聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ
Psalm 116:12
主はわたしに報いてくださった。どのように答えようか?
How shall I make a return to the Lord for all the good he has done for me?
集会祈願
いつくしみ深い父よ、あなたのひとり子は死に向かわれる夜、食事をともにして、新しいいけにえ、愛のうたげを教会におゆだねになりました。この晩さんの偉大な神秘にあずかるわたしたちが、キリストの愛をうけ、生きる喜びに満たされますように。・・・・
*新しいいけにえのことを「愛のうたげ」と教会の信仰として祈っています。「愛のうたげ」はそれ以来教会の命の源となりました。御子の奉献にあずかること・・・すごいと思います。
「participatio acuosa 積極的参加」-第二バチカン公会議以降の典礼の指導原理として「神の業 Opus Dei」にすべての者が積極的に参加するように方向づけられてきました。教皇さまの教理聖省時代に出版された本「典礼の精神」(現代カトリック思想叢書21 サンパウロ)では、どこに「積極的参加」の本質があるのかと問うて、丁寧にp185~190にかけて述べておられます。教皇の不満は、この語を外形的な意味に間違われているという点です。なぜならば、「参加」は、すべての者が参加するはずの、ある主要な行為があることを示すと言われます。共同体の成員がすべてあずかるべき中心的な「アクツィオ actio 行為 」とそもそも一体何かを理解しなければならないというのです。・・・教皇はこれは自明のことだといわれ、皆さまにはあっと驚くことだと秘密を明かされます。そのあたりを引用して皆様の黙想の材料としましょう。
{「典礼」の「アクツィオ」とは「奉献文」を意味するのだと・・・真の典礼動作、本当の典礼行為は 「オラツィオ(祈り)」でありエウカリスチアの中核を形成する。「オラツィオ」は元来「祈願」の意味ではなく、盛式で公式な発言、つまり神に向けられた発言であり、それは神ご自身から与えられ、可能となっている。しかもエウカリスチアの奉献文でありカノンであるものは、実際に発言以上のもので、「神の行為」であり、オラティオでは司祭は主における一人称、「わたし」で語るからです。「これは、わたしのからだである」「これはわたしの血である」、司祭はもはや自分自身で語るのではなく、それが他の方の声となることを知っています。人間の発言を通して遂行される、この神の業は、すべての創造物が待望している、真の「行為」なのです。・・わたしたちすべてが参加すべき典礼の本来の「行為」とは、神の業自体なのです。神ご自身が行われ、本質的な部分をすることこそ、キリスト教典礼の新しさであり特有のことなのです。}
「しかし、どのようにしてわたしたちはこの行為に参加できるのでしょうか?」と教皇は問いかけて、「神ご自身が人間となったこと、つまり神が肉体をとったことと、常に新たにキリストのからだをとおして肉体的に生きるわたしたちの方に向かってくることによって、それがまさに可能なのです。」と受肉の神秘への言及であり、わたしたちの側の協力、決断を促します。秘跡で使われる「オプス オペランティス(人効的)」なものでしょう。教皇のことばでは「キリストの本当の体となるように願わなければならないのです。それこそが重要です。そして、それこそ願いこまなければならないのです。この願い自体が一つの道であり、実存が受肉へ、そして復活へと入っていく途上にあるわたしたちの進路です。この本来的な「行為」において、祈りによってこれへの参加に向かうことにおいては、司祭と信徒の間に何らの相違もありません。」これは一人称で語る叙階の秘跡の力が、神の業、主ご自身の行うことですが、主だけが行えることに参加するのはすべての者にとって同じことです。」
そして 教皇はこのように言われるのです。
「Ⅰコリント6章17節のことばが、わたしたちすべてに当てはまると・・・『主と結ばれる者は、主と一つの霊となります』。重要なのは、最終的にキリストの「アクツィオ」とわたしたとの間の相違が取り除かれることです。そこには「ただ一つのアクツィオ」だけがあり、それはキリストのものであり、同時にわたしたちのものでもあるのです。わたしたちのものと言えるのは、わたしたちがキリストと共に「一つの体、一つの霊」となったからです。エウカリスチア典礼の卓越性はそこにこそあります。神ご自身が行い、わたしたちはこの神の業に引き入れられるのです。その他のことは、これに比して二次的なものです。」
ここからの教皇の結論は 非常に示唆に富むものです。
主はわたしに報いてくださった。どのように答えようか?
How shall I make a return to the Lord for all the good he has done for me?
集会祈願
いつくしみ深い父よ、あなたのひとり子は死に向かわれる夜、食事をともにして、新しいいけにえ、愛のうたげを教会におