マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 Merry Christmas !

Merry Christmas and A Happy new Year
クリスマス 幼子の誕生は、新しい希望の誕生の時でもあります。大きな変革を迎えた今年、さまざまな思いを胸に新しい希望の年を迎えようとしています。また、百日の共同の祈りを始めます。皆さまのもとに手紙を書きました。住所をお知らせくださった方には来週29日ごろ直接お送りします。

降誕祭のミサ
カトリック日生中央教会にて、7時半からのミサには昨年よりも多く近隣の参加者が多かったように思われます。

降誕祭のミサ説教(実録)
小倉摂子さんによるテープの書き起こしです。(※クリック)
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 12月23日 第八回百日連続共同祈願成就ミサ

新型インフルエンザの猛威にもかかわらず、聖霊の息吹に守られて、支障なく倦むことなく毎日の共同祈願を積み重ねて100日間のミサ完成しました。熱心な方々と共に100日目の感謝のミサをささげました。次回は、2010年元旦から4月10日(土)までです。 アーメン・アレルヤ
百日2009

 百日連続共同祈願 9月15日 開始

悲しみの聖母の祝日は、百日連続共同祈願を始めるのにふさわしい祝日です。十字架の称賛の祝日の翌日に定められた祝日、十字架のイエスの傍らに母マリアが立つという姿をたえず思い起こすことによって、御子の苦しみを母の痛みと悲しみと嘆きをもって受け入れた聖母マリアの特別な位置と存在に思いを巡らし黙想しましょう。

 百日連続共同祈願には、たくさんの祈りの意向が届けられています。それらは簡単には解決しないものばかりです。

 あらゆる病院や宗教やカウンセリングに通ってもただたくさんのお金を要求され、登校拒否の子供が却って苦しみと悩みと病がひどくなったというお母さんからの電話がありました。「修復することのできない過去の闇を背負う家族や配偶者や子供たちの苦しみを、一緒に担ってくださり同伴してくださる方は聖母マリア様しかありません。」そう答えると、聖母にも祈りました。何の救いもありませんとの返事。
 
 イエス様も同じように問い詰められたことがありました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。(マルコ9章18節)」そして、イエス様は、「この世はなんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。(19節)」それから、父親に「このようになったのはいつごろからか」とお聞きになりました。

 一つの問題には、さまざまな要因が絡んでいることがあり、そのすべての原因を探ることは不可能に近い。そして、その救いの鍵は当人のなかにあり、その問題に向き合わなければならない。だがそれはカウンセリングの可能な人の場合に限られる。統合失調症や発達障害、はじめから傷をもって生まれてきて、そして世の中の都合に翻弄されて誰からもまっとうに相手にしてもらえない。

イエス様は、こう言われました。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」同じように、デカポリス地方でのいやしも、「耳が聞こえず、舌の回らない人」に両耳に手を入れ、舌につばをつけ、そして、深く息をつき、「エファタ(開け)」と言われました。一切の自分以外の外の世界を信じることができず閉ざされた中にその人は生きているのです。そして、自分をも信じることができない。このように閉ざされて口もきけず、耳も聞こえない状態になるまでに、どれほど多くの複雑な事情に翻弄されたことでしょう。彼の側に立つならば、その怒りがこみ上げてくるでしょう。この世界の身勝手さが・・・イエスもこの子の側に身を置いて嘆息されたのです。「息をつくのは」のは祈りの動作ですが・・・この子のために祈る人たちがなければ癒されない。わたしたちには直接なにもしたあげられないけれども、祈りのうちに、この子の生育の過程で受けた傷を、私たちが与えたものとして一つずつ数え上げながらこの子にゆるしを願い、あなたを愛すると呼びかける。これがいやしの始まりになることでしょう。

 人生の道では、イエスは道であり、聖霊は案内者です。そして同伴者は、聖母マリアです。聖母マリアは、一人ではなく、教会の母といわれるように教会の姿を現します。聖母が最後まで十字架の傍らにおられたように、教会もまた現代の十字架の苦しみに遭遇する人々、神を信じきることのできない人々の傍らで、最後まで父を信じで十字架の苦しみを受けた御子の母として、同伴して慰めと力づけをとりなしてくださいます。

