マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 諸聖人の祝日

諸聖人の祝日の解説は、当日の「聖書と典礼」の7ページをご覧ください。典礼学者の南雲正晴神父(フランシスコ会)によって分かりやすく説明されています。

<和歌山県新宮市>
北摂地区から派遣されてカトリック新宮教会共同体で諸聖人の祝日のミサをささげました。教会は現在新築中で、駅近くの会館「蓬莱会館」をミサの仮聖堂として日曜日の朝を借り切って行います。(来年3月完成の予定)

蓬莱1 蓬莱2 蓬莱3

助祭父 新宮

 10月23日にローマで助祭叙階の恵みを受けた田中ひろと(博人?)助祭のお父さんがローマでの叙階式の様子を報告。助祭叙階までに16年かかったこと、イタリア語で息子さんが挨拶した様子が堂々して頼もしかったこと、また信仰の恵みを日々の両親の姿から学んだと息子が紹介し話した時に、それまで邪魔になるのではとローマに行くことをためらっていたが、親として来てよかったと感じたことなどを涙で話され、皆さんから拍手を浴びられました。新求道共同体の神学生は、高松からローマに移り、神学院長 平山司教のもと、司祭叙階まで勉学を続けることになりました。日本には派遣されないのではないかとお父さんはさびしそうに話されていました。
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 レオナルド・コサカ神父叙階金祝ミサ

2009年10月25日年間30主日のミサは、池田教会では、レオナルド・コサカ神父の叙階50周年記念ミサと祝賀会を行った。
挨拶1  会衆
50年間の司祭職の恵みを神に感謝し、多くの出会いと祈りに感謝するとともに傷つけた人々へのお詫びのことばをはじめに述べた。

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コサカ神父は、1959年5月23日叙階されて、最初の赴任地として管区長から日本派遣の命を受け、翌年1960年8月9日に来日、司祭職のほとんどを日本での司牧に、特に30年間を教誨師という奉仕職にまい進されました。記念式典では、コサカ神父の紹介として、パワーポイントによるスライドを聖堂正面の壁に映し出しました。

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コサカ神父の感謝の言葉の中で、司祭職の召命の中で、神の招きとして人生に転機をもたらしたのは、管区長から日本へ宣教師として派遣される命令を受けたことと、安田大司教から飾磨教会の主任と同時に教誨師の使徒職を命じられたことでした。困難な道でしたが、忠実に果たすことで人生の喜びとなる出会いに恵まれましたとの感想を述べられました。

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祝賀パーティは、信徒の手作りで愛情のこもったものばかりが並び、また、記念のケーキは、男性ボランティア・トリオの作品でした。
cake
記念撮影:kinen0
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 10月18日 第29主日

 あと5回主日が来れば今年の典礼上の一年の暦は終わります。早いものですね。今年もあとふた月。このところ主日の説教はスランプです。8月以降のスケジュールが混みすぎました。従って、この欄への書き込みは極端に減りました。「あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはいけない」と口ずさみながら「受けた痛手をいやす方」に願い求めます。「恵の力で救いの道を歩み続け」ることができますようにと・・・

 イザヤ 53章 10-11節
 ヘブ  4章 14-16節
 マルコ  10章 35節-45節

 第23主日 B年 9月6日 

國井1今日は、大先輩の国井神父司式のミサで、信者さんも懐かしい気持ちで盛り上がりました。ミサに関しては現在の日本の典礼の基礎を作り上げた功労者の一人です。ミサの前に「教会の祈り」第三主日朝の詩篇唱和を歌いました。國井神父から70年代後半、中央協議会の典礼委員会の國井神父が主導で出来上がったばかりの「教会の祈り」を國井神父と一対一で歌うところからわたしの修道生活が始まりました。それまで声を出して歌ったこともない私でしたので、國井神父は苦労されました。わたしができるのなら皆さんだれでもできるのです。

 日曜学校の始業式 デニス神父も子供たちに熱弁・・・
デニス01

 年間第22主日 8月30日

主よ 
憐れみをわたしの上に
わたしは昼も夜も
あなたを呼び求める。
あなたは心広く、慈しみに満ち、助けを求める人に恵みを注がれる。
(詩篇 86:3,5)

ことばの典礼:
 申命記 4章1-2節 6-8節
 使徒ヤコブの手紙 1章17-18、21b-22、27
 マルコによる福音 7章1-8節、14-15節 21-23節

 説教のポイント:
 連続的に5週間主日の福音朗読に、ヨハネの福音6章全体の継続朗読が語られ、聖体のカテケーシスが説教で十分になされた後の主日の朗読、マルコの福音は、汚れについて語る。何が私たちを汚すのか? ともすれば、これはありきたりの道徳論に聞こえるが、第一、第二朗読を重ねて読むと、ミサの聖体の秘跡をいかにふさわしく準備し受け取るかの話題になっていること気づく。

 「いつ呼び求めても、近くにおられるわれわれの神、主のような神をもつ大いなる国民がどこにあるだろうか。」とイスラエル民は、主を知る恵みを感嘆し、その主の道を歩むトーラ(律法 道のともしび)をたたえる。新約のわたしたちにとっては、みことばが人となられた方のことばと行いに従う道です。この道はイエスの霊、聖霊こそが私たちの心の律法となる道です。福音が語られるところでは、人は心を開く限りキリストの霊に満ちた恵をうけとることができる。

