マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 第23回百日連帯共同祈願ミサ

第23回百日連帯共同祈願ミサへの招き


✞ 神の賜物を再び燃え立たせるよう勧めます。(第二テモテ1・6b)
親愛なる兄弟姉妹の皆さま

 第22回百日連帯共同祈願ミサは、8月25日無事に満願日を迎え、第17回聖霊による刷新関西大会の派遣ミサで皆様の祈願を奉納しました。さらに、9月2日から行われた司祭修道者の刷新黙想会において引き続き共同祈願を延長し奉納しました。

 前回、ウガンダのアフリカ大会に参加することを書き、皆さまの祈りのバックアップを受けてすばらしい旅になりました。アフリカ全土から集まった賛美の集いのリーダーたちの力強い祈りと体全体に満ち溢れる賛美のリズムが主の復活の喜びを肌で感じることができました。特に中心になった講師は、教皇庁正義と平和の評議会会長のピーター・カークソン枢機卿(ガーナ―出身)でした。枢機卿は、長崎、広島の式典に参加したとのことで、日本から来た私には励ましの声をかけてくださり、また会場のあちこちで、参加者から日本はどうなのかと聞かれました。“How is Japan?” 日本は元気かは直訳ですが、つまり東日本大震災で受けた被害や福島の原子力第一発電所の爆発事故について、その後どうなのか?アフリカの奥地でも皆心配して祈ったとのことです。
 
 先進国日本の発展の中で忘れ去られた”神の存在“は、彼らにとっては大きな関心事です。同じビクトリア湖畔のスペケ国際ホテルには、わたしたちの大会と日程が重なって諸宗教の宗教者の国際会議も別の会場で行われていて紛争を解決するための対話が持たれていました。アフリカの「病」に対する処方箋は、汚職体質を撲滅し公的機関の信用回復と環境保護の啓もう活動です。宗教者たちの宣教活動は、アフリカの非人間的な状況からの解放を教育、病院、社会制度などの面で地道に活動してきたのです。しかし今やその活動がテロリストたちの標的になり善意の奉仕者や活動家を脅かしいています。
 
 赤道直下に位置する東アフリカのウガンダは、日本の本州ほどの広さの小国で、キリスト教徒は90%を超えるキリスト教国です。20数年前には北の国境付近で200万人の難民を生み出しましたが、現在はキリスト者であるムセベニ大統領により長期安定政権を維持して治安もよく貧困状況から離脱した国です。ウガンダの国民の48%はカトリックで、聖公会の36%と共に村々にまで小教区、巡回教会が置かれ、司祭修道者の召命も多く、レジオ・マリアの活動とともにカリスマ刷新の祈りの集いは小教区の中に組織され、信徒の奉仕者のリーダー教育と啓蒙活動に力をいれているとのことでした。大会の最終日には、1964年に列聖された殉教者、聖カロロ・ルワンガと同志殉教者の巡礼地を訪問し、列聖50周年記念ミサが行われました。アフリカ全土のカリスマ刷新家族の集いが、殉教者の地ウガンダで行われたのは、キリスト者に対する迫害と殺略の事件が日常茶飯事のように報道されるなかで、聖霊の賜物が豊かに現れ、小教区で賜物による奉仕が教区で認められ、現実に活動している刷新のあるべき姿が他のアフリカの国々の教会の将来の姿となることを期待したものと思います。

 ところで、ピーター・カークソン枢機卿の講話は、「Going out (出て行く)」という表題でした。これは、主催者側が、教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」を念頭に置き、第一章 教会の宣教の変革の最初の項目と同じ主題「出向いて行く教会」の意味を重ね合わせて、枢機卿に講話を依頼したようです。枢機卿は「Going out(行きなさい)」のテーマだけをローマで受け取って来たので、カリスマ刷新の大会で何を話したらいいかわからないがと、聖書的なアブラハムの「旅立ち」や、モーセの出エジプトの「脱出」や、エレミヤの預言者の召命物語にある「派遣」などを説明して、今日的な意味とイエスの「宣教命令」を生きる上のチャレンジ(挑戦)について語られたように思います。まさに教皇フランシスコの本の内容と重なっていました。「五旬祭の日に使徒たちから『自分の故郷のことば(使徒言行録2・6)で説教を聞いて最初に回心した人々も、驚嘆に満ちてその喜びを味わいました。この喜びは、福音が告げられ、実を結び始めていることのしるしです。けれども、この喜びには、脱出と自己犠牲、すなわち自分自身から出て行くダイナミズムが伴います。それは、つねに、新たに、より遠くに、種を蒔き続けることです。』(「福音の喜び」21項 p29) 

 聖霊による刷新が、内的なグループにとどまらず、教会の核として「本来的に宣教を生み出す」(同上23項p30)恵みの源泉となるために「あらゆる人に、あらゆる場所で、あらゆる機会に、ためらうことなく、嫌がることなく、恐れることなく、福音を告げるために出向いていくことは重要です。」(同上23項p30)

 それでは、「聖霊による刷新」は、福音を告げるためにどこに出向いて行くのか?今年の夏の大会では、シリル・ジョン氏は、聖霊降臨を体験した使徒たちは、「Fellowship」(交わり)に向かったと言明されました。教会の原点というべき、「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(使徒2章42節)」初代の教会の模範です。教皇フランシスコも、「福音の喜び」(29項p36~37)で、「小教区における豊かな現実との関係を失うことなく、喜んで部分教会の司牧組織の一部となるのが非常に健全なことです。」と、種々の運動体や諸団体、つまり聖霊によって生じた公会議後の刷新運動が根無し草の放浪者となることを避けなければならないと述べておられることを真剣に考慮して活動していかなければならないということです。そして、教会に「福音宣教の新たな熱意と世界と対話する能力」(同書29項)をもたらして教会を刷新する奉仕を目指さなければならないと思います。これは大胆なことですが、謙遜にことは始めなければ何もなすことができないと思います。

 「福音宣教の新たな熱意」として、わたしたちは頂いた「聖霊の満たし」の恵みの本質を理解して仲間に、兄弟に、家族に、そして教会共同体に伝えたいと奮闘しています。

 前回は、名誉教皇ベネディクト16世の「ナザレのイエス」(第二巻第5章)から得た知識を土台に、「祈りの集い」で行われる賛美がミサと無関係の賛美でないことをお伝えしたかったのです。「祈りの法は信仰の法」といわれます。「典礼」の中にカトリック教会の豊かな信仰の宝があり、聖霊による刷新は典礼の宝を燃え立たせる働きがあるように思います。聖霊の油注ぎによって信仰が燃え上がり、典礼のことばとしるしが聖霊の息吹によって生き生きと祝われるようになることを経験するからです。そして、第17回聖霊による刷新関西大会では、三日間を会場全体が「高間(二階の広間)」での出来事を祝うという典礼の枠組みを意識して取り組みました。聖週間の典礼の一部を取り入れることで、洗足式、十字架の礼拝による回心への招き、復活ローソクと洗礼の約束の更新、堅信の更新など秘跡によって受けた聖霊の恵みを燃え立たせることをしました。聖霊による奉仕の賜物(カリスマ)を受けて派遣されるために、イエスと同じ僕の姿を通して奉仕する必要があることを典礼の行為によって確認できたと思います。わたしたちの聖霊の賜物の奉仕は、新しい愛の掟、「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34、15・12)によって、「これをわたしの記念として行いなさい」というイエスの十字架に至るまでの愛と従順、イエスご自身の従順を反映し伝え奉仕する者として派遣されるはずです。羊の世話をする恵みの分配者であって管理者ではありません。
 
 ところで、わたしたちは教皇フランシスコのイタリア大会(6月1日)での刷新に対する期待のなかで、刷新の初期の頃、皆熱心に聖書を持っていたこと指摘され、今もそうしていますかと聞かれました。この聖書を大切にする必要性は、聖書の民の存続にかかわる重要な意味があることを理解するとすんなり納得できるのです。つまり、ミサのことばの典礼の由来は、ユダヤ教の安息日の会堂(シナゴーグ)の典礼と深くかかわっていることを、5月の関西地区での祈りの集いの勉強会で聖霊に導かれて理解できました。

 この時の主題は、「主の日 -日曜日の重要性」(聖ヨハネ・パウロ二世教皇使徒的書簡)です。聖霊の年の聖霊降臨の日に発布されたこの使徒的書簡は、「主の日」を祝う意義を余すところなく解き明かしている書です。「聖霊による刷新」の中心的な体験、「イエスは主」であるということを簡潔に表現しています。21項「キリスト者には、・・・キリストに対する賛歌を神に対するかのように歌う」という習慣がありました。そしてキリスト者たちが『主の日』について語った時、かれらはこの表現に復活を告げ知らせることの十全な意味を与えて、『イエス・キリストは主である』(フィリピ2・11、使徒2・36、1コリント12・3参照)と語りました。こうしてキリストには、70人訳聖書が旧約の啓示において発音してはならなかった神の名『YHWH』を翻訳するときに用いていたのと同じ称号(主)が与えられました。」(p29)こう告白することは、「聖霊によらなければ誰もイエスは主であるとは言えないのです(1コリント12・3)」。これが聖霊刷新の満たしの共通体験です。聖霊に満たされると、主の日は、新しい創造の日、主の復活を心からすなおに喜び祝えるのです。それは、ある意味で小さな復活、聖霊降臨の体験であり、その体験を踏み台にして救いの業を記念する賛美と感謝の祈り(エウカリスチア)を共同体と共に分かち合う喜びに満たされます。(カトリック教会のカテキズム 1345~1347)
 
