合)「司祭だけ」である。しかし、祈るのは共同体(会衆全体)である。司祭は槍の穂先である。

(3)会衆は、司祭の祈りをただ聞いて、頷いているのではない。司祭の発する声を通して、自分が祈るのである

*シャドウィングshadowingしてみると、感じがつかめる。
*司祭と会衆が対面していると、会衆は司祭の言葉を聞いているという感じになりやすいので、要注意。

(4)ミサの祈りの中でも、「集会祈願」、「叙唱」、「奉献文」に注目してほしい。祈りの文章を研究すると、教義の理解だけでなく、祈りが深くなる。

2.「奉献文」の祈りで、会衆は「キリストと共に、"自分"をささげる」。これこそ、ミサへの行動的参加の真髄である。これを抜きにしては、いかにしっかりと挙行された(司式、説教、朗読、聖歌)としても、ミサは表面的な儀式にとどまる。

「自分をささげる」とは何か?

3.自分のすべて(時間、エネルギー、財産、人脈、自分そのもの)を、神に自由に使っていただこうとすることである。

(1)自分で選択する余地の少ない環境にある入にとっては、「ささげる」とは、ふりかかってくる苦難に寛大に耐える(受け入れる)ことを意味することが多い。(プリント参照  捧げる )

(2)自分で選択する余地が大きい人にとっては、「ささげる」とは、「何が神の望まれることかを識別しようとする」、「決断する」、「決断を勇気を持って実行する」(受難が起こる)ということを含む。

4.「自分をささげる」ことは、人間の善意と努力によっても、ある程度は可能なことである。しかし、人間の力だけでは、どうしても越えられない自己中心の壁がある。

5.勇気や決断力の欠如だけでない。識別の中にも、微妙な自己中心が混じり込む。「今・ここ」では、何をすることが、自分をささげることになるのか?

秘跡と現実生活

6.主日ごとに、ミサの中で、キリストはご自身を奉献される。そのキリストの奉献に合わせることによって、自己中心が骨がらみになっている私も、思いきって自分をささげることができる。

7.キリスト者は、ミサにおいて、キリストの行動(奉献)を象徴的に模倣する。この秘跡的な行動によって、「ささげることのできる自分」を育てていく。(プリント)

8.秘跡においてキリストを象徴的に模倣する行動と、秘跡の外(現実生活)での行動が響き合う(支え合う)。

(1)ミサの中で、キリストと共に自分をささげていくことによって、現実生活の中でも「自分をささげる」ことができるようになる。

(2)現実生活の中で自分をささげようとする地道な実践があるからこそ、ミサの中で自分をささげるということに現実感がある。

ミサにおける「自をささげる」の現実的実行
(『ミサのあずかり方』8章に詳説)

9. 「奉献文」の"奉献"の言葉に集中する。(プリント③審献文)
わたしたちは…ささげます

10.「供え物の準備」で、心を整える。

11.「奉納行列」に心を合わせる。
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 信徒奉仕職講座 配布資料について・・・

 「教会の秘跡としてのミサ」(アドルフォ・ニコラス神父)

 主日のミサを考えるための資料として配布される教区標準コースの資料です。ニコラス神父(現イエズス会総長)は、1993年の上智大学夏期神学講座で講義されました。これは、夏期講習の時の講義録を収録した「教会その本質と課題に学ぶ」(百瀬文晃編 サンパウロ社発行)の中の一つの記事です。

 わたしたちの聖餐式(ミサ)の祝い方の問題点

 神学者パゴラによる指摘
 (1)礼拝への逃避
 (2)祭壇の秘跡と隣人愛の秘跡との分離
 (3)精神安定剤として利用

 この背景には、神学的な理解に問題がある。
 アンリ・ド・リュバック(「神秘体」、「教会に関する考察」)による現代のミサについての偏った理解を歴史的に展開、ニコラス神父は、大切な点をとりだして解説しています。

 (1)神学的な根
 ・古代教会の伝統
  古代の教会では、「キリストの体」あるいは「一つのパン」という表現は、いつも教会のことを指していました。

 ・中世における偏向
  9世紀から12世紀にかけて、「キリストの体」という概念も考え方、ものの見方も変わりました。・・・聖体が「キリストの体」であることを極端に強調するあまり、シンボリックな感覚を捨てて、現実をただ物理的にとらえようとしがちでした。「キリストの体の秘跡」と呼ばれず「キリストの体」と呼ばれ、「神秘」という言葉も使われなくなりました。
 
