マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 主の愛の記念(聖金曜日の礼拝) 主のイメージを使って


Youtube から転写:Paolo Tiseo 氏掲載
Sacred Music composed for Good Friday 2011, recorded live in one take at Guardian Angels Church in Clawson, Michigan, with various Passionist images 
2011年聖金曜日のために作曲された聖歌、主のご受難の絵や御受難会の聖人たちのイメージとともに、ミシガン州グローソン市守護の天使教会で録音録画された一場面です。ご受難修道会の創立者十字架の聖パウロの肖像やジェンマの写真など貴重な絵や写真が掲載され、御受難会の支援者には心温まるスライドショーとして見ることができます。

 ヘンリー・ニューマンの列福(9月19日)にちなんで(You-Tube配信)



 英国の宗教番組のWebサイト(YouTube配信)からニューマン枢機卿(John Henry Newman )についての番組を掲載しました。1845年にカトリックに回心したニューマンは、英国教会で、すでに有名な神学者であり、教会の牧師を務め説教家であり、オックスフォード大学の教授でした。カトリック教会に改宗し、ローマで司祭となりフィリポネリが創立したオラトリオ会入って、英国でバーミンガムで最初のオラトリオ会を設立しました。アイルランドの教会からの要請でダブリンに大学を創立したこともあり、英国の教会に大きな霊的影響を与えたことなど、その傑出した信仰からレオ13世教皇により司祭ニューマンが枢機卿に選ばれたのです。大学は、「科学の中の科学 -哲学」を教えるべきだという古典的な教養課程の基本を教えました。その業績は、インターネット上でも簡単に知ることができます。

 今年の秋(9月19日予定)教皇ベネディクト16世が英国に訪問して福者に列福される運びとなりました。番組では、ニューマン枢機卿を英国聖公会からカトリック教会への転向を受け入れた福者ドミニック・ベルバリをインタービューする形式で、その時の時代背景、ドミニックの召命と神の摂理てきな導き、ご受難会の創立者十字架の聖パウロの英国の回心のビジョンとその使命、祈りの生活の恵み、そしてヘンリー・ニューマンとの出会いと回心への道などを福者ドミニック役のケビン・オブライエンの言葉を通して語らせています。大変わかりやすく聞きやすい英語と内容なので、ぜひご覧ください。そのほかにもヘンリーニューマンの物語や修道会関連のインタビューも数多くあり、さすが英国のご受難会の活動の一端がうかがえます。ヘンリー・ニューマンのオックスホード運動とカトリック教会への回心は、多くの知識人・大学人をカトリック教会へ導き、そしてダイアナ妃の大伯父さんにあたる有名なイグナチオ・スペンサー神父もニューマンの親しい友人で「英国の回心のための祈りの十字軍」を指導していました。
 ニューマンは、当時4世紀の教会の教父たちの思想と霊性を研究していて、自分が属する教会が4世紀の異端の教えに近いことに動揺していたこととイタリアに友人と旅行した際に、病気で苦しんでいたときに英国の回心を神が望んでいることを深く感じ、英国に帰国してすぐにオックスフォード運動を始めたのでした。そのため、十字架の聖パウロがどうして英国の回心を祈ったのか、またドミニックがどうして英国の回心のためにビジョンを見たのか、それらの摂理的な神の導きとともに御受難会の素朴な司祭の姿に見て、ついにカトリックへと回心することになりました。
 
 この番組の中の福者の証言では、神の摂理であり、同じ祭壇の場所でドミニックも、そうとは知らずにそのビジョンを見たとのことです。当時の英国のことを考えると、大英帝国の時代で、帝国の中心を回心させることにより世界全体を変えることができるようなことでしょうか?福者ドミニックには特定の名前は教えられなかったが、確かに教会全体に影響を与える人物を回心させることが、そのビジョンの中に含まれていたのでしたが、そのビジョンから実際に現実となるのは、27年後で、しかもそのビジョンを見たときは、8人兄弟で、3歳のときに父が死に、8歳のときに母が亡くなり、叔父に育てられた無学な農民の子供で、学校には一度も通ったことがなかったためブラザー候補として修練院に受け入れられたばかりのときでした。ブラザー候補として入った者は、決して司祭候補の修道者として誓願をうけることができなかった時代、そのようなことを望むことすら家に送り帰らせられたあ時代、ドミニックは司祭として英国で改宗者を受け入れるビジョンを見たのでした。彼は一度聞いたラテン語の聖句を一度で覚え、簡単にイタリア語に直すことができたため、長上からそのすぐれた記憶力と知的能力を見出され、総会を開いてブラザー志願から司祭志願へと変更することに、彼の望みではなく会の望みとして変更されたのでした。もっとも無学な者が、知恵あるものの知恵をむなしくするという神の言葉がここでも生きているような気がします。