 注:聖霊の満たし(The Baptism in the Holy Spirit)は、①洗礼や堅信の恵みを更新すること、②新しい派遣に際して神の特別の賜物が与えられる の二つの面があることは、カトリック教会の共通の認識です。

 さらに、安息日の典礼に関して、「キリスト教の礼拝」(J、Fホワイト著、越川弘英訳)には、ことばの典礼と感謝の典礼の共通の源泉を考察する資料があります。
 「みことばの礼拝の歴史という項目の中で、シナゴーグ礼拝の起源と目的について詳細に書かれています。バビロン捕囚期のバビロンで始まった礼拝形式で、民族の生き残りをかけたアイデンティティを想起するために発展した儀式です。神のみ業を想起する文書を残し、共同体で声を出して読むこと、その内容を深く思い巡らすこと、それを喜んで受け入れることが主な会堂で礼拝でした。神殿も祭司もいらない。一般信徒が導く形式で、10人の男性が集まれば会堂の礼拝は成り立った。そして、シナゴーグ(会堂)の礼拝の焦点は、神のみ業に置かれ、神のみ業の歴史(聖書)を読むことによってほめたたえただけでなく、この歴史で生み出された賛美(詩編)を歌い、その歴史を祝福される神に祈り、そしてその歴史を深く顧みること(説教)によって、それをほめたたえた。こうして礼拝は、契約についての共同の記憶を教えたり伝達したりする方法になった。イスラエルの存続は想起(アナムネーシス)を通して、客観的な「死せる過去」でなく、「生ける神」を思い起こすことで可能になった。現在の礼拝の中で過去の出来事は、現在化されたリアリティ-となり、神の力が体験されたからです。(要約p206~207)」

 このようなユダヤ教の礼拝形式が、ミサの一つの礼拝、二つの部分(ことばの典礼と感謝の典礼)の原点になったでしょう。会堂の典礼の中核にあった「神がご自分の民になさったことがらについての記憶」は、キリスト者にとって洗礼の恵みの源にある主キリストの救いの業の記憶(過越の神秘)を祝うことが賛美の礼拝の中心になりました。紙面が足りなくなりました。再び手紙が遅れたことをお詫び申し上げます。

 今回の共同祈願の期間は、悲しみの聖母の祝日(9月15日)から天皇誕生日(12月23日)までの百日間を祈ります。この連帯100日共同祈願は、日本の教会に聖霊が豊かに注がれるように新たな聖霊降臨を願うというものです。そのために、全国の刷新のメンバーがともに家族として同じ食卓に囲む交わりを保ち、日本の教会の刷新のためにとりなすこと、緊急の助けを必要とする兄弟姉妹のために連帯すること、そして、教会奉仕のために聖霊の賜物が与えられるように願います。皆さまの上に神の祝福を祈ります。 

アーメン・アレルヤ

聖霊による刷新関西委員会
委員長

畠 基幸 CP

 第23回百日連帯共同祈願ミサ(はがき文)

9月15日 悲しみの聖母の記念日から再び共同祈願を始めます。今回は、12月23日までです。

はがき文:

 第23回百日連続ミサ共同祈願
(2014年9月15日~12月23日)
✙ 来てください 聖霊よ
 父と子の霊であるあなたを賛美します!
皆様の意向:ご自身のとりなしの祈りをお書きください。




今日も、新しい聖霊降臨の恵みを受けて感謝の祈りをささげます。
今もっとも助けが必要な人々のために愛の奉仕ができますように。
栄光は父と子と聖霊に、初めのように今もいつも 世々に、

▼アーメン アレルヤ
氏名(+霊名)             

 第22回百日共同祈願 はがき文面

第22回百日連続ミサ共同祈願
(2014年5月18日~8月25)
✙ 聖霊、来てください!
 賛美と感謝の賛美歌を歌いましょう。
皆様の意向:ミサの感謝の祈りにささげるご自身の感謝と賛美を自由にお書きください。
1 全国共通のとりなしの意向




祈願 キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉と栄光は、世々に至るまで  ▼アーメン
氏名(+霊名)             

 第22回 百日連続ミサ共同祈願

第22回百日連続ミサ共同祈願への招き
✞ 復活節の恵みに満ちた日々の内に
「これをわたしの記念として行いなさい。」(ミサの聖体制定句を参照)
親愛なる兄弟姉妹の皆さま
 聖ヨハネ二十三世教皇と聖ヨハネ・パウロ二世教皇の聖人誕生おめでとうございます。第21回共同祈願は、二人の教皇様の列聖式を準備して皆さまの祈りをミサの奉献に加えて奉げ、列聖式の当日、いつくしみの主日の四月二十七日に満願を迎えました。この度の共同祈願の参加者は、五百二十五名でした。また、フィリピンの災害への支援も合わせて呼びかけた皆さまの分かち合い献金の合計は、前回の献金額の残余を加えて、126万1千400円になり、内わけは、東北被災地献金30万8600円(20回の残余)、フィリピン・タクロバン市被災地献金(バート神父への送金は五千ドル=52万円)49万7千500円、そして事務局への献金45万5千300円という結果になりました。事務局献金は、刷新関係の本の出版準備金と百日共同祈願の事務経費に当てられます。皆さまの支持を得て、一日10円の事務経費をお願いし、その半額を使徒たちの時代から実践された貧しい人々への奉仕にささげる献金ができるようになったことをまことに感謝いたします。毎回参加人数は減っていますが、その分、なじみになったお名前を心にとめて祈ることも喜びになっています。毎日の奉献のミサの中に皆様の名前を覚えて祈ることで、私自身皆さまから支えられ祈られていることを実感しております。さらに22回の百日共同祈願への参加を通して、皆さまの上に聖霊の豊かな注ぎと働きを願って祈り続けます。