 ・第二バチカン公会議
  聖餐を教会の秘跡として再認識し、教会を真の「キリストの体」として強調しました。キリストの現存はただ聖体においてだけでなく、共同体の中に広く理解されるようになりました。感謝の祭儀は共同体の祝いとして、教会の中心に復権したのです。
 
 (2)新約聖書における聖餐
 ・ 新約聖書のなかで キリストの体の神秘はどのように描かれているか?
  三つの要素 
1 イエスの生涯と死と復活 (奉仕の生き方)
2 教会
3 聖餐

 (3)教会の秘跡としての聖餐

・教会がミサを祝うとき、そこでキリストご自身が自ら神秘を祝います。そして教会の毎日の生活、信仰と奉仕はキリストがささげるミサとなります。・・・(ロマ12・1)典礼よりも先に、生活そのものがいけにえです。マザーテレサも同じように、朝のミサと一日の奉献とは一つだ、と言っています。教会の日々の生活は、わたしたちの永遠のミサです。・・・
・聖餐は、それを祝う共同体を変え、その新しい生き方、貧しい人々や世の中で見捨てられている人々へのかかわりを通して、社会全体に影響を与えるものです。
・ミサは福音宣教の場 ・・・現代の都市が無関心と利己主義の学校となっているのに対して、ミサは兄弟姉妹への心遣いの学校である(女性神学者マーガレット・オブライエン)
・ミサは、真に必要なもの、生活に本質的なものを教えます。


 (4)実践的な示唆

  日曜日のミサのあり方
 イブ・コンガール「ミサが信徒の日常の問題を取り上げないかぎり、いつになっても社会に影響を及ぼすことはできません。・・・現実のわたしたちは、さまざまな問題をかかえています。思い煩い、苦しみ、孤独などをミサの中で表現しなければなりません。

 その問題を抱えた共同体に、
  みことばがどのような語りかけをするのか
  キリストの記念は何を変えるのか 

 キリストがせっかくわたしたちに出会いたく思っておられるのに、わたしたちのほうは本当のことを言わないで、ただありきたりのことをお話しすることになるでしょう。・・・人が苦しんでいても悲しんでいても、同じ歌、同じ祈りを繰り返すことになることでしょう。
  
 みことばをわたしたちの求めと問いかけの答えとして聴くべきです。

  世界への派遣 
  
聖餐は、個人の信心の場だけではありません。それはキリストの体の秘跡であり、すなわち教会の体の秘跡です。教会の自己表現、教会の生きる場です。・・・教会が聖餐を祝います。自らの心を賭けて、自らの問題も悩みも賭けて、そのとき逆に聖餐は教会を造ります。そこから答えが与えられ、そこから新しい歩み、現実への対応、自発性が生まれます。

 信徒奉仕職講座「教会法」

第6回講座 「教会法」
講師 傘木 澄男神父 (豊中教会主任司祭)
時間 14時 ~ 16時30分まで 
場所 豊中教会 信徒会館

講義内容
 Ⅰ 教会法とは何か
  (1)教会法の定義
  (2)教会法の特質
  (3)教会法の必要性
  (4)教会法と信者(特に一般信徒)
  (5)教会法典の内容 (現行教会法典の目録)図1
  (6)教会法の歴史 図2

 Ⅱ 各論
  (1)一般信徒の権利・義務 (208条~231条)
  (2)秘跡の法:
    (a) 洗礼の秘跡 (849~878条)
    (b) 聖体の秘跡 (897~958条)
    (c)婚姻の秘跡 (1055~1165条)


 教会法の基礎的な概念(1)(2)(3)(4)と教会法成立史の略史、各論の(1)を前半で総論として説明していただき、休憩後、各論(秘跡ー洗礼・聖体・堅信・婚姻)を時間の許すかぎり丁寧に説明してくださった。参加者からの質問では、配布された資料について、信者と信徒の表現の違いは何か概念上定義上の区別があるのか問われた。
 質問から:
 「キリスト信者」と表現されるものは、洗礼を受けたすべての信者を意味(第204条1項)するが、「信徒」は、聖職者以外のものを意味するので、修道者も修道誓願による修道者の身分があるとはいえ、「信徒」のカテゴリーに入る。このような説明うけて、教会法典をさらに調べると、
第二集 神の民
第一巻キリスト信者(第204条~第207条)
第一部すべてのキリスト信者の義務及び権利(第208条~第223条)
第二部信徒の義務及び権利(第224条~第231条)
第三部聖務者すなわち聖職者

