マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 共同祈願への参加者からの便り

二人の高齢の姉妹から百日ミサ共同祈願に参加する申し出と、感謝と励ましの便りをいただきました。分かち合います。
 皆様も お二人のためにお祈りをお願いします。
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 ・・・私は三十年来 昨年亡くなった神父さまのごミサにあずかり、子供の養護施設や女性のための緊急避難の家でボランティアをして無我夢中になって暮らしてきましたが昨年六月突然神父様は帰天され教会は協力司牧の歩みに新たになり、毎週日曜日複数の司祭様が交代でおいでくださいます。三十年来の毎日のごミサが突然になくなりわたしも妹もとまどいましたが、霊的に毎日あずかることとして二人で今まで通り「毎日のミサ」で祈りと黙想を変わりなく続けております。あるシスターからハガキをおくっていただきさっそく目の前にある個人的なことを書きましたが、一番大切なわたしたちの課題を抜かしておりました。
 
 この紙面に一筆いたします。それは当り前のことでございますが、全人類の上に神のいつくしみを。特にアフリカ全土の内乱による難民、エイズによる幼児の死亡、イスラエル・パレスチナの戦争、アジア全土に及ぶ災害、尊い命の絶滅、中南米の同じく災害と貧困などあまりに果てしなくありますが、神へのより頼みはわたしたちの毎日の切実な祈りでございます。どうか あなた様のもとでの毎日のミサ、祈り、今年の百日の共同祈願の輪の中に、なにとぞ加えてくださいませ。・・・心をあわせて祈りを一つにいたしますのでなにとぞよろしくお願い申し上げます。
  
 新しい年の喜びと働きが 神父様と共にありますように

                 2009年 正月元旦
                 カタリナ、テレジア 姉妹

 信徒奉仕職講座 第七回講座

1月17日(土) 信徒の霊性 (祈り)

講 師 来住 英俊 神父 (御受難会管区長)
場 所 宝塚黙想の家

レジメ(プリント資料は省く)

○時間の制限があるので、「ミサの祈り」に限定して話す○

1.ミサの祈り
(1)ミサの祈りは、「御父」に向かう祈りである。
 (イエス・キリストの父である神)
・聖霊において、
・御子(キリスト)を通して、
・御父に向かって祈る(申し上げる)

(2)ローマ典礼では、声を出して祈るのは(ほとんどの場合)「司祭だけ」である。しかし、祈るのは共同体(会衆全体)である。司祭は槍の穂先である。

(3)会衆は、司祭の祈りをただ聞いて、頷いているのではない。司祭の発する声を通して、自分が祈るのである

*シャドウィングshadowingしてみると、感じがつかめる。
*司祭と会衆が対面していると、会衆は司祭の言葉を聞いているという感じになりやすいので、要注意。

(4)ミサの祈りの中でも、「集会祈願」、「叙唱」、「奉献文」に注目してほしい。祈りの文章を研究すると、教義の理解だけでなく、祈りが深くなる。

2.「奉献文」の祈りで、会衆は「キリストと共に、"自分"をささげる」。これこそ、ミサへの行動的参加の真髄である。これを抜きにしては、いかにしっかりと挙行された(司式、説教、朗読、聖歌)としても、ミサは表面的な儀式にとどまる。

「自分をささげる」とは何か?

3.自分のすべて(時間、エネルギー、財産、人脈、自分そのもの)を、神に自由に使っていただこうとすることである。

(1)自分で選択する余地の少ない環境にある入にとっては、「ささげる」とは、ふりかかってくる苦難に寛大に耐える(受け入れる)ことを意味することが多い。(プリント参照  捧げる )

(2)自分で選択する余地が大きい人にとっては、「ささげる」とは、「何が神の望まれることかを識別しようとする」、「決断する」、「決断を勇気を持って実行する」(受難が起こる)ということを含む。

4.「自分をささげる」ことは、人間の善意と努力によっても、ある程度は可能なことである。しかし、人間の力だけでは、どうしても越えられない自己中心の壁がある。

5.勇気や決断力の欠如だけでない。識別の中にも、微妙な自己中心が混じり込む。「今・ここ」では、何をすることが、自分をささげることになるのか?

秘跡と現実生活

6.主日ごとに、ミサの中で、キリストはご自身を奉献される。そのキリストの奉献に合わせることによって、自己中心が骨がらみになっている私も、思いきって自分をささげることができる。

7.キリスト者は、ミサにおいて、キリストの行動(奉献)を象徴的に模倣する。この秘跡的な行動によって、「ささげることのできる自分」を育てていく。(プリント)

8.秘跡においてキリストを象徴的に模倣する行動と、秘跡の外(現実生活)での行動が響き合う(支え合う)。

(1)ミサの中で、キリストと共に自分をささげていくことによって、現実生活の中でも「自分をささげる」ことができるようになる。

(2)現実生活の中で自分をささげようとする地道な実践があるからこそ、ミサの中で自分をささげるということに現実感がある。

ミサにおける「自をささげる」の現実的実行
(『ミサのあずかり方』8章に詳説)

9. 「奉献文」の"奉献"の言葉に集中する。(プリント③審献文)
わたしたちは…ささげます

10.「供え物の準備」で、心を整える。

11.「奉納行列」に心を合わせる。
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