この度お知らせが遅くなりましたが、第22回百日連続ミサ共同祈願は、5月18日(主日)から始めて8月25日(月)までの百日間を祈ります。祈りの意向は、いつものごとく日本の教会に聖霊の力強い注ぎが現われますように執り成すことです。そして、日本の教会のリーダーのため、また日本の政治経済を司るリーダーのために祈り、またわたしたちの心にかかる人々のために祈ることです。
毎回、百日間共同で、ミサの共同祈願の意向として毎日ささげますが、どのように祈ったら祈りが聞かれるのか? それはわたしたちの一番の関心事です。どのような態度と心構えで祈るべきなのか。気になるところです。祈りは御父へのイエスの祈りが最高の模範であり、ミサはその祈りの頂点であるとわかっております。そして、百日共同祈願は、そのイエスの奉献に与ってささげる祈りですから、確かな実りが期待できるのですが、わたしたちは、まだその実りを見ていないと落胆するなら、イエスの祈りを十分にまだ理解していないと思われます。毎日ミサをささげているわたしも、落胆はしなくてもマンネリに陥ることはあります。そんなとき、ベネディクト名誉教皇16世の本で、目からうろこのミサの理解を新たにして、祈り始めると、すごく豊かな恵みを感じるようになりました。ですら、時々は、どのように祈るべきかご自身の祈りや祈り方を省みて、意識して祈りを学ぶ必要があるのです。
 その本とは、教皇様の「ナザレのイエス」のことで、第二巻第5章、「最後の晩餐」についての論述は、地上で実際に起こった歴史に基礎づけられたエウカリスチア(聖体祭儀)の制定をテーマにして、信仰にとって本質的なことを詳述したベネディクト教皇様の信仰告白と言えるものです。わたしにとって光になった個所は、「わたしの記念として、これを行いなさい」というイエスの命令のことばです。 ベネディクト教皇様は、「主は、正確に何を繰り返すことを命じたのでしょうか。」と読者に問いかけます。「イエスの最後の晩餐が、過越しの食事であったとしても、過越の食事を繰り返すことが命じられたのではないことは確かです。」と旧約の過越の食事(ニサンの月の十四日)のことではなく、イエスご自身の過越、すなわち「イエスがあの晩に新たに行ったこと、すなわち、パンを裂くこと、祝福と感謝の祈り、そしてパンとぶどう酒の聖変化の言葉、これ以外ではないのです。」(前掲書p167)と明快に答えられています。ミサの典礼文では、直後に記念唱で歌い、「これ」を指し示す内容として過越の神秘を記念する言葉が続きます。「主イエスの死と復活の記念を行い(第二奉献文)」、「御子キリストの救いをもたらす受難、復活、昇天を記念し(第三奉献文)」です。その一回限りのイエスの過越の奉献とわたしたちのミサとの関係を、教皇様は明解に、パンを裂くこと、祝福と感謝の祈り、そして聖変化の言葉の三点を列挙して神学的に解釈し奉献文(感謝の祈り)の内容をより広く深い理解の高みへと導いてくださったのです。その中で、神の賜物に対する感謝と賛美について新たな光があったのです。
エウカリスチアの制定の記述には、ユダヤ教の重要な感謝と祝福の祈り(ベラカー)の背景があることは、典礼書に解説されていることですが、名誉教皇様は、テモテ第一の手紙4章4節を引用してイエスの最後の晩餐はこの伝統に従っていると指摘し、「エウカリスチアの制定の言葉は、この祈りの枠の中にはめ込まれ、この祈りの言葉において、感謝は祝福となり、聖変化となるのです。」(前掲書p154)と述べておられます。そのテモテの第一の手紙の部分を引用しますと「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです(Ⅰテモテ4・4)」。教皇様は、続けて「聖変化の言葉は、イエスと共に祈る祈りの一部であり、感謝と賛美の中心部分です。それによって地上的な賜物は、イエスのからだと血として、すなわち、自らをわたしたちに委ねる子の愛による神の自己贈与として、神から与えられるのです」(前掲書p155)と指摘してくださいました。
つまり、わたしは、「聖霊による刷新」の特徴的な祈り、賛美と感謝の祈りは、このエウカリスチア(感謝の祈り、あるいは奉献文)の祈りと結ばれていると感動したのです。プロテスタントの兄弟たちに、ミサの奉献の祈りがないのに大きな実りを受けるのは、みことばにしたがって賛美と感謝の祈りをするからではないかと・・。そして、「これをわたしの記念として行いなさい」という命令は、まさにミサに限らず、すべての日常の出来事の中にあって、神に賛美と感謝をささげることによってすべてが聖なるものとされるという恵みが現実のものとなるとわかってうれしくなったのです。そして、わたしたちが単にアレルヤや賛美の歌を口にして霊に酔いしれている人々ではない、まさに新約の民、イエスの過越の神秘、主の十字架と死と復活に与る恵みを証しするために選ばれ呼ばれている者であると自覚できるのです。そして、教皇様は、イエスは何を感謝されたのでしょうかと聞き、祈りが聞き遂げられたこと(ヘブ5・7)、イエスは復活の恵みについて父に感謝されたのですとだめ押しされました。(前掲書p168)これこそ、まさにわたしたちが、「聖霊による洗礼」の恵みとして祈りの集いの中で「イエスは生きておられる復活された方、主」と告白してきたことでした。
まさに、かって日本のカトリック教会でも「賛美の力」(マーリン・キャローザース)の本が読まれ、聖霊刷新の集いの中で喜びにあふれた人々の祈りを思い出しました。油注がれた賛美の歌の大半は、キリストがなしてくださったことへの喜びと感謝の表現です。ミサもまた、旧約の祭儀のいけにえを捧げる奉献ではなく、イエスの成し遂げてくださったことへの感謝のいけにえの奉献なのです。「古い神殿祭儀を解消し、それに代わる新たな祭儀、それは言葉による神の賛美、イエスにおいて受肉した言葉による神の賛美です。それは、死のただ中を通りぬけて行ったイエスのからだによって人間全体、全人類を包み込む言葉による神の賛美です。それは新しい創造の始まりです。」(前掲書p169)
わたしにとって、ますますミサは喜びの感謝の歌となって、何度ささげても疲れどころか、いのち全体が復活するわたしの主への賛美の歌と感謝の祭儀になっているのです。ミサと賛美の集いは別物ではないのです。
長文で複雑な内容になったので、わたしの喜びの発見を皆さまに十分お伝えできたか心もとないのですが、たいへん百日共同祈願のお誘いが遅くなったので、丁寧に推敲することができませんのでお許しください。ちょうど、バート神父さんからタクロバン市でのその後を伝えるメールが届きました。
「建物の修理や建て替え、そして人々の生活を立て直すことに忙殺されています。パラクレート(聖霊の名=弁護者、助けぬし)刷新センター周辺の山側の斜面にココナツとカカオの木を栽培するために大規模な植林計画を立てて実行中です。また、長期的に貧しい村落の人々を支援するため、特に学校を離脱した青年たちを助けるために、新しいパラクレート農業経営学校を16歳から26歳までの青年を対象に開設し、2年間農業経営を指導する目的で建設中です。現在35名の青年たちがパラクレート刷新センターでわたしと一緒に生活しています。神の恵みによって、2年から4年の内に、彼らを園芸や家畜の生産農家や農園者に育て上げたい望みを持っています。 これは、非常に大がかりな計画に思えることでしょう。しかし、わたしは、このようにしてこそ、私たちの周りに生活する貧しい家族を助けることができると信じております。」
 被災して瓦礫となった山林や田畑を再び復興させ、近隣の村人の生活を再生させるためにバート神父さんとその共同体は今立ち上がって活動しておられる様子です。バート神父さんから、百日共同祈願の皆さまに祝福を送ります。くれぐれもよろしくとのことです。
 まだまだ復興には時間と資金が必要と思いますので、前回と同様に第22回も献金を集めてタクロバン市のバート神父様のプロジェクトへ支援する予定です。また、8月23日(土)から25日(月)まで関西大会が行われ、シリル・ジョン氏を迎えます。「預言的とりなしの祈り」についての更なる祈りと行動の呼びかけがあるものと期待しています。この大会の最終日に百日共同祈願の満願を迎えますので、どうか大会の準備と成功のためにお祈りください。また、関西委員会から川瀬さんと私が全国を代表してウガンダ(カンパラ)で行われる「カトリック・カリスマ刷新の家庭大集会」に参加します。イスラム過激派によるキリスト教徒弾圧のセクトが暗躍しておりますので、どうかアフリカ大陸のために主キリストの力ある業をお祈りください。 賛美と感謝の内に、アーメン アレルヤ!   

 第21回百日連帯共同祈願ミサへの招き

第21回 百日連帯共同祈願ミサへの招き

「この苦難は あなたがたの栄光なのです。(エフェソ3:13b)」

  主キリストのうちにある兄弟姉妹の皆様 
  新春のお慶びを申し上げます。

 毎年1月1日「神の母」の祭日に贈られる「世界平和の日」のメッセージ、本年はフランシスコ教皇様の最初のメッセージとして、「平和への道と基盤としての兄弟愛」のテーマで、「喜びと希望に満ちたいのちが与えられるようにお祈り申し上げます」という言葉で始まりました。兄弟愛が不可能なような時代の閉塞状況、「無関心のグローバル化」が蔓延し、他者の苦しみに『慣れ』、自分の内に閉じこもる状況を嘆いて痛んでおられます。しかし、フランシスコ教皇様は、真の牧者キリストの代理者として「さまざまな不平等、貧困、不正の状況は、兄弟愛の深刻な欠如だけでなく、連帯の文化の不在を示しています」そして、「グローバル化はわたしたちを隣同士にはしても、兄弟にはしません」(ベネディクト16世教皇『真理に根ざした愛』19項参照)と現代世界が兄弟姉妹からなる共同体を形成する使命を妨げる問題や理由を数々列挙する立場に留まるのではなく、真に解決の道は、「人々の間の真の兄弟愛は、超越的な父を前提にし、また必要とします。このような父を認めることにより、人々の間の兄弟愛は堅固なものとなり、すべての人は互いのことを心にかける『隣人』となるのです」と平和への道としての兄弟愛の基盤を教会の信仰の立場から明確に明らかにしておられます。その結論では、「わたしたちは兄弟愛を発見し、愛し、体験し、告げ知らせ、あかししなければなりません」と何をあかしすべきかを手短に要約して、神の愛の福音のエッセンスを理解して行い伝えるように私たちを励まされます。

 私たちが呼びかけて始めた百日共同祈願は、この教皇様の「キリスト教的連帯」の趣旨に沿って世界の人々のために同じ父を仰ぐ神の兄弟姉妹として執り成すものです。第20回は、わたしの亡き父への感謝とともに兄弟姉妹の生きた家族の模範である聖家族の主日のミサで570名余の奉納者の祈りをささげ100日を終えることができました。この百日の祈りの期間には、大きな災害がフィリピン、レイテ島を襲いました。大地震や巨大な台風です。私たちが一昨年講師としてお迎えしたバート・パスター神父様と契約共同体「神の小さい子供たちの家族」の住まいは、その災害の中心に位置するところにあり、神父様とその共同体の消息を知りたいと手を尽くしても音信不通で梨のつぶてでした。私たちは、その被災地の様子が報道されるにつれて心配が募り、バート神父様の無事を願いつづけました。被災地の方々のために、この苦難の時を救いの秘義として主が用いてお導きくださるように祈り続けました。また、東北の大震災のためにも、祈り続けております。震災直後の帰路心筋梗塞で亡くなられたラシャペル神父様の赴任地塩釜教会を訪問し、塩釜教会の信徒の方から最期の様子をお聞きできたことや、塩釜教会が支援基地として大きな役割を果たしたことなどを伺えたことは、神父様を身近に感じ宣教師の息吹が感じられ大きな慰めと力づけをいただきました。この塩釜教会のボランティア活動のために、百日共同祈願の奉納金の分かち合いとして、200日分66万円を寄付させていただきました。また、福岡でも執り成しの祈りの研修を行い大きな恵みをいただきました。特に、聖霊の歌(創造主である神)が、こころに響き、その後も毎日この聖霊の歌を口ずさんで祈りを始めています。