 このようになっていて、信徒に関連する資料として配布された条文は、第一部と第二部の両方から選ばれたものとわかります。教区の標準コースの資料には、第一部を信者の権利・義務としてこの部分が配布されているので、これが信徒の権利義務のすべてであるとの印象うけるので注意が必要かと思われる・・・ (畠コメント)

 さて今回は傘木神父様の用意されたプリントに従って講義された教会法の基礎概念と基礎知識を拝聴した。教会法は、信徒にはほとんど馴染みがなく読んだこともない文章だったと思われますが、公会議の文章を基にして読みやすく司牧的な配慮で書かれていることがまず驚くに値することでしょう。以下は私なりに重要と思われたポイントを列挙したいと思います。 

 特に傘木神父さんが、神学と教会法の関係、法の目的、教会法の必要性に関しての話は有意義なものでした。

 聖書一般について 

第5回 信徒奉仕職講座 (12月6日)
  「聖書一般」
   講師 和田 幹男 神父 (箕面教会) 
   場所 : 豊中教会

わだ01

  序 教会で聖書を読むということは・・・
       みことばの奉仕者としての自覚と責任
 
政府見解と幕僚長との意見が異なるようなことは、教会の奉仕者にあってはならないと考える。従って、教会の公文書をある程度読んで通じておく必要がある。また聖書は信仰の源泉なので、その解釈は、カトリック教会の聖書解釈の原則を学ぶ必要がある。(畠神父による要約)
    
 (1)教会文書の諸関係と優先順位

 第2ヴァティカン公会議文書の総数(16)種類、文書間の関連

憲章(Constitutio) 4つ 教会憲章、現代世界憲章、
                  啓示憲章、典礼憲章

教令(Decretum)   9つ

宣言(Declaratio)  3つ

注:時間が限られているので、以下の点はウェブサイトの神父さんの文書を引用しました。前後を見てください。:http://mikio.wada.catholic.ne.jp/DEI_VRBM_1.html
「・・・同公会議は、そのためにまず教会とは何なのか、その本質をその源泉に戻って問うた。その源泉とは教会の創始者イエス・キリストであり、その心にあったものを証しする聖書である。このように教会が自己を見直して、まとめたのが教会憲章である。この教会の内省を前提として、教会がその外に向かって、現代の世界に何を、いかに行動すべきかをまとめたのが現代世界憲章である。ここに示された教会の行動原理は世界各地で実行に移されたが、目標としたものからはほど遠い。それに当時予測できなかった新しい諸問題が世界のいたるところで起こり、これとの取り組みが新たな課題となっている。遺伝子操作、臓器移植、人口の移動と諸民族、諸宗教の共存、兵器と通信手段の革新、いわゆるグローバル化に伴う経済的、社会的悪弊、それに環境破壊と問題は多様化し、深刻化している。同公会議は、教会の自己反省と行動のすべてが聖書に基づいているので、あらためてその聖書とは何なのかを問うた。その聖書は広く神の啓示の中に位置づけられるので、この啓示とは何なのかをあらためて問い直し、こうしてまとめられたのが啓示憲章である。教会がその本質を最も明らかに表し、その命の源泉になっているのが典礼であるから、その典礼をいかに現代人に適応し、効果的にその恵に与らせようとして検討し、まとめられたのが典礼憲章憲章である。この4つの憲章は相互に深く関連しあっている。
 特に教会憲章を基礎として、司教、司祭、神学生、修道者、信徒の役務と生活についてそれぞれに教令がまとめられた。それが司教の役務教令、司祭の役務教令、司祭養成教令、修道生活教令、信徒使徒職教令である。教会に属するすべての者がかかわらなければならない宣教活動についても教令がまとめられた(宣教活動教令)。これらはすべてラテン典礼のカトリック教会に関わるものである。他方、ローマの教皇と交わりを守りながら、ラテン典礼以外の東方の諸典礼を保持しているカトリック諸教会についても、別に教令がまとめられた(東方教会教令)。さらにローマの教皇との交わりが断たれたままになっているキリスト教の諸教会との関係について(エキュメニズム教令)、またキリスト教以外の諸宗教とカトリック教会との関係について(諸宗教宣言)も討議され、まとめられた。それに信教の自由についても宣言が公表された。(信教の自由宣言)現代その重要性が増す主題として、広報機関と教育機関に宛てた教令ないし宣言が作成された(広報機関教令、キリスト教教育宣言)。・・・・