 「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」
イエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。わたしたちの百日連続共同祈願は、イエスの祈り、御父へのささげの祈りに与るように毎日願います。確かに、わたしたちは不信仰で、祈りの力を持っていません。でもあわてずに忍耐して祈りましょう。わたしたちは、迷路にはいったり、迷子になった時、あわてるとますますパニックになって分からなくなることがあります。かならずなんとか出口はある。それを知っているので、今分からなくても何とかなると思っています。だから、神は追い切れないほどの荷を負わすことはないとわかるので、救いの道は必ずあると信じることができ、解決のヒントを思いつくことにつながります。詩篇には、救いの業、神の素晴らしさを一つずつ数え上げろということばがあります。一つずつ数えげるというところに力があります。賛美の心へと変えられることでしょう。


 母親の訴えに私たちはどう答えましょう。母の訴えは、お弟子さんたちも、できませんでした。病院や警察、祈祷師、占い師、心理療法士、精神科医も何もできませんでした。息子はいつ自殺するのかと恐ろしい毎日ですと・・・。わたしは、百日間そのことを覚えて、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。ただただ、主イエスの祈りに信頼してゆだねましょう。祈りは愛ですと答えました。
 
 皆さまも お祈りください。皆さまも、また母マリア、主イエスの十字架に傍らに立つ悲しみの聖母として、救いの協力のためにたくさんの涙と祈りをおささげしてください。聖モニカのように、聖マグダラのマリアのように・・・愛の勝利を歌う聖人たちと共にあなたもイエスの傍らいてください。

 第八回百日連続共同祈願へのお招き

第八回百日連続共同祈願への招き

+主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに籠

キリストにおける兄弟姉妹の皆様へ
まだ暑さの厳しい毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか? お祈りの内に皆様のことを思い起こしております。 
さて、第七回目の百日共同祈願は、8月1日に最終日を迎え、通算700日目となりました。皆様の祈りの支えに感謝申し上げます。この日、わたしは、第14回聖霊による刷新関西大会の参加者とともに100日目の感謝の祈りを捧げました。
この度100日間が終わってみると、祈りの輪に加わった人が新規に50名ほど増えていました。共同祈願の参加者数は740名ですが、発送名簿は900名を超え、ハガキでの意向のカードの枚数は、850枚を超えました。数名の方が、ご自分の意向の他にたくさんの方々のための意向を一枚のはがきに一つの意向を託して祈りの輪に参加されたからです。典礼の中では、個人の意向を人前で声を出して祈ることをしませんが、百日共同祈願の形で、人に知られたくない神への切なる叫びと願いとを、ミサの奉納時に、皆様から送っていただいた850枚に及ぶカードを入れた籠をささげることにより、沈黙のうちに意向を祈りました。多くの方々が、同じ時間に心を合わせて祈っておられることを思い起こしながらミサをささげ、皆様の願いをとりなすことができたと思います。そして、この100日間も無事一日も休むことなくミサをささげることができました。

100日間の祈りといえば、わたしの幼いころ、故郷の京都市内の神社仏閣で御百度詣の祈願をする人の姿をたびたび見てきました。平安時代から発展した神社参りの風習は、無病息災、家内安全、商売繁盛、先祖供養、回向、厄払いなど、病気平癒や念願成就の現世ご利益を願う日本人の宗教心に根ざしています。しかし、百日共同祈願は、御百度とは似ても似つかぬ祈りで、これは、御父のみ旨を果たすために十字架の死をうけいれられたキリストの奉献に心を合わせる祈りです。「その日には、あなたがたが、わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23-24)、そして、父に願うならば、もっとも良いもの、すなわち「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)ことが約束されています。わたしたちの祈りは、現世御利益よりももっと深い根源的な救いの喜びと神との永遠の命の交わりに至る道を願っております。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)わたしたちの祈りは、永遠の命へと互いを結び合わせる大切な絆だと思います。
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 100日共同祈願の完遂!