また、11月には、イスラエル訪問の機会に恵まれました。わたしは聖霊による刷新全国委員の一人として、国際カトリック・カリスマ刷新奉仕団(ローマ事務局、ミッシェル・モーラン会長)主催の「国際預言的協議会(International Prophetic Consultation)」に招かれたのです。この国際的な集いの目的は、2017年に聖霊刷新50周年を迎える金祝のこの機会に全教会的な喜びの祝典とするためには、どのように準備すべきか48か国の全国委員と共に神のみ心を聴くことにありました。全世界の全国委員を聖地ベツレヘムに一堂に集め5日間同じ釜の飯を食べ、みことばを聴き、賛美の祈りを共にし、感謝の祈りに与って同じ一つの契約の民、その預言的な使命に目覚めることが大きな目的であったと思います。エルサレム巡礼の一日は、さらに、参加者全員を一つの心にするのに大きな機会となりました。ゲッセマネの園でパティ・マンスフィールド女史(デュケイン大学での最初の聖霊の洗礼の体験者)の短い黙想の講話があり、その後黙想しながら旧市街の十字架の道行、墳墓教会、巡礼の最後には高間で新約聖書のペンテコステの日と同じ規模の人数で1時間ほどの賛美と異言の祈りをささげました。私自身は、皆様の百日の共同祈願のカードをリュックに担いで歩きました。顧みれば、わたしの叙階30周の恵みの年、司祭職の召命を新たにする機会として、主イエス様がわたしを聖地に招き、ご自分の生涯の最初の場所と最後の場所を案内され、ご自身が歩まれた苦しみの道を示され、労苦する者は私のもとに来なさいと励ましの言葉を受けました。ベツレヘムの宿は、生誕教会の広場に面した、文字通り「飼い葉桶広場ホテル(The Manger Square Hotel)」で、四日間130名の各国の代表が宿泊したのですが、「会議」というよりは、聖霊セミナーのスタイルに近く、インプットと分かち合い、聖体賛美、賛美の祈りと預言的なみことばの分かち合いで飼い葉桶の中にいる幼児のように愛に包まれた日々でした。

この会議で印象深く心に残ったことは、会長のミッシェル・モーラン女史です。彼女は英国人でサッチャー元首相のような容貌で鉄人の感じがしましたが、若い時に聖霊刷新の恵みを受けて優しいご主人とともに小教区に奉仕する契約共同体を創立しました。その共同体は、若者に一時的に共同体の祈りの体験の機会を設け、奉仕のための養成講座を主催して、ある種の修道会のような共同生活しているとこのことでした。彼女の個人的なあかしとして、フランシスコ教皇との個人的な面会の機会があった話をとても興味深く聞きました。第20回共同祈願で触れましたが、9月7日、平和の元后、聖マリアの誕生の前日に教皇様は世界中のカトリック信徒そして善意の人々に「シリアと中近東、そして全世界の平和のための祈りと断食の日」を定めて、呼びかけられましたが、その前日の9月6日金曜日に、バチカンに9月9日午後12時に来るように招かれたのです。ちょうどオーストラリアにいてその知らせが届き、全国大会の講師で大会開始前だったのだそうです。それから大会の講師を務めながらチケットを予約する多忙な時間に追われ、面会の指定時間に間に合うかどうかとても緊張したそうですが、すべての交通機関はスムーズに運行し、最終的に面会の20分前に到着できたことは、まさに主の導きと感じたそうです。肉体的には長旅で疲れていたものの心は本当に喜びで満ち溢れていたとのことです。30分間の教皇様と会見は、本当に親しい昔からの友人のように話しが始まったとのことです。昨年亡くなったグレグ司教の話から始まり、カリスマ刷新との出会いや思い出を分かち合い教皇になってもこれまで通りの友情は変わらないことを表明されとのことです。そして、カンタラメサ神父様を教皇庁の説教師として再任したこと等を話され、2015年に行われる第三回カリスマ刷新国際司祭黙想会には教皇様は協力することを確約されたのです。また、カリスマ刷新は教会に大切な役割を担うことを話され、特に南米のペンテコステ派の人々との関係を良好の保ち、対話を続けたいと話されたとのことです。
実際、南米ではカトリック信者が多数原理主義的なキリスト教へと転向していることが憂慮されているのですが、教皇様自身は、カリスマ刷新に対して好意的で、70年代、80年代、カリスマ刷新は、聖なる典礼とサンバの踊りを混同していると非難したこともあるが、刷新の人々を個人的に知って、彼らの生活から良い実が生まれることを目撃して、刷新に回心し、原理主義に対する歯止めだけでなく、現代のカトリック教会には必要でなくてはならない教会運動だと悟ったとワールドユースデイの後メディアに語っているからです。  
ミッシェル会長によれば、教皇様は刷新に好意的だけでなく、内部から個人的にもよく知っておられるので、必要な時には、いつでも電話して相談しなさいといような温かい雰囲気で個人面会は終わったとのことでした。教皇様は、枢機卿の時代、ICCRSのリーダー研修会(LTC)の企画を支援し、ローマではその講師にもなってくださったと事務局のオレステ氏が語ってくださいました。

日本の教会では信じがたいような話かもしれません。でも、教皇様の言葉と行いを見ていると、刷新された人、新しい人の姿が見えてきます。歴代の教皇、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世教皇、そしてフランシスコ教皇様は、聖霊による刷新(カトリック・カリスマ刷新)を第二バチカン公会議の実りとして、また教会刷新の機会として、カトリック教会内の刷新運動として認めてこられたのです。それは、教会憲章第二章神の民についての最初の項目、新しい契約と新しい民の記述、第9項に書かれていることの具体的な実現方法であり、確かな実り豊かなあかしになっているからだと思います。それは、新しい契約とその実現として十字架の贖いと復活により聖霊が信者の心に降り心に神の律法が刻まれた新約の民の誕生の出来事です。「この民の法は、神の子らとしての品位と自由を備え、彼らの心の中には、あたかも神殿の中におけるように、聖霊が住んでいる。この民の法は、キリスト自身がわれわれを愛したように愛せよという新しい掟である(ヨハネ13・34参照)」(教会憲章9項309ページ、後4行、中央協議会改訂公式訳引用)ペンテコステの出来事は、最後の晩餐の約束の成就として、聖霊が降り、使徒たちの上に舌の形で聖霊の賜物が与えられました。その中心は、新しい契約の民には父と子の神の愛が注がれる約束が現在化し、わたしたちの内に聖霊が内在されることです。しかしこのことを自覚できるのは、古い生き方の自分を認めて告白し、聖霊の新たな洗いによって新しい人となる聖霊の洗礼によることです。それは、聖霊によって「イエスを主」と告白し、契約の民としてみことばに聴き従い、みことばが日々の生きる糧となることです。聖霊による刷新はこのことを絶えず自覚し洗礼の約束を更新するために聖霊の洗礼のセミナーを実施します。日々自らを奉献し、感謝と賛美をささげる神の民の喜びの集いが刷新の祈りの集いです。今年の新年の平和へのメッセージの結論には、「神が与えてくださる愛だけが、兄弟愛を受けいれ、完全な形で生きることを可能とします」と述べ、ヨハネの福音13章34節~35節を引用され、「(互いに愛し合う)この福音はすべての人に求めます。さらなる一歩を踏み出しなさい。徹底して共感し、自分から遠く離れた人を含む他者の苦しみと希望に耳を傾け、険しい道を歩みなさい」と教皇様は教会が向かう道をはっきりと示されました。

執り成しの祈りは、教皇様の望みを実行する一つの形であり、キリストの教会の使命そのものであります。さらに執り成しを続けましょう。第21回百日連帯共同祈願ミサは、主の洗礼からいつくしみの主日まで(過越しの三日間と復活主日を除く)の百日間を祈ることにいたしました。日付として2014年1月12日(主の洗礼)から4月27日までです。最終の満願日は、ヨハネ23世教皇とヨハネ・パウロ二世教皇の列聖式が執り行われます。まさに新しい聖霊降臨を教会の上に祈り求め、あたらしい福音宣教への道を示した二人の教皇は聖人の誉れと栄冠を受けるにふさわしい方です。この同じ聖霊の息吹とイニシアチブを日本の教会と各国政府の上に注がれ、平和の道を歩み続けるように祈り求めましょう。祈りは前回と同じ要領で、聖霊の祈りで始め、聖フランシスコの平和の祈りをささげましょう。各意向にはマリアさまとともに執り成しのロザリオをささげましょう。また、まとめに、ファスティナに示された祈りも用いるとよいと思います。(例文に書きました。)

主の公現の祭日に
聖霊による刷新関西委員会委員長
 畠 基幸 CP
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 第20回百日連帯共同祈願ミサ

第20回 百日連帯共同祈願ミサへの招き


 「平和を実現する人々は、幸いである。その人々は神の子と呼ばれる」
                       (マタイ5章9節)
 亡き父ヨセフ畠良一の思い出に

第19回百日連帯共同祈願は聖霊降臨の日から始めて第19回聖霊による刷新全国大会三日目8月26日まで100日間続けられました。そして、参加者の一人91歳の私の父は、翌日平和のうちに静かに御父のみもとに旅立ちました。息子の私を応援するために、第一回目の共同祈願から参加し、次第に衰える心身の中でも、最期まで祈り続けてくれたのです。今回の共同祈願の参加者は515人と激減しましたが、池田教会では、奇跡的な事が起こり始めました。一つは40代の女性で自動車に撥ねられて前輪と後輪にひかれましたが、骨一つ折れずに命が救われたことと、もう一つは、脳腫瘍で手術をしなければ余命一か月と宣告された人が、手術を受けると腫瘍は発見されず、手術後の集中治療室では、十字架のイエスが彼女の体に入り、病院の中を歩き続ける夢を見たのでした。彼女の証言では、その後、渇くという叫びとともに目覚め、気づくと痛みはなくなり元気が回復したとのことです。アレルヤ、神に感謝!

ちょうどそれらの奇跡が起こったころ、わたしは黙想会を指導しており、これまで聖母マリアについて黙想の題材としたことがなかったので、マリアさまに関する資料を集め、考察していたところでした。そして黙想会で思い出したことは、神学生の時、父が狭心症になり、いつ発作が起こって心筋梗塞を起こし死に至るかわからないと医者から告げられても、父は頑なに入院を拒否しているとの母の報告でした。その報告を聞いた夜、わたしは心配で眠れなくなり、夜通しロザリオの祈りを唱え続けていると明け方、父の後ろに立っているマリアさまのビジョンを見たのです。そして、瞬間的に何とも言えぬ平安が訪れたことがありました。その後、わたしの説得で父は三か月入院し、元気を回復し心臓は癒されました。父をこんな病気にさせたのは、わたしが大学卒業後父には相談せず修道会に入り、父の全く知らない世界に行ってしまったさびしい思いをさせたことが原因でした。息子を取られたと話すのが口癖になり、ついに生きる意欲まで奪っていたのでした。その父をマリアさまが助けてくださったのです。明日にも死ぬかもしれないと医者に驚かされた父が、その後35年も生きたのですから。・・・

父の思い出を語らせてください。父は幼少で両親に死別し、親族から邪魔者扱いを受け、小学校の勉強も十分させてもらえませんでした。親もなく、学歴もなく、ツテもコネもなく、身一つで、戦前、戦中、戦後をがむしゃらに生き働いてきた父は、母と結婚するまで人間らしい生活をしたことがなかったと述懐していました。結婚しない道を選んだわたしに父は、人間として成熟する機会を失ったので残念だ、それでもよいのか、自分で選んだ道は途中でやめてはいけないのだぞと諭しました。司祭職への道を反対したのではなく、親心から言ってくれたのでした。その父に危機が訪れたのは、母の死の時でした。広島で被爆した母は、何度か大病しては病を克服し、その後父と二人で牛乳配達店を営み、息子二人を大学まで行かせてくれました。癌を患って牛乳店を廃業したのち、晩年の12年間は京都教区の司教館で奉仕した後、気管支の癌で亡くなりました。苦労を共にした母を失うことは父には耐えられない悲しみだったので、すぐに後から行くからなと声をかけていました。その父が、母の一番喜ぶことは、自分が洗礼を受けることだと思うに至り洗礼を望みました。河原町教会で教理を即席で学んだあと、四旬節の主日の日でしたが、奇しくも2月11日のルルドの聖母の記念日に重なり洗礼を私から受けました。

母が亡くなると、茫然自失だった父は、身寄りのないことがどれほどつらかったかを思い、兄と私のために、存在すること、母がしていた家族のための祈りを継続することを自分の本分としました。61歳から79歳までメインテナンス会社に勤め、癌で職を辞し「ケアハウス神の園」に入居しました。79歳から91歳まで会社勤務でのノウハウを生かしたボランティア活動や教会のミサや黙想会にも参加し、信者生活を教わりながら「司祭の父」としての緊張と誇りをもって日々を過ごしていました。12年間で肺がん、喉頭がん、胃がん、前立腺がん、膀胱がんと何度も闘病生活をしましたが、「渡る世間に鬼はいない」は、晩年の父の口癖となり、職員や園の入居者たちとの家族的な交わりを楽しみ喜んでいました。昨年の暮れから膀胱がん悪化し、入退院を繰り返しましたが、来るべき時が来ました。「こんなに愛されて幸せな男はない」。細かいことはわからないが、すべて赦してほしいと願ったので、赦しの秘跡と全免償を授け、臨終の最期の秘跡、病者の塗油とご聖体の秘跡を授けました。別れ際に父の手にキスをしました。今思い起こすと、父ヨセフの労働の手にイエスさまが祝福されたのだと悟りました。父への感謝の最大の祝福だったと思うと心からの喜び、愛、平和、感謝があふれてきました。そして、全国大会の準備と大会に没頭しているわたしには、何の不安もなくすべてをマリアさまにゆだねることができました。35年前に父の傍らにおられたマリアさまは、あの時から、父の幸せな死を準備し、聖家族の一員として永遠の宴に招かれたのだと思えるのです。
聖母マリアさまは、どれほどこの小さな家族に憐みの目を注いで導かれていたか、そして、司祭のわたしが一年に一日か二日しか過ごせなかった母や父の寂しさやわたしの親不孝を補って余りあるほどの愛を注いでくださったのです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない(ルカ9・62)」とイエスさまは弟子には厳しいのですが、わたしの修道生活、司祭職を喜んで歩めるように、マリアさまが救い主の母として、どんなにかわたしの母や父のことをいたわり幸せな生涯を全うできるように見守り、逆境の時、病気の時、そして死を迎えるときに執り成してくださったのか思い起こせます。

そうです。百日の共同祈願は、まさに救い主母マリアの「とりなしの祈り」です。イエスの憐みの心により頼む祈りです。すべては御父が愛されるものの死を、病を、苦しみを、痛みを、そのままにしておけない、無関心ではいられない祈りです。教皇様は、「私の心を痛め悩ませる多くの争いがこの世界にありますが、最近特に心を痛めるのは今シリアで起こっている問題です」と、9月7日(平和の元后・聖マリアの誕生の前日)に「シリアと中近東、そして全世界の平和のための祈りと断食の日」として共に祈るようにと信者に檄を飛ばされました。その日、10万人の人々が教皇様とともに祈りと償いの心をもってサンピエトロ広場で共に祈りました。私たちもまた報せを受けたのが遅かったけれども何らかの形で祈りに参加しました。教皇様は「地上の平和」の回勅を書かれた教皇ヨハネ23世に言及して言われます。「この世界に平和が実現するためにわたしたちは何ができるでしょうか? 教皇ヨハネ23世が言われたように、一人ひとりの人間が正義と愛の導きのもとに、人間社会の中に新しい関係を築き上げることです。すべての善意の人には平和を追求する義務があります」。

わたしたち一人ひとりは小さい者ですが、「わたしが愛したように、互いに愛しなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる(ヨハネ13:34~35)」と遺言されたイエスの新しい契約(絆)に生きる仲間たちが世界中にいることに励まされます。教皇様は若者たちに語りかけられたように、わたしたちにも話しかけられました。「今日わたしは、世界中の人々の、一人ひとりの心から立ち上がる叫び声に、人類の大家族から立ち上がる叫び声に、私の声を合わせたいと思います。平和を求める叫びです。・・・二度と戦争をするな!戦争はもうたくさんだ!という叫びです。平和は貴重な賜物です、大事に守り育てなければならないものです」。

わたしたちも勇気をもって叫びましょう。第20回百日連帯共同祈願ミサを、教皇様の意向とともに、「平和のための祈り」として新しい聖霊降臨を願い求めて共に祈りましょう。今回は、9月21日マタイ福音記者の祝日より12月29日聖家族の祝日までの100日間を祈ります。毎日ミサで皆様の祈りを奉納します。
 
 第20回百日連帯共同祈願ミサ
9月21日 ~ 12月29日 (百日間)
聖霊 来てください。
  ✚ 平和を求める祈り(アシジのフランシスコ)
  わたしを あなたの平和の道具としてお使いください。
  憎しみのあるところに 愛を
  いさかいのあるところに ゆるしを
  分裂のあるところに 一致を
  疑惑のあるところに 信仰を
  誤っているところに 真理を
  絶望のあるところに 希望を
  闇に光を 悲しみのあるところに
  喜びをもたらすものとしてください
  慰められるよりは 慰めることを
  理解されるよりは 理解することを
  愛されるよりは 愛することを
  わたしが求めますように
  わたしたちは与えるから受け ゆるすからゆるされ
  自分を捨てて死に
  永遠の生命をいただくのですから
 聖母マリアのとりなしを願って
 ロザリオの祈り この一連をささげましょう。
1、 教皇の意向を祈る。
2、 聖霊による刷新の意向
3、 各自の共同体の意向
4、 自分の意向
5、 平和のための意向

結び:栄光は父と子と聖霊に はじめのように今もいつも世々に アーメン

 祝叙階三十周年 
 聖霊による刷新関西委員会 委員長 畠 基幸 神父
 (2013年9月14日発送)

 第19回百日間連帯共同祈願

5月19日(聖霊降臨の主日)から8月26日までの100日間を共に連帯して祈るように呼びかけました。長い文章になりましたがご賛同くだされば、ご一緒に100日間祈りませんか。どんな祈りでも結構です。同じ祈りをしたいと望まれる方には、「聖霊による刷新」の祈り会の人たちと共にするとりなしの祈りをお祈りください。「はがき文」にしてあります。私宛にお送りくだされば、毎日のミサの奉納にあなたから拝受した祈りカード(はがき)をおささげします。