 五月十六日 聖ジェンマ・ガルガーニ (記念日)

五月十六日 聖ジェンマ・ガルガーニ
(記念)

聖ジェンマ・ガルガーニは、1878年イタリア、ルッカ市近郊に生まれた。幼少の頃より主の御受難の黙想に献身することにより、清い生涯を送り、天国への強い憧れを抱くこととなった。両親を失ってからは、熱心な信徒の家に温かく迎え入れられた。純潔の誓いを神にささげ、喜んで完徳の道をひた走ることに専心し、ご聖体と十字架のイエスに非常に篤い信仰を持っていた。超自然的なカリスマに特別に恵まれ、罪人の回心のために神に自らを奉献。御受難修道女会へ入会を切望したが、様々な困難により実現されなかった。それにもかかわらず、世俗における類まれな聖性の模範として知られることとなった。1903年4月10日、聖土曜日、ルッカにて帰天。



第二朗読 ① 
教皇ピオ十二世の教令書簡
「サンクティテユディニス・クルメン」より

《聖女は肉体において、イエス・キリストの生き写しであった。》
卓越した神のはしためジェンマは霊的生活に誠に献身した。聖女は、その養母として有名なチェチリア・ジャンニーニ夫人と、イエスや霊的な事柄について長時間にわたり何度も論じ合った。聖女は社会生活の空虚さを避け、キリストの受難を熱心に黙想するのを常とした。昼も夜も、神との親しい交わりに身を入れていたのである。信頼のおける証言によれば、その生涯の終わりの数年間、神のはしためジェンマはたびたび恍惚の状態になり、他の多くの聖人伝にも記されているような、長時間にわたる恍惚や超自然的な賜物に恵まれた。これら神からの恵みのうち、あるひとつの特別な恵みが存在した。それは聖女の、純潔な身体を通して、生けるキリストが姿を現し、その受難のあらゆる苦しみに彼女を参与させる神秘である。聖女は両手と両足がくぎによって貫かれ槍によって刺されるのを感じた。時には、御傷の跡である聖痕が現れたこともあった。また、主イエスご自身と聖母の出現を受けたとも報告されている。聖女は、守護の天使の存在を身近な友として体験し、しばしば会話を交わしていた。そのほかにも、ジェンマは数々の不思議な恵みの出来事を、霊的指導司祭の命によって詳しく記している。それらを見ると、この選ばれしおとめジェンマとキリストとのあいだには、魂と心の深い一致があり、聖女は使徒パウロと共に「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言えるほどであったことを、明らかに示しているようである。
この神のはしためは、しばらくのあいだ、修道共同体に入ることを望み、自分が御受難会修道女になるよう召されていると思っていた。神が自分を、より厳しい禁欲生活と、キリストの受難のより深い黙想とに呼んでおられると感じていたのである。これが主たる使命であったし、十字架の聖パウロ自身が、創立した修道会に残した聖なる霊的遺産と同類であったために、ジェンマは再度にわたりタルクイニアの観想修道院への入会を願った。しかし数々の妨げ、とりわけ病弱なことと、驚嘆すべき恵みを受けたことによる名声が立ちはだかった。そうしてついに彼女の病気が進行し、もはや入会を完全にあきらめざるを得なくなった。だがたとえ御受難会共同体の囲いの中に属することができなかったとしても、個人的に誓願を立てていたので、聖女はれっきとした会員であると見なされるべきであろう。ジョバンニ・ボルペ司教と、御受難会司祭の、聖スタニスラウスのジェルマーノ神父という、聖なる霊的指導者たちの指導のもとで、ジェンマは信徒としてキリスト教精神を立派に証しし、キリスト教的完徳の模範となった。実際に聖女は神学的および道徳的な徳をすべて、英雄的なまでに実践したのであり、われわれは、聖女の全生涯が徳の絶えまない実践のために費やされたと言えるのである。

聖霊よ、あなたはおん父とおん子からの永遠の力です。アーメン。
続きを読む>>

 悲しみの聖母の聖ガブリエル 祝日 御受難会固有

2月27日 悲しみの聖母の聖ガブリエル (修道者)

 悲しみの聖母の聖ガブリエルは、1838年ウンブリアのアッシジに生まれた。非常に若い頃スポレトの学校に通い、俗世に強く魅了されたようだ。しかし、神の恵みの召命があり御受難修道会に入会し、この世に対しては十字架に付けられて生き、神と親密に結ばれたので彼はすべての聖徳―特に謙遜と従順―の模範となった。さらに聖ガブリエルは悲しみの聖母を深く敬愛し、そのことが、いわば彼の聖性の理由のすべてであった。彼は1862年2月27日、アブルッツィのイゾラ・グラン・サッソーで亡くなった。彼の墓の側には大きな聖堂、巡礼者や黙想者のための施設が建てられた。1926年、聖ガブリエルはイタリアのカトリック青年の守護聖人となり、1959年にはアブルッツィの大守護聖人となった。


読書
賛歌
ガブリエルの涙に倣おう。
やさしい聖母が負われた傷のために、
ガブリエルと共に涙をながそう。

聖母はおん子の悲劇的な十字架の下で、
おん子の悲しみを自分の心に感じる。
この悲しみを黙想するガブリエルもまた、
愛の剣によって貫かれる。

見よ、喪に服した聖母に向かう一人の息子を。
見よ、聖母への愛が彼の中に溢れている。
ガブリエルは彼が知り得たことを
すべての人の心に分かつことを熱望している。

聖母の絶えることのない愛の
慈しみ深いしるしの素晴らしさよ。
何年にも渡って、聖母は彼に幸せを与え、
その忠実な心を新たにされた。
そして、聖母はガブリエルの涙の悲しみを
晴れやかな喜びに変えられた。

人生の嵐のさなかにおいて、
天国の安らぎを求める者は、
キリストの悲劇的な死のために、
マリアと共に喪に服すことを学ぶ。アーメン。

 11月18日 福者グリモアルド・サンタマリア 御受難会固有

福者グリモアルド・サンタマリア修道者 (記念日)

  1883年~1902年 イタリア

 集会祈願
 聖なる父よ
 あなたは福者グリモアルドの生涯によって
 信仰生活の模範を示してくださいます。
 福者を記念する私たちが、
 聖マリアへの奉献と隣人愛の実践によって
 キリストの姿を世界に示すことができますように。
 聖霊に交わりにの中で・・・

福者グリモアルドは最近福者になったので、御受難会会員でもあまり知られていない無名の福者です。聖ジェンマと同時代の人です。11月18日のこの日は、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の両聖堂の献堂記念日でもあります。
聖パウロ大聖堂聖パウロ大聖堂前の聖パウロ像にてワンショット。

 11月3日 福者ピオ・カンピデッリ修道者

福者ピオ・カンピデッリ修道者 
聖ルイジのピオ(カンピデッリ)は、1869年4月29日、リミニ(Rimini)教区、トレッビオ(Trebbio)の農家に生まれた。あるミッションの機会に御受難会を知り、1882年5月27日、御受難会の修道服を着衣した1884年4月30日、カサーレ(フォルリ)の聖マリア修練院で、修道誓願を立て、御受難会の厳しい生活に情熱的にとりかかった
彼は、聖体と聖母への信心、まことの兄弟愛、勉学に対する大きな熱意で目立っていた。聖アロイジオ・ゴンザガと悲しみの聖母の聖ガブリエルの模範にならい、7年の修道生活の中で、あらゆる徳を実践しつつ、すべての人々にとって、忠実さと、喜びにあふれた熱心さの完全な模範となった。
司祭職への準備をしている間に、重病にかかり、1889年11月2日、カサーレ(Casale)の修道院で、甘美な脱魂のうちに死去した。教会と教皇のため、そして愛する故郷、ロマーニャのためにその若い命を犠牲として捧げた。1985年11月17日、教皇ヨハネ・パウロ二世により、列福された。