8月1日 第14回聖霊による刷新関西大会の初日、100日目のミサを参列者350人とともにミサをささげました。写真はありませんが、どなたか写真を撮っておられるはずなので、入手しだい、この欄にさっそく掲載する予定です。

 これは700日目の成就です。参加者の一人からご指摘があり、わたしが第6回600日目と思いこんでいたのですが、2007年の灰の水曜日から始まっているので、2007年が2回、2008年が3回、2009年が2回となるとこれで700日完遂なのです。今年はもう一回、9月14日から始める予定です。この日は、十字架の賞賛の祝日です。皆様へ案内する日は、8月29日と決めました。洗礼者ヨハネの殉教の記念日です。

参加者からの声を掲載します。
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 聖母月 平和の願い

 初めて俳句を作ってみました。 池田教会にも俳句の会がありますが、お誘いを受けても この世界に入ることはできません。なにもない着想が湧かないなかで、聖母月の生け花を見て、母マリアの祈りを詠んでみました。まあ 俳句というのか ただ形が5・7・5に並べてみただけですが、これも祈りのことばになればと思います。
 
  一輪の 平和の願い 母の夢

 ご覧ください。マリア2

 生存権が特に問題になっています。日々の平和が侵されるとき、
 健康で文化的な生活は、もはや夢のまた夢です。戦うべきは
 いのちへの尊厳を取り戻す人間性回復の戦いです。

 第6回 連続百日間共同祈願ミサへの招き

アレルヤ 主のご復活 おめでとうございます。
  主のいつくしみをたたえよう! 主が来られるまで・・・マラナタ!


 キリストにおける兄弟姉妹の皆様へ

 今年の最初の100日共同祈願は、1月1日から始めましたので、4月10日聖金曜日が100日目です。この日奇しくも、天皇皇后ご夫妻はご結婚50周年の金祝でした。美智子皇后には麦の穂のブローチが襟にありました・・・ 一粒の麦が死なないならば一粒のまま残り、死ねば多くの実を結ぶとのご自身の労苦の実りを表現されたことでしょう。 苦しみのなかに喜びが隠れている信仰の隠し味でした。
そして私たちの100日のミサとしては、前晩の聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサが100回目のミサでした。昨年は、ローマの本部ヨハネ・パウロ大聖堂の脇祭壇にある十字架の聖パウロの遺骨の前で叙階25周年の記念日を祝うことができたのでした。そして、今年は、今回で100日間を5回重ねての500日目は、なんと皆様と共に御受難の記念の聖金曜日に十字架の礼拝をして、主の受難と死を思い主の死を記念するみことばの典礼といけにえの死、神の業である主の十字架の奉献に参加することができ、大きな恵みになりました。    
             
 前回の百日共同祈願には、730名の方が参加されていました。そしてこの度、今年の第二回目を4月24日第二復活主日後の金曜日から8月1日、聖霊による刷新関西大会の初日まで、ご一緒に祈るように呼びかけます。 開始日をこの日に選んだのは、主の十字架のあがないの死を通して聖霊の恵みが注がれたこと、また主の復活のからだには傷があったことを覚えておかなければならないと考えるからです。御脇腹からは、血と水が流れ出て、教会の源泉、二つの秘跡、聖体と洗礼により私たちは新しい命の絆に結ばれたからです。しかも、教会の典礼では、聖トマスにご自身の傷を見せて信仰の目を開いてくださった主イエスの愛、主のいつくしみを記念する復活の八日目、教皇ヨハネ・パウロ二世により「神のいつくしみの主日」と付記された、その週の金曜日、御受難修道会の固有の典礼では、5つの傷を記念する祝日、「主イエズス・キリストの光栄ある御傷」を祝います。 
この日の典礼で  
「主イエズス・キリスト、あなたは尊い御傷から流れた御血で世をあがない、栄光ある復活のお姿において御傷を示し使徒たちの信仰を強めて下さいました。あなたの愛のしるしであるこの聖なる傷を あがめ、あなたの受難により強く結ばれてあなたとともに新しいいのちによみがえる恵みを得ることができますように。 アーメン。 」と祈ります。

  わたしたちは主の御傷により、いやしの恵みを受けます。その結果でしょうか? わたしたちが主にゆだねた意向は何らかの効果があったと報告されています。あるシスターは永遠の喜びへと旅立ち、ある方は高齢で手術して奇跡的に帰還、ある方はホスピス病棟で死の病から解放され、ある方からは癌が消滅したとの知らせをうけました。亡くなっていった方も、落ち着いて家族との別れを告げることができたし、その葬儀での安らかな様子に、その後、家族の方々には、身内の方に信仰の恵みが分かち与えられたのです。祈りは無駄なようで一番大きな良い結果を生むことがわかります。なぜなら復活された主イエスの傷に結ばれるからです。  
   
 ところで、わたしたちがしている共同祈願には何の意味があるのか、どう考えたらいいのでしょうか? ベネディクト16世教皇は、枢機卿の時代、「典礼の精神」(1999年、濱田了訳、サンパウロ)を著され、典礼の積極的参加に関する考えを表明されていますが、典礼における積極的参加は、「奉献文」にあり、本来の典礼行為はオラツィオ(祈り)であり、それは、主のみが行える一人称の神の業への参加である。 従って、叙階を受けた者も、信徒も同じ主の祈りに参加することには変わらないと指摘しておられます。そのために、その祈りが現実のものとなるためには、「キリストの本当の体になるように願わなければならない。そしてそれこそ願いこまなければならない」とベネディクト16世教皇は述べておられるのです。百日の連続共同祈願によって、典礼の積極的参加をこのような形で、みなさまの日常の犠牲をミサの奉献においてささげることができるのではないかと考えている次第です。                          

 すべては 神の業に参加していく 主のなさることだ・・・
 家つくりの捨てた石が、隅の親石となった。
 これは神のわざ、人の目には不思議に見える
  
 これからも 私は60歳になるまであと500日を皆様と共に共同祈願ミサにささげたいと思います。これが私にできる皆様のための一番堅実で確実な行為なのです。どうぞ またはがきでお申し込みください。まったく費用は要りません。あなたさまの一緒に祈ってほしい願いを書き込み、無心に毎日東に向かって(心の十字架のこと)あなたのお心をあわせるだけで、一日がキリストの奉献に結ばれます。

 日々復活秘義を祝い、お一人おひとりの聖霊降臨をお祈り申し上げます。
 感謝のうちに・・・ 

聖霊による刷新関西委員会委員長
畠 基幸 神父 

返信はがきのフォーム:
〒563-0041
池田市満寿美町9-26
カトリック池田教会
畠 基幸 行き
 
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 共同祈願 500日間 完遂

4月10日 聖金曜日 
 今年の最初の100日共同祈願は、1月1日から始めましたので、4月10日が100日目です。100日のミサとしては、昨日の聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサが100回目のミサでした。昨年は、ローマの本部ヨハネ・パウロ大聖堂のわき祭壇にある十字架の聖パウロの遺骨の前で叙階25周年の記念日を祝うことができたのでした。そして、今年は、今回で100日間を5回重ねての500日目も皆様と共に御受難の記念の聖金曜日に共同祈願を成し遂げることができたことは大きな感謝と恵みになりました。

 聖木曜日の毎日の黙想のブログにベネディクト16世教皇の「典礼の精神」(濱田了訳、サンパウロ)に書かれていた典礼の積極的参加に関する考えを引用したのですが、典礼における積極的参加は、奉献文にあり、本来の典礼行為はオラツィオ(祈り)にあり、主のみが行える一人称の神の業は、叙階を受けた者も、信徒も同じ主の祈りに参加することには変わらないと指摘しているところがありますが、「キリストの本当の体になるように願わなければならない。そしてそれこそ願いこまなければならない」とベネディクト16世教皇が述べておられることをこのような形で、みなさまの日常の犠牲をミサの奉献においてささげることができたことは望外の喜びです。 

 その結果でしょうか? 何らかの効果があったと報告されています。あるシスターは永遠の喜びへと旅立ち、ある方は高齢で手術して奇跡的に帰還、ある方はホスピス病棟で死の病から解放され、ある方からは癌が消滅したとの知らせをうけました。亡くなっていった方も、落ち着いて家族との別れを告げることができたし、その葬儀での安らかな様子に、その後の家族の方や身内の方に信仰の恵みが分かち与えられたのです。祈りは無駄なようで一番大きな良い結果を生むことがわかります。なぜなら復活された主イエスの体に結ばれるからです。

 とりわけわたしには25年の節目の年に、お世話になった方々のことを思い起こし祈り続けました。わたしは、思いやりや気遣いが大変下手ですし、まったくそういう他者を愛する訓練にかけていたと思います。実際、手紙一つ返事ができていない。企業に入っていたら、たいへん苦労したに違いありません。気配りがまずできないからです。実際、この気配りと隣人愛の行い、いわばキリストの無制約の愛は似通っているのです。ですから、司祭になったことは、本来気配りの達人でなければならないのですが、そうではないのが不幸でした。ただ言葉だけ仕えられるものではなく仕えるものになりなさいと偉そうなことを言っていただけでした。その意味で、わたしを支えてくださった方々に感謝を述べたいと長年の忘れていた人々を思い起こそうとした一年でしたが、あっというまに過ぎてしまった一年でした。肝心の足もとの司牧も中途半端なもので時間だけが過ぎていった一年でした。昨年末に年賀状も書けないで、今度の復活祭に送ろうと決心したのでしたが、この復活祭が来てしまいました。あああああとため息がでて、何を決心したのか? あなたに何をしたのか? とがめのことばだけがわたしにのしかかります。

 すべては 神の業に参加していく 主のなさることだ・・・
 わたしは所詮 上に書いたように自分では何もできない輩です。

 これからも 周りは見ないで 60歳まであと500日を共同祈願ミサにささげましょう。これが私にとっては皆様のための一番堅実で確実な行為なのです。どうぞ またはがきでお申し込みください。まったく費用は要りません。あなたさまの願いを書き込み、無心に毎日のミサにあなたのお心をあわせるだけで、一日がキリストの奉献に結ばれます。人の救いを目撃できることはなんという幸せでしょう。次回は4月26日(日)から今年の二回目の百日共同祈願を始めたいと準備しています。 (開始日を4月23日に訂正します。4月23日の金曜日 御受難会の移動記念日 「栄光の傷の記念日」だからです。復活されたイエスの脇腹には受難の傷跡があるというのは、御子がわたしたちと同じ人間となられたことの象徴です。そしてわたしたちの復活をも先取りしているのです。アレルヤ)

 よい復活祭をお迎えください。
 感謝のうちに・・・ 叙階26周年を迎えた 畠神父より
 
昨年のジャカルタでのISAOアジア大会、インドネシア駐在教皇大使司式による共同祈願ミサ・・・写真はミサ後教皇大使を囲んでの記念撮影が背景です。

ジャカルタ01

天皇ご夫妻はご結婚50周年の金祝でした。美智子皇后には麦の穂のブローチが襟にありましたね・・・ 一粒の麦が死なないならば一粒のまま残り、死ねば多くの実を結ぶと ・・・信仰の隠し味ですね。
エアsテr2009シカゴ在住のアルゼンチン人の御受難会司祭ギブソン神父のメールに添付してありました。