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第19回 百日間連帯共同祈願への招き

新しい聖霊降臨の恵みを願って

兄弟姉妹のみなさま 
聖霊降臨祭 おめでとうございます。
ノベナ(9日間)の特別な執り成しの祈りのこの時、みなさまにごあいさつ申し上げます。5月12日昇天祭に<母の日>を迎え、すべての命の母の尊い使命を思い、特別にいつくしみ深い主に祈りを捧げてこのメッセージを送ります。

第18回百日共同祈願は、4月28日に終わりました。635名の参加者がありました。この百日の期間には、名誉教皇ベネディクト16世からフランシスコ教皇への教皇職交代の歴史的な出来事が起こりました。退位表明から世界中の教会に祈りの輪が広がり、世界中のメディアが注目し、さまざまな憶測が飛び交う中、新教皇が誕生しました。そして、わたしたちは、新教皇様がフランシスコの名を選ばれたと聞き、喜び踊りました。これこそわたしたちの祈りに応えられる聖霊のみ業なのだと信じられるからです。

聖霊による教会の刷新と聖フランシスコのビジョンには霊的な類似性が豊かにあります。シリル・ジョン氏はカリスインディアの2006年1月号の記事の中で、アシジの聖フランシスコの特別な使命とカリスマ刷新の召命と使命についてのご自身の洞察を次のように書いておられました。
 「インドの第13回CCR全国大会のために全国奉仕チームが祈っていたときに、主は私たちに『キリストの体を建てよ』というテーマを与えてくださいました。問題は、私たちが教会に深く根ざしていないならば、キリストの体を建てることができるかということです。フランシスコがサン・ダミアノの十字架上のイエスから聞いたことは、『キリストの教会を放棄する』とか『他の教会を設立する』ではなくて、『わたしの教会を修復する』ことでした。そしてフランシスコはそれを唯一の仕方で成し遂げました。その仕方は一回に一つの石を、自分自身の生涯や彼の個人的なあかしによって変えられた者たちの生涯をもって、積み上げるということです。彼は深く教会のうちに根ざしていたので、その教会を修復できたのです。さて、私たちはどうでしょうか。
 刷新にかかわる私たちは、『主の教会を修復し』し、『ラテランの崩れかけた壁をくい止める』ために呼ばれています。私たちの腕は、教会の裂け目を修復するためにあります。私たちの肩は、教会の傾きをくい止めるためにあります。聖霊の満たしは、『ペンテコステの恵み』の具体的な体験であり、それによって聖霊の働きが個人や信仰共同体の生活における経験された現実となります。『霊の注ぎ』は、教会を生ける体として再発見することを伴います。それは私たちに、キリストの体のある部分が病み、弱まり、不能になっていることを実感させます。しかし、そのことは私たちをつまずかせるのではなく、愛と憐みを私たちに満たしてくれるのです。教会への新たな愛と感覚は、それを経験した多くの者を、もっともっと教会に奉仕したいという刷新された要求へと導きます。多くの者にとって、『わが母である教会の核心においてこそ私は愛となります』というリジューの聖テレーズの言葉が新しい意味を帯びてきました。
 聖霊の満たしの明らかな実りの一つは、キリストの生ける体としての教会の再発見です。教会への新たな愛と感覚は、満たしを経験した多くの者を、キリストの体との交わりのうちにいたいという刷新された要求へと導きます。キリストの弟子たちを、ご自分の名において、ご自分の権威において、この世における御業を教会として続行するために派遣されましたが、私たちが今日でもイエスについて語ることができるのは、教会をとおしてのみ可能なのです。」

「新しい福音宣教」が、信仰年の主要なテーマであることが明らかになってきました。その初穂のような教皇フランシスコの姿は、硬直化した教皇庁や教会位階制に聖霊の息吹を吹き込み、貧しい人の側に立つ姿を示されました。これは、福音の原点に戻り、御父の愛をあかししたイエスの姿にならい、私たちも同じようにイエスの愛を生涯あかしするならば、教会を修復することになるという教皇様の模範だと思います。シリル・ジョン氏の情報によれば、教皇様はブエノスアイレスの大司教として「聖霊による刷新」やエキメニカル運動にも積極的にかかわり、ICCRS(国際聖霊刷新奉仕団)のメンバーとも親密な交流があるということです。2005年以降私たちが尼崎の大会に招いたラニエロ・カンタラメサ神父様(教皇庁説教師、歴代の教皇の聴罪司祭)、故ルフス神父様、ホワイト・ヘッド夫妻を、教皇様も同じ時期アルゼンチンに招き、聖霊による刷新の大会を行い、熱心に聖霊の満たしを願われたことを知りました。教皇になって最初に参列者からの祝福の祈りを願われたことが話題になりましたが、教皇様にとってはごく当たり前のことだったのです。教皇様は、まさに聖霊の満たしを受けて刷新された人なのです。その観点から見ると、教皇様の言動もなるほどと親近感がわいてきます。

さて、私たちは、主が弟子たちに約束されたように、みなしごではなく(ヨハネ14:18~19)、聖霊の豊かな導き、多くの優れた模範に恵まれています。そして、何よりも父の右の座にあって主イエスがわたしたちのために執り成してくださっているので、私たちは聖霊に満たされれば満たされるほど、一つのキリストの体として、キリストの体の傷を意識するようになります。シリルさんの記事の下線部分に注目しましょう。これは、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイ1・24)」という聖パウロの言葉が、真実味を帯びて私たちの身近に迫ってくるように思います。同時に、私たちの生温い信仰生活を悔い改めさせ、霊的な重荷をもって祈る生き生きとした信仰感覚が生まれます。「わたしの小さな子らよ、キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(ガラテヤ4・9)」これは、苦しむ人々との連帯を意識すると同時に神の心にかかっている重荷と一致しなければならないことをシリルさんに教えられました。(「執り成しの教本」シリル・ジョン著「預言的な執り成し」p54~55)「執り成しの成功は、私たちが執り成すものが神によって指定されたものであるか、それとも、私たち自身の選択によるものであるかという、執り成しの源泉にかかっているのです。」(同書、p55)

今日(5月13日)は、ファチマの聖母の記念日ですが、ポルトガルのファチマにご出現されたマリア様は、罪びとの回心のために祈るように3人の牧童に告げられました。ルルドにおいても、ガダルペにおいても、秋田の聖母においても、罪びとの回心を祈ることを願っておられます。そして聖ファスティナ(いつくしみの主日)や聖ジェンマ(5月16日記念日)に出現されたイエスさまも罪びとの回心を祈ることを願っておられます。福音書において、復活されたイエスさまが聖トマスに告げられたことが記されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20:27)」。これは、イエスさまの心にかかっているもっとも大きな重荷でした。自分の愛する弟子たちが離反することです。だから、聖トマのためにイエスは現れてご自身の傷を示されたのです。これは一匹の迷子の羊ために示される主のあわれみの心です。どれほど主は一人一人を大切にし、配慮されるのかがわかります。

そのためか、聖霊に満たされた私たちは、もはや私たちと共に主の食卓に与らない友のために祈るようにと促されます。「わたしの信じていた親しい友、パンを分け合った友が、わたしを裏切った」(詩編41:10「教会の祈り」第一金晩課)のですが、この苦しみの中で、ご自分を罪の贖いとしていけにえの子羊となってくださった主の愛を無視することが、どれほど主イエスを悲しませていることか、主にとって過酷な心の負担であることか?たとえば、どの教会でも、信者総数の5分の一しか日曜日に来なくなっているとある司教様がある場で発言されたことがありましたが、それをどう受け止めていいのか。私自身は司牧者として、信仰共同体への非難よりも落胆と自虐的に自分の無能さを感じて、反省の材料になっています。それは、私の信仰の傷のようにうずくのです。信じない者となった信者の群れがキリストの体の傷として痛まないわけはないのです。そのために、「新しい福音宣教」は、教会の中で洗礼の恵みをうけてもキリストと共に歩み成長する信仰生活の意味を見失った人々への取り組みであり、1967年に始まるカトリック・カリスマ刷新(「聖霊による刷新」)の働きは、聖霊のイニシアチブの下に始まる「新しい福音宣教」、つまり「新しい聖霊降臨」として「聖霊の洗礼」が信仰を復活させる大きな恵みとなることを証言してきました。
 だから、その希望のうちに友のために悔い改め、また主のためにまた私たち自身のために教会の一致と和解を執り成す祈りを始めましょう。

 「第19回百日連帯共同祈願」と今回は「連帯」という言葉を入れました。キリストの苦しみに結ばれ、キリストの苦しみの欠けたところを「連帯」して自分の事として祈ることを決意すると同時に世界中の、そして同時に日本中の「執り成し人」のネットワークとも「連帯」して祈ることを考えました。十字架の縦木と横木です。主と結ばれ、隣人と結ばれ同じ主のからだとして十字架の木になるということです。こうして、私たちはキリストの生けるいけにえとして毎日のミサでささげられるのです。(ローマ12:1~2)今回は、聖霊降臨祭(5月19日)から8月26日までの百日間を祈ります。

★はがき文の祈りカード(ここをクリック)を送ってくだされば、毎日ミサに祈りのはがきのカードを納めた籠を奉納の時に奉げます。
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 第18回百日共同祈願奉献ミサへの招き