 (2)啓示憲章
「聖書は広く神の啓示の中に位置づけられるので」、聖書はどういう意味で啓示といえるのかを考える上で第二バチカン公会議の文書の中では一番重要な文書と言える。(畠神父による要約)
啓示憲章 第一章 啓示そのものについて
啓示憲章 第二章 神の啓示の伝達について 
*神様が真理を最終的にあらわした。第二バチカン公会議において、この啓示は、神様自身が自分自身を人間全体に教えかかわりあう対話として、神の善を通じて、また歴史を通じて、歴史の頂点として(一回限りの出来事)キリストにおいて完成する。啓示は、信仰の全体として受け止める。キリストにおいて完成された啓示を伝えられるのか?(啓示は、書かれたもの、後の時代に書かれたものが仲介するか?新約聖書は、直接のイエスと使徒たちの教えに触れるものとしてゆるがぬものとして教えられる。信仰共同体として生きながら伝える=伝承=未来に伝えられるのだ。
*啓示の源泉は何ですか? 聖書の啓示の源泉は、イエスそのもの 生きた生命です。書き留められたものが一緒に伝えられたもの・・・*上記のことが啓示憲章の1章と2章にまとめられている。
 
啓示憲章 第三章 聖書霊感と聖書解釈について
*聖書はすべて霊感の書、聖書の正典(=神から啓示されて、聖書の中の文字によって含まれ、かつ示されることは、聖霊の息吹によって書かれたものである。・・・旧約、新約の全書を使徒的信仰に基づき、正典書であるとしている。それは、これらの書が聖霊の霊感によって書かれ、神を著者としてもち、そのようなものとして教会にゆだねた。神は聖書の作成にあたって、固有の能力と素質を用いる人間を選んで、これを使用した。・・・)(2テモテ3:16-17)

*神は人間のことばで話す。人間に対する愛、そのことだけでその事実は、驚くべきこと。聖書の基本的な解釈についての記述が3章、4章に示されている。第4章は、旧約聖書についてです。第5章は、新約聖書について 第6章は、教会の命における聖書

*カトリック教会の聖書の教えは大変恵まれたものです。聖書には、不完全な教えも一杯ある。たとえば、復讐や仕返しを是認しているような教えが旧約聖書のなかにあります。それも啓示なのか?

これに関して、1964年4月21日に教皇庁聖書委員会が出した指針、「福音書の歴史的真理性に関する指針」は大変助けになる。イエスの死と復活のあと記者が書いた。信仰において書かれた。カトリック教会は、ファンダメンタリズムではない。ある歴史的な事実が起源にあるが、そのままのレポートではない。「イエスの教えと生涯がただ記憶されるようにと単に報告されたものではなく、教会にとって信仰と道徳の基礎となるようにと「宣教された」ものであるから、聖書注解者は福音記者たちの証しをたゆまず探求しながら、福音書がもつ不朽の神学的価値をいっそう深く示すとともに、教会の解釈がどれほど必要であり、重要であるかを、このうえもなく明らかにすることができる。」(前掲書 指針 652番)

6章 教会の命における聖書では、実践上一番大切なことが教えられている。みことばのパンとご聖体のパンについてです。「まず聖なる典礼において、神の言葉とキリストの御体の食卓から生命のパンを絶えず受け取り、信徒たちに差し出してきた。教会は、その聖書を聖なる伝承とともに自らの信仰の最高の基準として常に掲げてきたし、また掲げる。」(第21項)
「聖なる神学は、いつまでも変わらない基礎として、聖なる伝承とともに神の書かれた言葉に基づく。・・・」(第24項)
「聖書の読書には、神と人間の会話が成り立つように祈りが伴わなければならないことも忘れてはならない。『わたしたちは祈るときには神に語りかけ、神の宣託を読むときには神に耳を傾ける』からである」(第25項)