 信仰を実践しながら次第にローマ帝国内の繁栄の世の中と妥協して生きるユダヤ人キリスト者への訓戒のようだとは聖書学者の解説にありました。みことばを受け入れること、それは小さな人々に対する愛の配慮と世の価値観に染まらないようにという勧めです。ご聖体をいただきながら、主のことばと行いにふさわしくない態度でいきることはできないからです。
 福音書では、人を汚すのは中からということです。聖霊の実りについての聖パウロのことばを思い出せば、同じことが言われています。ガラテヤ書5章19節には霊の実と肉の業のリストがあるからです。聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はないと断言しています。肉の業は、マルコは12の悪、パウロは15の悪を挙げています。「聖霊なしにはすべては無駄」とはアルスの聖人ビアンネのことばですが、聖体(秘跡)とゆるしの秘跡と愛の業は神の国を告知する宣教の業です。一つの愛の神秘を形作ります。

 ところで、古い言い伝えと神の掟の対立は今日では、聖体に巡っての秘跡の授け方で世界中に流布した方法、手で拝領するに対して、教皇様がかなり礼拝の対象に対する尊敬が足りないことに非常に危機感を持っておられることに注目したいと思います。教皇様はいつも本質論から語られるので、完璧までに正論なのです。
教皇の著書、キリスト論「ナザレのイエス」の第5章の主の祈りの解説の中で、「あなたのみ名が聖とされるように」の中で聖体の現存をてにする私たちの手の中にまで自らを委ねられるキリストの現存の神秘に対して、わたしは充分な畏敬の念を持ってい対しただろうか?と反省を促しておられるます。
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 年間第20主日  B年

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である。

 第一朗読  箴 言   9章1-6節
 答 唱   詩 篇   145章
 第二朗読  エフェソ  5章15-20節 

 福 音   ヨハネによる福音 6章51 -58節 

 年間17主日から始まる21主日まで福音朗読はヨハネの福音6章が継続的に取り上げられてきました。この期間は、ちょうど夏の行事が重なり説教の準備に時間が取れなくなりました。申し訳ない内容ながら、その都度準備なしに話したので、内容を覚えていないのと覚えていることはどこかからの本の材料や資料で、それをかいつまんで話していたような次第でした。それですこし振り返ってみれば、わたしの説教はそういう組立になっているのですね。できるだけ福音自体に話してもらおうと思うのです。福音の内容は、毎回示唆に富み、教えられるところが多く、やはりみことばは命の糧であり、わたしたちを生かすキリストの肉と血であり、わたしたちと一体となり、キリストが私の内にいるという意識を超えて、私たちはキリストのからだの中にあるというおおきなぬくもりを感じます。
 
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 八月九日 第19主日

「わたしは天から降って来た生きたパンである。」(ヨハネ6章51節)
ことばの典礼

第一朗読   列王記 上 19:4-8
答唱詩篇   34 (典礼128 ① ② ③ )
      「主を仰ぎ見て 光を受けよう 
              主が訪れる人の顔は 輝く」 
第二朗読   エフェソ 4章30節~5章2節
      あなたがたは神に愛されている子供ですから、
        神に倣う者となり、・・・愛によって歩みなさい。

福  音   ヨハネ6章41節~51節


日生中央教会での説教 テープ実録
(当日のもので聞き取りにくいところ意味不明のところを多少加筆しています。夏休み中は ほとんど原稿をつくることができませんでした。テープによってはじめて自分の説教を読んでみることができました。小倉さんのご努力に感謝申し上げます。)
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 年間第13主日

ことばの典礼:

第一朗読 知恵 1章13節~15節 2章23節~24節
第二朗読 2コリント8章7、9、13~15節
福  音 マルコ 5章21節~43節


 この日、日生中央ではミサの前に「教会の祈り」の詩篇唱和を始めてしました。オルガンの伴奏による詩篇の朗唱は歌う人の心を賛美と平和の心で満たします。ミサのよい準備になります。また賛美の歌を心から共にささげましょう。

参考に「教会の祈りの総則」の中から
感謝の祭儀と教会の祈りの関係について収録:

 12項 主の晩餐の神秘は「キリストの教共同体の全生活の中心であり頂点である」が「教会の祈り」は、この感謝の祭儀をに含まれている賛美と感謝、救いの諸神秘の記念、懇願、天の栄光の先触れなどを一日のいろいろな時間にくり広げてゆく。
 「教会の祈り」は感謝の祭儀の効果を豊かに受けるために必要な心構え、たとえば信仰、希望、愛、熱心、犠牲の精神などを人々のうちに呼び起こし養うことによって、感謝の祭儀のすぐれた準備となる。
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 年間第12主日

ヨブ 38章 1、8-11 節
Ⅱコリント 5章 14-17節
マルコ  4章33-41節

ことばの典礼: 朗読のあらすじ

 「なぜ怖がるのか? まだ信じないのか?」
 今年もイエスの死と復活の過越しの神秘を祝う典礼季節、四旬節、聖なる三日間、そして復活節、聖霊降臨、三位一体、聖体とイエスの神秘を祝った後の年間の主日、信仰のまとめのような今日のみことばです。

 
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 聖体の祝日

キリストの聖体の主日

 第一朗読 出エジプト 24章 3-8節
 第二朗読 ヘブライ  9章 11ー15節
 福  音 マルコ   14章 12-16・22-26節

 第一朗読は契約を、第二朗読はいけにえを、そして福音は、過越の食事のなかでイエスご自身が罪のゆるしのための新しい契約のいけにえとなるパンとぶどう酒の聖体制定のことばを残されたことが記念されているのです。
 
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