(ブログに掲載中の御受難会固有の典礼暦は、発行されていませんが、現在國井神父により作業中です。ここに掲載されている資料は、米国の御受難会固有典礼ハンドブックによるもので修道院内で使用するために訳されたものです。誤訳や専門用語が確立していない点もあります。日本で認可された典礼ではありませんので参考にとどめてください。文責 畠 )
続きを読む>>

 10月19日 十字架の聖パウロ 御受難会固有 祭日

十月十九日 十字架の聖パウロ 
イエス・キリストの御受難の男女修道会創立者 祭日

 パウロ・ダネオは1694年、イタリア・ピエモンテのオヴァーダに生まれた。若い頃は父の商売を手伝った。十字架のイエスの模範に従うようにという神からの呼びかけを受け、1720年修道士となり、苦行と使徒職に自らを完全に捧げた。ローマで病者の世話に従事する一方、教皇ベネディクト十三世により叙階された。その後モンテアルジェンタリオの隠遁所に弟の司祭ジョヴァンニ・バブティスタ(尊者)と共に引きこもり、神からのインスピレーションを受け、御受難修道会を創立した。御受難修道会の第一の目的は、主の受難と死を黙想し宣べ伝えることにある。彼はまた、同じ目的の観想修道会として、女子御受難修道会を創立した。疲れを知らない十字架の説教師であり、修道会の傑出した長上、償いと観想の卓越した模範、優れた霊的指導者として十字架の聖パウロは、18世紀の偉大な神秘家と考えられている。ローマにて、1775年10月18日死去。

賛歌

十字架の聖パウロ、天から私たちを見てください。
私たちはあなたの偉業をたたえる。
天の国の冠のために励む者たちを
あなたの模範によって導いて下さい。

輝く光によって、
あなたの誕生が告げられた。
少年のあなたは
聖母の手によって、急流から救われた。

あなたの忠実な心に
愛がイエスの名前を刻みつけた。
イエスの勝利の印を付けて、
あなたは生涯を神のみにささげた。

水を求める鹿のように十字架に駆け寄り、
孤独の恩恵を飲む。
神の御旨が行なわれるために。

断食はあなたの友、
渇きと寒さはあなたに連れ添った。
真夜中のヴィジョンはあなたの霊を目覚めさせ、
天はあなたの心に休みを与えなかった。

喜びの心の戦士、
あなたを呼ばれた方に従い、
あなたはもう一人のキリストになり、
あなたの生涯はもう一つの受難となった。

全世界を統べたもう聖三位は賛美されますように。
わたしたちの保護者十字架の聖パウロを通して、
天の家の門へと導いて下さい。
アーメン。

神のことば エフェソ3章8~12節
主の福音に仕える恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。私はこの恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。

答唱 
先 わたしたちはキリストの奉仕者。
答 神の国を告げ知らせる。
先 主の御受難と十字架を宣べ伝え。
答 神の国を告げ知らせる。
先 栄光は父と子と聖霊に。
答 わたしたちはキリストの奉仕者。
  神の国を告げ知らせる。

結びの祈願
聖なる神よ、あなたは創立者十字架の聖パウロにイエスの御受難を宣べ伝えるすばらしい愛の霊をお与えになりました。聖人の模範と取りつぎに支えられて、私たちが出合うすべての人々に、救いの神秘の喜びを分かち合うことかできますように。
続きを読む>>

 10月11日 福者ダミアン神父 聖人の列に加えられる。

”Priest who comforted lepers to become saint...."Damian

 ハンセン病患者のための使徒として知られるダミアン神父は1840年ベルギーに生まれ、ハワイのモロカイ島で、不治の病と言われたハンセン病患者の宣教・司牧に尽くした。1899年49歳帰天。1995年に教皇ヨハネ・パウロ世はダミアン神父を列福した。10月11日 バチカンで他の4人の列聖に加えられる聖人と共にダミアン神父も聖人の列に加えられることになりました。(2009年4月26日発表)新聞記事添付:ダミアン記事
 