*啓示憲章と教会憲章の二つは、エフェソ書とコロサイ書を基にして書かれたものです。公会議はすでに歴史の中にあるが・・・(講座のなかでご自身の公会議直前にローマに留学し、公会議の間は神学生として勉強しておられたことをあれこれ歴史の証人のようにその場の雰囲気を語ってくださった。)

 (3)聖書の解釈についてのカトリック教会の教え
 資料:1254番13項「・・・カトリック聖書学は、独自の排他的な解釈法をもつものではなく、哲学的前提またはわたしたちの信仰の真理に反するほかの前提を抜きにして歴史批判学を基礎として始め、そのそれぞれの中に『みことばの種』を追い求めて、現在用いられているすべての研究法を有効に活用するからです。1255番14項「この総合のもう一つの特徴的な性格は、その平衡性とその節度にあります。カトリック聖書学は聖書の解釈において通時性と共時性を調和させることを知っており、この両者が補い合うものであること、この両者が聖書本文からすべての真理を浮き彫りにし、現代の読者の正当な要望に満足を与えるために不可欠のものであることを認めています。なおいっそう重要なのは、カトリック聖書学者が注意を向けるのは、これはときどき歴史批判的研究法の誤りなのですが、聖書の啓示のただの人間的側面にだけでなく、またファンダメンタリズムが望んでいるようにただその神的側面にだけでもありません。それはその両者を、すべての聖書の基礎にある神の「へりくだり」のなかで結び合わさったものとして明らかにしようと努めます。(啓示憲章第13項)」

     
 (4)奉仕者の聖書の学びと信仰の書

(3)と(4)に関しては、和田神父さんが翻訳しておられる、教皇ヨハネ・パウロ二世の演説「回勅『プロヴィデンティッシムス』発布100周年と『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』発布50周年記念 1993年4月23日 のプリントを研究した。

a.カトリック聖書解釈と受肉の秘義との調和
   1249番、1250番、1251番を一緒に読む・・・
  b.おとめマリアに関して 
    1258番 後半 結びの言葉の中から・・・
   「心に納めて、思い巡らしていた(ルカ2・19)」マリアは御自身、み言葉を受けとめることによって、弟子たちの模範であり、母なのです(ヨハネ19章27節参照)。

*「教会における聖書の解釈」(教皇庁聖書委員会、1993年)第4部C 聖書の活用、1.典礼における聖書
 1528番、1530番、1531番、1532番、1533番、1534番
 「みことばの祭儀は、教会の秘跡それぞれの祭儀執行において決定的重要な要素である。」(1533番)
 「もし、聖書が朗読されるとき、『神がご自分の民に言葉をかけられる」(ローマミサ典礼書33項)のならみことばの祭儀は、朗読の告知にしてもその箇所の解釈にしても、当然大きな心遣いをもってなさなければならない。・・・」

*ここ10年くらいなってようやく、聖書解釈は正典論に従わなければならないことが意識されてきました。

 質問に答えて・・・(続き参照)
  
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 信徒奉仕職 第四回

第四回 秘跡
講師  ブルカルト神父 (千里ニュータウン)
場所  豊中教会 
  
 講座要旨(60分):
  秘跡と典礼 (カトリック教会の教え 第二部 p170~)
  ・典礼(過越秘義)という中で「秘跡」は定義されている。
 
  秘跡の定義 (教会法 840条)
  7つの秘跡
  三つの分け方
    入信の秘跡  ⇒ いやしの秘跡(ゆるし、病者の塗油)
   (洗礼、堅信、聖体) 
           ⇒ 奉仕の秘跡 (結婚、叙階)

  有効な秘跡(授与、受領)
  ex opere operato(事効的)直訳(行為された業自体から)
ex opere operantis    直訳(行為者の業から) 
秘跡の前提となる信仰について
   個人の信仰 VS 教会の信仰
   受領者の信仰(器) 幼児洗礼、猫のたとえ(トマス神学)

 質疑応答
 (1)秘跡を受けるために信仰が必要ということですが、
    信仰があるかないかその判断に線引きがあるのですか?
 (2)結婚の秘跡
    民法上の有効な結婚後洗礼を受けたので、秘跡の結婚を望む 
 (3)堅信の秘跡 何歳になったら? 
    洗礼と一つの入信の秘跡の中で理解する。
    しかし固有の秘跡であることを司牧的にどう理解するか?

 (4)幼児洗礼  祖母の願いだけでは、 両親の信仰は?