第18回百日共同祈願奉献ミサへの招き
2013年1月13日(主の洗礼)~4月28日(日)

「神は独り子を与えるほど世を愛された。」(ヨハネ3章16節a)

兄弟姉妹の皆様へ
神の愛の神秘を祝う降誕節が終わり、今年も、主の洗礼の祝日が近づいています。「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けるになる」と洗礼者ヨハネが預言したように、主イエスはこの時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえ」ました。同じように、私たちもまた、洗礼の恵みを受けました。異なる点は、私たちの洗礼は、イエスの生涯の愛の奉献として私たちのために十字架の死の洗礼を受け、そこからイエスは復活の主として聖霊のいのちの秘跡を通して私たちに与えておられるのです。

この典礼の季節の流れに沿って、今年も、皆様の百日共同祈願を奉献するミサを始めたいと存じます。わたしたちのために死を通して聖霊を注ぐ霊となられた主イエスの十字架の死を無にしないように、わたしたちも他者のために祈る者となって、執り成す日々を送りましょう。表題にあるように1月13日から4月28日(日)までの106日間です。この間、聖週間も含まれているので6日間を抜いて、100日とします。今回は、18回目となります。倦まず弛まず祈り続けることが大切と思います。第17回目は、夜半の祈りが負担になり、十字架の道行の祈りを断念しました。しかし、百日間の共同祈願のミサは続けることができました。体力的には、まだ62歳の若さで元気ですが、聖務が重なって毎日数時間しか睡眠をとることができない日々が続くと、さすがに疲れを感じます。それでも病気をせず、寝込むこともなかったのは、皆様の祈りの支えであり、百日間の共同の祈りのおかげと思います。

皆様に報告できることは、620名の参加者があったことと、分かち合い献金の半額が52万円になり、これを福島県南相馬市原町区橋本町の「さゆり幼稚園」(園長 ライモンド・ラトゥール神父)に寄付いたしました。「震災後、思うように外遊びができなくなった子供たちが安心して遊べる環境を作っていきたいと思い、空き教室を改修して、室内遊び場を設置しました。幼稚園の子供たちだけでなく、ここに暮らす地域の子供たちにも一般開放日を設けて喜んでいただいています。これも皆様からいただいた善意の賜物と感謝しております。皆様からいただきました寄付金は、今後も子どもたちのために、遊具の充実や環境作りに有効に活用させていただきたいと思います。本当にありがとうございました。」

わたしたちが始めた共同祈願の輪が、聖霊の導きにより、古代からの愛の実践を復活させることになりました。ミサで集められた祈りの実りを兄弟姉妹に分かち合い配ることです。(回勅「神は愛」22項p45)同時に、わたしたちの小さな祈りが、「平和に生存する権利」を奪われた人々、すなわち福島県の母親や子供たち、東北地方の被災された市民や戦後の国家間の狭間で極度の不安と不安全の中に置き去りにされた沖縄の人々の苦しみと結ばれて神にささげられることは、現代のわたしたちが忘れていた霊的な愛の実践を復活させることになると思います。

祈りの意向について:
武者小路公秀さん(元国連大学副学長)によれば、「2000年代のはじめに、日本国は、国連に訴えて、『人間の安全保障』を世界政治の中心課題に取り上げることを主張しました」。
人間の安全保障と人間の不安全を中心に国際関係をとらえるならば、釣魚島・尖閣列島や独島・竹島問題も起こらなかったと分析されています。ところが、原発を稼働しながらの復興活動を続け、人間性を無視した「国家主義」、「開発主義」、「植民地主義」に逆戻りしているとのことです。政治の問題は、つまるところ、「福音」を必要としているのです。国家の指導者のための祈りを、昨年から始めましたが、教皇様の平和へのメッセージと勧めに結ばれて、第18回の共同祈願は日本と諸国民の平和のための祈りをささげましょう。

「わたしたちをあなたの平和の道具としてください。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、疑いのあるところにまことの信仰をもたらすことができますように。」
また福者ヨハネ二十二世と結ばれて祈りましょう。
「どうか諸民族の指導者を照らしてください。彼らが、その市民の正当な福祉を配慮しながら、平和という貴いたまものを守ることができますように。すべての人の心を燃え立たせてください。彼らが分裂をもたらす隔ての壁を打ち倒し、相互の愛のきずなを強め、他者を理解し、侮辱した人をゆるすことができますように。こうして、主のわざにより、地上のすべての民は友愛のきずなで結ばれ、切望してやまない平和が永遠に咲き誇り、地上の諸国民を支配するのです。(回勅「パーチエム・イン・テリス(地上に平和)1963年4月11日」

 今回の分かち合いの献金は、引き続き東北の方々のためにささげることにしています。また、事務経費のための献金も継続する予定です。全国大会8月24日~26日は、シリル・ジョン氏を予定しています。一昨年来日して「執り成しの祈り教本」と執り成しの祈りネットワークの必要性を熱心に説かれたことを覚えておられるでしょう。この執り成しをもっと深めるためにシリル・ジョン氏に来ていただくことになりました。また、皆様と一緒できることを楽しみにしています。 主のうちに  畠 基幸
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 第17回百日連続ミサ共同祈願

主の十字架の称賛の祝日に

第17回百日間連続ミサ共同祈願への招きのことば
9月14日(金)~12月22日(土)
 
兄弟姉妹の皆さまへ
 コロサイの信徒の手紙にある初めにある聖パウロの挨拶を皆さまに贈ります。
「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテからコロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(コロサイ 1章1節~2節)

 第16回目の共同祈願は、8月20日満願日を迎え第16回聖霊による刷新関西大会の参加者280名と共に感謝の祈りをささげました。皆様の共同祈願の意向(葉書805枚)を籠に入れて祭壇に奉納しました。第16回目の共同祈願から新しい試みとして、皆さまに貧しい人々への献金と司祭修道者黙想会への支援をお願いしました。ざっくばらんにその結果を報告しますと、1日10円の分かち合い献金は529名(振込489名、現金40名)、内、ジャマイカへの福祉活動支援金は691000円、司祭修道者黙想会支援金は813100円、合計百五十万四千百円になりました。ジャマイカへは、この金額とデニス神父(池田教会)の献金十万円を加えて一万ドルになるように調整(為替と手数料)して八十万円を七月末日に送りました。司祭黙想会への支援金は、黙想者の参加費から黙想指導者バート神父様への交通費、指導謝礼、通訳謝礼、宿泊料金などを賄って赤字分28万円程を補填した残額五十二万四千円になりました。黙想会全員の希望は、翌年の黙想会のための企画、広報のために使い、聖霊による刷新司祭修道者の黙想会が今後も継続できるように準備資金にするということでした。
 一日10円献金は、わたしの当初の予想、50万円にもなれば上出来という思いを完全に超えました。わたしがいかに不信仰で、みなさまの寛大な心を知らなかったかを知りました。そして、ミサの精神、少年の5つのパンと二匹の魚の捧げものを主が受け取って感謝をささげると、今日でも5000人以上の人々が食べてなおあり余るほどに豊かに満ちあふれさせてくださる神の御心に触れました。皆さま、分かち合いの日々の祈りと犠牲、ありがとうございます。コロサイの手紙の1章の3節から言葉が真実なものとして、聖パウロのように喜びをもって祈ります。
 福音は、世界中至るところでそうであるように実を結んで成長しています。・・・この分かち合い献金の意向を次のようにお願いします。第17回は、①東日本大震災の被災地の子供たちのため、また②来年度の聖霊による刷新の事務局の活動費用のため 一日10円の犠牲をお願いします。(振込用紙に、事務局の活動費用の項目を印字しました。)

さて、第16回共同祈願の期間中、多くの研修と大会の学びがありました。聖霊による刷新関西大会には、「この時のためにこそ」というテーマでホワイトヘッド夫妻をお招きしました。新しい福音宣教には、新しい聖霊降臨が伴うものですと、聖霊刷新との出会いからIICRS会長になって教皇ヨハネ・パウロ二世との深い友情と交わり、そして今日にいたるまでの夫婦の信仰の歩みとをユーモアを交えて証ししてくださいました。そして、バート神父様からは、司祭黙想会や研修会で祈りの賜物を発展させ実りのあるものにする成長の秘訣、持続的な成長の教えをいただきました。大会は、素晴らしいものですが、大会の後も日々の生活で成長し続けなければ、大会は単なるガソリン・ステーションで終わってしまうとの言葉が響きました。バート神父様は「Koinonia Recipe(共同体造りのレシピ)」を、ホワイトヘッド氏は「Towards a Fuller Life in the Holy Spirit (聖霊におけるより豊かないのちの充満にむかって)」を、長年の黙想と経験の結果を書き記したもので、日本のこれからの発展に参考になると思うので使ってくださいと、遺言のようにわたしにプレゼントしてくださいました。フィリピンの共同体運動、英国の夫婦・家庭中心の聖霊刷新運動には、私たちの将来のビジョンが描かれています。たとえば、英国のウェブを見ると、福音宣教用DVDの教育プログラムとして: www.faithcafe.orgまた、英国の聖霊刷新の家庭大会、www.celebrateconference.org があります。これらは聖霊による刷新の働きがグループ内にとどまることではなく、教会全体に影響を与える信仰の中核グループになる証しです。聖霊による刷新運動の初期の期待を混乱と疑いの中でも聖霊の導きに信頼しながらホワイトヘッド夫妻やバート神父は今日まで忍耐強く信仰の刷新プログラムとして根付かせて、教会の中でなくてはならい福音として発展させ、公認されていることは私たちの希望です。