 1840年ベルギー生まれ、1864年、イエズスとマリアのみ心の宣教修道会に入会、ダミアン神父は、9年後には、モロカイ島のカラウパパ半島の居留地に赴いた。そこには、1850年代にハワイで流行したハンセン病患者8000人が隔離されていた。ダミアン神父は、その地で彼らと共に住み、自身もハンセン病に罹患し、彼らの一人となって1889年49歳の若さで亡くなった。

 この度の列聖には、神父のとりなしを願ったハワイ人の末期癌の患者トグチさんの奇跡的な治癒が証しとなり聖人とみなされました。
ZENIT記事(引用)
続きを読む>>

 10月9日 聖イノセント司祭殉教者 御受難会固有 祝日

10月9日 聖インノセント(無原罪の聖母の)司祭殉教者
無原罪の聖母のインノセント(エマヌエ レ カノウラ アルナウ)は1887年3月10日、スペインのモンドネード教区内のサンタ・ルチア・デル ヴァッレ・デ・オーロに生まれた。1905年7月27日に誓願を立て御受難会会員となった。1913年9月20日に司祭に叙階され、スペインの尊き御血管区の諸共同体で、聖なる役務に献身的に従事。いわゆる「一九三四年のアストリエ革命」の年、トゥロン(Turon)のラ・サール会(キリスト教学校修士会)の学院でミサを捧げていた時、8名のラ・サール会修士たちと共に、教会の敵対者によって投獄され、同年1934年10月9日、全員銃殺刑に処せられた。1999年11月21日、教皇ヨハネ・パウロ二世によって聖人の列に加えられた。



読書課
続きを読む>>

 10月6日 福者イシドール・デ・ロール修道士 祝日 御受難会固有

10月6日 福者イシドール・デ・ロール修道士 (祝日)

御受難修道会では聖ヨゼフのイシドールとして知られるイシドール・デロールは、1881年4月13日、東フランドル地方のジェン・ガン教区のヴラセーヌという小さな町に生まれた。家は農家で、イシドールも野原や畑での仕事を愛しながら成長した。26才のとき修道生活への神のよびかけを感じ、助修士としてエルの御受難会修練院に入った。1908年9月13日、誓願をたて、その後は謙遜に共同体に仕えた。また共同体への奉仕にくわえて、会の精神を保ちつつ、特に深い祈りと償いの生活を送った。彼の右の目は腫ようにかかり、1911年に摘出しなければならなかった。修道者たち、助修士たちの中でイシドールは、愛徳と単純さ、仕事に対する誠実さと潜心の精神ゆえに尊敬されていた。数か月間、激しい痛みに苦しんだのち、1916年10月6日、ガンと肋膜炎で亡くなった。35歳の若さであり、修道生活はわずか9年間であった。 人々は彼のことを、〝気のよいブラザー〟、〝神のみ旨のブラザー〟と呼んでいた。1984年9月30日教皇ヨハネ・パウロ二世によって列福された。

神のことば フィリピ3章7~8a節
 わたしにとって益であったものを、キリストのゆえに わたしは今、損と思うようになった。そればかりか、わたしの主キリスト・イエズスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのものを損と思っている。

答唱
 先 深く味わって悟りを得よ。
 答 神をおそれる人には乏しいことがない アレルヤ。
 先 神を仰ぎ見る人の顔は輝き、
 答 神をおそれる人には乏しいことがない アレルヤ。
 先 栄光は父と子と聖霊に。
 答 深く味わって悟りを得よ。
神をおそれる人には乏しいことがない アレルヤ。

結びの祈願
主なる神よ、あなたは福者イシドール修道士の謙遜と労働の 精神のうちに、十字架の影に隠された生涯の模範を示してくださいました。私たちの日々の働きがあなたへの賛美となり、また兄弟姉妹たちへの愛の奉仕となりますように。
わたしたちの主イエズス・キリストによって、アーメン。
続きを読む>>
1/1

このページのトップへ