 (5)御血をこぼした人がハンカチで拭ったが・・・
     猫のたとえが役立つか? 受ける側の信仰(器) 
     形が変化する 目的が変化する
 (6)緊急洗礼 教会の信仰が補う?
 
 (7)病人訪問での聖体授与
    派遣される人、 人徳や霊性も必要 (霊的人間的な要素)

 分かち合い
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 第三回講座 教会論 (2)

 教会論 Ⅱ  松本一宏 神父
 10月18日     宝塚黙想の家 
  3回

要旨:
最初に現教皇が神学教授時代に書いた記事の紹介から始める。

「なぜ私は教会にとどまるのか」(ヨゼフ。ラッツインガー、現教皇
神学ダイジェスト25号、1970年)の記事を引用して、教授が教会を月にたとえるシンボルの意味を紹介して説明する。

 《月と太陽の関係、教会が自己の光をキリストから受けることの象徴とされる。・・・教会はそれ自身では、「暗闇」にすぎないが、それにもかかわらず、世界を照らしうる。教会は自らの徳や業績によって明るいのではなく、真の太陽であるキリストからその光を受けるのである。教会は光を受け、さらにこの信仰の闇にあって、わたしたちの歩みに光を投げかけてくれる。
・・・・月は、いわば、「自己自身でないもの」なのである。ところが、「自己のものでない」とはいえ、まさにその「自己のものでない」という性格そのものが、「自己のもの」なのである。・・・それゆえに、これを教会にあてはめると、教会は、石と砂にすぎないが、それにも関わらず、キリストから光を受けて、世界のための光となることである。ここで「自己のものでないもの」こそ、真に教会の「自己のもの」なのである。教会の本質は、実に「自己のものでない」こと、その存在の根拠を自己自身にもたず他にもつこと、したがって自己を空にし、その根拠から光を仰ぐ時こそ本来の姿に帰ることである。》
 
 教会はそれ自身で存在することはない、光であるキリストに照らされて存在する存在である。「わたしたちの教会」の背後に「キリストの教会」の存在がつねにあることを信じる立場から、ラッチンガガーが教会にとどまる述べている。
 各時代の教会を照らす評価は、「キリストの教会」と考えて、教会の本質(キリストの教会)とその後の教会の歴史的発展、さらに第二バチカン公会議での教会の自己理解を考える助けとなれば・・・

以下は、教会の歴史を概観します。 「カトリックの教え」の教会の項目を閲覧していただければと願います。

1.教会の起源
神の救いの約束を成就したキリストにおける新しい神の民であるという理解。教会は神の民としてキリストの光をあらゆる人々にもたらす使命を持っている。教会はキリストによって創設された。聖霊降臨の出来事をとおして、使徒たちと土台とするキリストの教会が生まれ、聖霊によって保たれ発展してきた。
2.ユダヤ人教会と異邦人教会
出発点、エルサレム教会-ユダヤ教の伝統と独自の教え・祭儀・祈り
より広い世界へと広がっていく、アンチオキアの教会など、ユダヤ教の枠を超えて、独自の宗教として育っていく
3.初期教会の構造
信仰の遺産・信仰の秘義・信仰の奉仕職
カリスマの奉仕職から制度的奉仕職への歴史的発展
二つの指導体制(長老制度、監督と執事型)の融合→監督・長老・執事(司教・司祭・助祭)

第二節 教会の本質
教会の本質は制度そのものではない
1.神の民
教会(エクレジア)―神から選ばれ特別の目的のために召された民
旧約の神の民と新約においてキリストに従う人々
『教会憲章』1~2章 神の国が広がるよう、信徒は皆神の祭司職と預言職を受けている。教会はまず第一に信仰者の集い、神の国の実現という使命がある。
2.キリストのからだ
キリストと教会の一体性:復活したキリストが生き、働いておられる
洗礼によってキリストの体に組み入れられ、ミサにおいてキリストのからだとしての教会はもっとも完全な形で実現する。
3.聖霊の神殿
  聖霊が教会の本質的存立根拠
  聖霊の導きにたいする大きな信頼