本当に先人たちの素晴らしいビジョンやプログラムに魅せられます。翻って私たちはどうすればいいのかと思うとき、強く感じることは、「執り成しの祈りの緊急性」です。多くのものが祈りによって成し遂げられている。シリル・ジョン氏が昨年分かち合い、教えてくださった「執り成しの祈り」の賜物と教えです。シリル氏の「執り成しの祈り教本」29~30ページにある「執り成しの緊急性」は、今日の日本の状況にも当てはまります。この箇所を第17回の共同祈願の合同の祈りとしたいと思います。ペトロとヨハネは、イエスの名にてよって誰にも話してはならないと命令された後、仲間のところへ行き、その出来事をすべ報告すると、今度は信者の共同体が彼らと共に祈ったことでした(使徒4・23~31)。ところが、日本の教会の現状は、共に祈る共同体を失っていると思います。司祭を含め、一人の孤独な信者が多数集まっているのです。そのような教会の友のために、私たちは祈りをささげることを誓います。どのように祈っていいのか苦しむ友のために、祈りをささげます。幸いに、私たちには、百日連続ミサの共同祈願の祈りをささげる祈る共同体があります。この祈りは、イエスの御父に対する「アーメン」すなわち、「ご覧ください。わたしは来ました。御心をおこなうために」(ヘブライ10:9)のイエスのみ心に与る奉献の祈りです。また、マリア様の「フィアト(仰せのようにこの身になりますように)」の受諾の祈りです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない(ヨハネ15・13)」それほどの緊急の祈りです。終わりのときに至るまで、私たちには、この祈りのミッションがあります。ミッションは「使命」とも「派遣」と訳されますし、「宣教」とも訳される場合もあります。しかし、ラテン語の源をたどれば、それは「発出」すること。つまり「聖霊は、父と子から出て、」としたニケア・コンスタンチノープルの信条のあの原初の意味に突き当たります。私たちは、聖霊に促されて、緊急の、この国、この教会、この友、この時のためにこそ執り成しの祈りをささげます。私たちのアーメンは、いつか賛美の歌になり、永遠の宴での「新しい歌(異言)」を奉げることになります。アーメン アレルヤ

第17回 百日連続ミサ 共同祈願
9月14日~12月22日(百日間)
✚聖霊、来てください。 
 今日、私たちのこの世界の、この都市にも。
 「アーメン・アレルヤ」の賛美歌を歌う。
共同の祈り: 
主よ、あなたの目を私たちの祈りに向けてください。
 今日においても御手を伸ばし、イエスの名によっていやし、奇跡、不思議なしるしがおこるようにしてください。なぜなら私たちは、無関心で、耳が聞こえず、心が頑なで、言葉だけではもはや不十分だからです。私たちのためではなく、あなたの栄光と御国の拡大のため、あなたの再度のしるしと不思議な業を求める勇気を私たちにお与えください。
事実、あなたは、そのようなしるしは「信じない者たちにとって」有益であるとおっしゃいました(Ⅰコリント14・22)。しかし、私たちの世界は再び、信じない者ばかりになってしまいました。それゆえ、わたしたちはこの世を説得するかもしれない、あるいは少なくとも注目をひくかもしれない、あなたのしるしを必要としているのです。あなたは、宣べ伝える者と共に働き、「伴うしるしによって」(マルコ16・20)彼らの言葉を確証すると私たちに約束してくださいました。(シリル・ジョン氏 「執り成しの祈り教本」30ページ)
あなたの祈りの意向を加える:

これら祈りを人類一致のための秘跡、パンとぶどう酒の神秘を通して御父に委ねます。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン

奉納者の名前_____________________

PS:関西大会のDVDは、畠神父制作につき一組7枚を1000円(実費)でお分けします。
二日目昼と三日目朝の講話は操作ミスで収録できませんでした。(欲しい方は振込用紙に明記の上、お申し込みください。朝の祈り、最初の日のミサも収録されていません。またメモリーカードの限界で、途中までしか録画できていないところもありますが、大会の雰囲気やホワイトヘッド夫妻の人柄と教えを味わうにはよいビデオです。)

以下続きをクリックして葉書文面テキストをコピーして共同祈願に奉納してください。 
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 ノベナの祈り(九日間の祈り)

ノベナの祈りを始めましょう。

主の昇天から聖霊降臨祭までの10日間 伝統的にノベナの祈りがささげられてきました。

 典礼暦年と典礼暦に関する一般原則からこの箇所を参照すると、
25 復活後40日目には、主の昇天を祝う。それが守るべき祭日でないため、復活節第7主日に移された場合は別である。

 40日目は 5月17日(木)の今日にあたりますが、上記のように日本の教会では、次の主日が主の昇天の主日です。引き続き次の記述があります。

26 主の昇天後から聖霊降臨の前日の土曜日までの週日は、聖霊を迎える準備にあてられる。

 これがノベナ(九日間)の祈りです。さまざまなスタイルがありますが、昨年聖霊による刷新関西大会(尼崎)の講師としてお迎えしたシリル・ジョン氏からインドで大変好評な「ノベナの祈り」のテキストを入手しました。マリスト会のブラザー吉田さんが丁寧に翻訳して下さったのでここに掲載します。

 「聖霊降臨を祝う」(小冊子、聖霊による刷新関西委員会事務局 翻訳、発刊 200円)の中シリル・ジョンさんは執り成しの祈りの一つとしてノベナの祈りが注目に値することを以下のように説明されています。

「聖霊降臨の主日のための九日間の祈り」

 

 聖霊降臨の主日のためのノベナは、典礼規程に準拠するノベナです。それは教皇法令によって制定され1897年5月9日、教皇レオ13世の教皇の回勅「ディヴィヌム・イルド・ムヌス(Divinum illud munus 神のこの賜物)」に挿入されています。聖霊降臨の祝日に当たり、教皇レオ13世は、この特別な祈りをカトリック信者に勧めながら、次のように書いています。「私たちは次のことを布告し、命じます。カトリック全教会を通じて、今年とそれに続く毎年、すべての小教区で、そしてまた、もし地方の典礼書が適応するなら、他の教会や小聖堂 においても、聖霊降臨の祝日の前にノベナが執り行われるべきです。」


  20世紀における聖霊の力強い注ぎは、教会に導入された聖霊への崇敬の刷新から生まれたものです。近年、再びヨーロッパの多くの国々で、いくつもの全国奉仕委員会が聖霊に対する九日間の祈り(ペンテコステ・ノベナ)を促進し始めました。キム・キャサリン・マリー・コリンズ女史によって促進された、礼拝と執り成しの祈りの中での、神の民を高間へ復帰させる助けとなる第一歩「燃える柴」の祈り、聖霊降臨のためのノベナは、世界のいろいろな所で大変人気が出て来ています。第40回カトリック・カリスマ刷新(CCR)記念の準備として、ブラジルの全国奉仕委員会は、聖霊へのノベナを含む「聖霊降臨を祝って」と呼ばれる聖霊降臨(ペンテコステ)の霊性の復活への計画を起こしています。私は、新しい聖霊降臨への祈りと期待の内に、聖霊が高間へ新たに戻るよう、全教会に呼びかけておられるという大きな責任を感じています! 

  教会は聖霊の花嫁です。フランシス・マーティン神父は書いています。「教会は花嫁であり、その配偶者は聖霊の力によって生き、聖霊から命を受けることによって生きていることを、世界に示しています。今の時代には、教会がむしろ未亡人、ただ一人で、人間的組織によって保たれているだけの力のないもののように見える危険があります。」 花嫁は当然ながら花婿を期待して待つ権利があります。教皇パウロ6世がスーネンス枢機卿の著書、「新しいペンテコステ」について公式の場で語ったとき、教皇は用意していた原稿を離れて、次のような言葉をつけ加えました。「もし主が、教会を実り多い、美しい、すばらしいものにし、冒涜的、世俗的な世界の注意と驚きをかち取ることができるように、賜物をさらに豊かに再び注いで下さるなら、何とすばらしいことでしょう。」


ICCRS計画、高間(チェナクルム)運動
  この目的を視野に入れて、国際カトリック・カリスマ刷新奉仕会(ICCRS)は高間計画を、世界の聖霊降臨祭、聖霊降臨の新しい文化のために、最優先計画として、発進させました。それは全国奉仕委員会への訴えです。すなわち、世界中の全国奉仕委員会は、神の民を「エルサレムの高間」に心を一つにして、耐えざる祈りに戻るように招く聖霊降臨の準備として、聖霊降臨の主日の10日前を守ることです(使徒1・12~14)。この訴えに答えて、インドの全国奉仕委員会は次の二部からなる「聖霊降臨を祝う」ための計画を作成しました。

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 インドの方法に学んで 日本の聖霊による刷新祈りのグループは、この同じテキストを使い同じ九日間、心を合わせて祈ります。売布はた
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