マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 堅信の秘跡への招き (からしだね巻頭言)

堅信の秘跡への招き
                     池田・日生中央教会
                     共同宣教司牧チーム
                      畠 基幸


 北摂地区八教会合同堅信式が五月二四日(日)昇天祭の午後二時から池長潤大司教司式によりおこなわれることになりました。そこで教会全体でも堅信の秘跡を機会にして、秘跡の意味と信者の生活における秘跡の役割、信仰生活のなかで重要な位置を占める典礼と秘跡的生き方(霊性)の意味を考え深める機会としたいと思います。このために、評議会の賛同も得て、わたしの説教の一部は、この趣旨で話を展開したいと考えております。

 わたしたちの小教区には、堅信の秘跡を受けていない青年信者が多く見うけられます。堅信の秘跡を受ける機会が少ないため一度チャンスをのがすと次の機会というものがあまり巡ってこないことや、この秘跡そのものの大切さがあまり認識されていない点もあろうかと思います。大人の入信の場合、洗礼、堅信、聖体の三秘跡(入信の秘跡)を同じ洗礼式のなかで受けることが教会法上も明記されるようになりました。しかし、幼児に洗礼を授ける場合、親の信仰、共同体の信仰により授けるので、子供たちが物事の判断がつくようになる年齢にあわせて信仰教育を施すことが必要です。信仰は自然に自動的に成長するのではなく、子供たち自身がいただいた信仰の賜物を自分のものとするキリストとの出会いと教えが必要なのです。子供たちが、初聖体、ゆるしの秘跡、そして堅信の秘跡などの機会あるごとに段階を追って秘跡にあずかり、イエス・キリストの深い友情を結び、イエスを「主」として礼拝し、日々の生活の中で、キリスト者としての生き方を選びとり、成長していくことが望まれます。

 ところで、「堅信」の秘跡は、単に「信仰を固める」だけではない、もっと素晴らしいものだという理解を皆さまに持ってもらいたいとわたしは考えております。確かに、私たちは洗礼によってイエスの死と復活に結ばれ、聖霊によって神の愛が注がれ、イエスと同じように御父を「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊に満たされ、御子の祈りに参加するものとなりました。こうして、毎日曜日、主日のミサの祈りに心を合わせ、いのちのパンである聖体にあずかり、日々の生活の労苦と感謝をキリストの心と一致して御父にささげるものとなります。洗礼の秘跡でこれだけの恵みが与えられるのなら、「堅信の秘跡」はなにか付け足しのような印象を受けることでしょう。

 そこで、典礼学者が注目する3世紀のヒッポリトウスの「使徒伝承」の記録を見てみましょう。洗礼の秘跡には、堅信の秘跡の恵みが含まれていました。すなわち、「①洗礼式と聖餐式の場所と司式者が異なる。洗礼は司祭によって、聖餐は司教によって行われる。②洗礼堂において受洗者は洗礼式の前後に二回にわたって塗油を受ける。③教会堂において受洗者は司教によって按手と塗油としるしの刻印と平和の挨拶を受ける。按手と共に聖霊が降るようにと祈られる。」このように式としては、洗礼式と聖餐式だけで、堅信式という儀式はなかったものの、現在の堅信式に相当する油の塗油と平和の挨拶があり、司祭と司教の役割分担があり、入信を完結させる者として司教の按手が行われていたことがわかります。ここから後の時代に「堅信」の言葉が出てきたことも、また司教が聖霊を授ける式をする通常の執行者であることも理解できます。「堅信式」が別の独立したものとして確立されたのは、5世紀頃、ローマ教会で幼児洗礼が一般化された時代からです。現代の「大人の洗礼式」は古代の伝承に立ち戻ったとも言えましょう。

 しかし、現代の「大人の洗礼式」を受けた信者が、堅信の秘跡を受けた記憶がないとおっしゃることも事実で、洗礼式の強烈な印象のなかでは、それはいたしかたのないことなのかもしれない。堅信の秘跡が、幼児洗礼の一般化とともに確立してきたという理由だけでは、堅信の秘跡の固有の存在価値は疑われますが、使徒言行録によれば、洗礼による聖化の秘跡だけでない、使徒伝承との関連も見逃すことができないでしょう。つまり、堅信の秘跡は、聖霊降臨の体験の継続とそのしるしとしての使徒たちの按手と結ばれて理解されてきました。それは、主に聖書、使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事です。聖霊降臨には、教会の誕生日といわれるエルサレムの高間での出来事のほかに、サマリアでも(使徒8章14~17節)、カイサリアのローマの百人隊長、コルネリウスの家の人たちにも(使徒19章1~6節)、エフェソの教会にも(使徒19章1~6節)と聖霊が降りました。最後に年足らずのパウロにもダマスコの道の途上でイエスのことばと光に照らされて目が見えなくなりましたが、アナニアが手を置いて祈ったときパウロは目が見えるようになりました(使徒9章17~18節)。これも聖霊が降ったと考えられます。このことをパウロは、「聖霊によらなければ誰も『イエスを主』とは言えない」(1コリント12章3節、ローマ10章9~10節)と信仰宣言の内容と合わせて理解しています。

 幼児洗礼の子供たちにとって、堅信式は、新たな聖霊降臨であり、油注がれてキリスト者としての自覚に生きる恵みをいただきます。これほどの大切な信仰の核心に触れる秘跡の機会ですから十分に準備が必要なのです。つまり家庭生活こそ最初の教会体験です。目に見えない神様を信じることですから、目に見えない神に向かって祈る親の姿やことばが何よりも模範となります。十字架のしるし、朝晩の祈り、食前・食後の祈り、自然の素晴らしさ、いのちの尊さ、素晴らしい人と出会いや生き方などの感動を心から表明し神に感謝することを、また悪と罪がそのような美しい自然を破壊し人との関係や愛に亀裂を招き、苦しみをもたらす悪の神秘が介在しますが、そのような悪に打ち勝つキリストの救いの力を信じることによって、神のゆるしと和解の恵みの次元があることを教えるのはもっと大切です。教会において、人類の交わりと一致のしるし、和解のパンだねとなりキリストの使命を継続していく必要を子供たちに段階をへて教えていかなければならないのです。

 以上述べたことは、大変な課題のように感じますが、教会は、聖霊降臨の日に聖霊を注がれて誕生しました。それ以来、聖霊は、教会を指導し、導いています。一度受けた秘跡の恵みは消えることがありません。むしろ信仰生活のなかで、人とのかかわりのように長い付き合いを通して聖霊との関係が深まっていくものなのです。この「堅信式」の機会に、秘跡の意味と役割を理解して信仰生活に生かしていただきたいと思います。どうか、ミサの説教の中で語る「教え」を聞いてくださるようにお願い申し上げます。
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