第三節 教会の歩み
1.教会の歴史性
教会の本質を実現させるために、それぞれの時代で成長発展し、福音を伝えてきた
一、聖、公、使徒継承である教会:それを体現していく努力
2.古代の教会
  初期教会の構造  カリスマの奉仕職 1コリント12:28-31
                     ロマ 12:6-8
  一人一人に与えられたカリスマに生かされて信仰の奉仕
  制度的役務職 
  ユダヤ教の長老による団体指導体制とヘレニズム型の監督と執事の制度が融合して、監督を長老団、執事団がサポートした。 司教・司祭・助祭へと発展 司教は指導者としての立場を築く。教会全体のために 正しい教えを確認する役目。313年 コンスタンティヌスによってキリスト教が公認されるまで迫害の時代、告白者、殉教者がたくさん出た。異端とも戦った。公認後国家・社会がキリスト教化

3.中世の教会
   より広範なキリスト教社会
   教皇は大きな力を持つ。 国家と教会の関係 秘跡を受ける場   教会がこの世の制度と交わるにつれて、福音精神から離れる。
   一方福音精神を生きるフランシスコ会、ドミニコ会が現れた。
   信仰を理性的に理解するスコラ学派が発展した。
4.近代の教会
   教会改革の荒波 -分裂へ 福音にとって大切なものは何か
   キリスト。恩恵・聖書ではないか???
   カトリック教会は制度を強調した。
   脱宗教化の時代
5.現代の教会
  第二バチカン公会議のインパクト
世界の救いの秘跡としての教会・世界の諸現実に向かって開かれた教会、教えの伝達と神の愛のあかしとしての福音宣教、未来に向かう教会
6.宣教する教会
神の国に向かって旅をする神の民ー教会=イエス・キリストを述べ伝える。教会の宣教の使命は一部の聖職者・修道者に課せられているのではなく、全信徒のものであるという意識変革が必要

 再びラッチンガー司教(現教皇)の論文に戻って・・・

「なぜカトリックにとどまるのか」ラッツインガーの理由は、H・ド・リュバクのことばを引用して、キリスト信仰は教会によって可能になるという基本的な考え方を披瀝しています。(注:続き)

「教会は自分にとって母である。というのは、教会が自分にキリストを与えたからである」・・・ 同時に 母であるということで、あばたもえくぼ・・・ド・リュバックは、教会のために、教会の中で、実に多くの苦しみを嘗めてきたにもかかわらず、「教会は私の母である。それはこの教会であって、他のいかなる教会でもない。わたしはこの教会を、自分の生みの母の胎内から知り、また自らの人生にくりかえされるあらゆる出来事と、あらゆる状況にあって、いつも、より深く知るようになった。・・・<中略> さげすまれた母の顔をみて、わたしはこの母をいっそう深く愛さざるをえない。わたしはこれらの批判に対して、躍起になって弁論する前に、このはしための姿をとった母を愛するのである。ある表情で、その顔がますます老けて見えたとしても、愛は私に、それ以上の真理と黙示、隠れた働きを発見させる。そこには、永遠の若さが保たれている。偉大なものがそのうちに生まれ、それが世を回心させるのである」(リュバック)

 現教皇のコメントは素晴らしいと思います。「この原理を教会にもあてはめていく・・・私たちは今日、教会をもう一度愛の目で見直さなければならないだろう。」
 「愛は盲目と言われる。確かに一理ある。しかし、それ以上に真実なのは、愛が目を与えるということである。老人のしわだらけの顔は、外見的には美しくないが、愛は、その内面に、この顔を形作った人間というもの、その素晴らしいものを発見するのである。」

休憩の後: 畠神父が後半の司会を担当する。
 解説本の紹介:
「神の国をめざして」(松本三郎著、オリエンス宗教研究所)の本が、南地区では教科書的な扱いで読まれていること、内容は、公会議文書の明快な解説です。信徒の立場と視点も重視しています。1990年初版ですが絶版かもしれません。(注へ)

「みんなで担う『信徒奉仕職』」7ページ、「いまさらながら教会ってなに???」を朗読し、以下の説明後グループに別れた。

「第二バチカン公会議における教会憲章は、教会自身の根本的な意味について問い直そうとしました。教会とは一体何なのか?何のために誰のために教会はあるのか?教会は世界の中で何をしようとしているのか?教会が自己自身の回心を求めて打ち出した理想像であり目標です。(前掲書、松本三郎 p17-)教会の歴史的展開を最初の時間で松本神父から解説されました。皆さん自身は現在の教会のイメージや、教会とは何かのご自身の理解をどう説明されますか?

注 及び追加記入:
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