 シスター足立からの便り

主の平安
 裏庭で鶯がしきりに春ですよと報せていますが、しんしんと冷えてちぢみこみそうです。
 いよいよ灰の水曜日、心も体も引き締まる思いがします。新教のお友達が「カトリックは典礼に変化があっていいですね」と話されたことがありますが、本当にそう思います。イエスさまにもっと近づけるように祈り努めたいです。
皆様にはいかがお過ごしでしょうか?
 私はこの間誕生日を迎え73歳になりました。生をいただいてこれまでの恵みを思いながら、ネパールのサリタちゃん(12歳)を想いました。生まれつき眼球が不完全で(胎中で栄養不足だったため)少しは見えますが、知能も低く身体も虚弱で自分のことを自分ですることも出来ません。父親は病死、母親はサリタちゃんがいると働けない、二人で食べていかれない状態でした。それで小さい時から遠くの村からお母さんと私たちの保育園に通い育ち、お母さんは職員として洗たくや掃除をして働きわずかなお金で生活しています。そのお母さんも今年定年退職の年ですが、仕事がなくなるとどうしようと泣いています。
 今は二人で朝早く保育園に来て水汲みや掃除の仕事をしてから、お母さんは8時30分にサリタちゃんを大木神父さまがしていらっしゃる障害児施設に連れて行きます。(片道30分)その後また保育園に戻り、お母さんは一生懸命働き、夕方サリタちゃんを迎えに行って二人で村に帰る生活をしています。
 私もネパールにいる間、週に半日ですが園の畑で働くお母さんの手伝いをしました。とても楽しい半日でしたが、30度を超す暑さ汗で眼鏡がしておられなかったり、アリの大群にせめられたり、蚊はフマキラをまいて追い払ってもすぐやって来ます。蚊取り線香をたいても外なので無駄、最初は必死で工夫しました。それも結局私一人のためで、お母さんはそんなことかまっていられない。蚊取り線香を買うお金があれば卵ひとつでも・・・と思われたでしょう。そんな自己中心で相手のことを思いやれない自分に気がついて恥ずかしかったです。
 例えばカボチャは実のなる前に茎や葉、実の付かない花を取って夕食にします。豆を植えて一夜の洪水で全部流され、もう次の種を買うお金はありません。生き残っていた小さな芽を見つけて、私の手を取って連れて来てその芽を見せて喜び、覆いをして大切に育てます。野菜一つひとつがこんなにいとおしく思ったことはありません。曲がったにがうりやきゅうり、芋のつる、へちま・・・。
 良くできる子どもには奨学資金を支給しています。(50人位)でもサリタちゃんはお母さんが病気になったり、亡くなればどうなるのでしょう。一人で生活が出来るように今訓練中ですが、お金はありません。ネパール政府は無関心です。
 私は誕生日につくづく思いました。今まで生かされて、あたりまえではなかった、もしかすると私がネパールでサリタちゃんのような境遇に生まれることもあったと・・・。何とかしてあげたい、私なりに犠牲したり、祈ったりしてはいますが一人だけでは特別なことが出来ません。
 それでお願いがあります。大変あつかましいのですが、月に500円づつ(買い物のおつりの小銭集めでも)サリタちゃんの将来のための基金にしていただけませんでしょうか?出来る時に出来る時まででよいのです。
ずっと前からこの家庭のことは心配でしたが、お母さんがまだ働けると思っていました。あちらの貧しい人はとても年老いて見えますし短命です。私が「72歳よ」と言ったらびっくりしていました。お母さんの方が年は少なくても歯はないし、水も遠くからもらってくるので腰も腕も使いすぎ、毎日毎日、歩いて歩いて・・・それは疲れきっています。この度、定年と聞いて今後のことを切実に感じました。
もしも、皆さんのご協力が頂けるなら、他にも叫んでいる人はたくさんいらっしゃいます。だれに必要か現地の方と相談して煮詰めてみます。もしもシスターや神父さまが引き揚げることがあったとしても、責任を持って預かってくださる方を頼みます。どうぞ宜しくお願い致します。
主の十字架の道をともに祈りつつ・・・

福音の光修道会  足立志津子

(この件に関するお尋ね等がございましたら、日生中央教会の駒田までご連絡をいただきますようお願い申し上げます。)
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 キリスト教一致祈祷週間

2009年1月18日~25日
 
それらはあなたの手の中で一つになる(エゼキエル37章17節)


 今年の聖書箇所:エゼキエル書 37章15~28節

 日本キリスト教協議会
 カトリック中央協議会

 この期間は伝統的なものです。1908年ポール・ワトソン(1863-1940)が提案したもので、当時の聖ペトロの祝日(現在の2月22日ペトロの使徒座の祝日)から聖パウロの祝日(聖パウロの回心)を結ぶ期間です。聖ペトロと聖パウロを結ぶ象徴的な期間を定めました。南半球では、ペンテコステ(聖霊降臨の祝日)前後に変更しています。従って、日程は弾力的に考えてもいいようです。パンフレットが中央協議会で無料配布しています。池田教会でも入口におきました。グループでも個人でも使っていいようになっています。
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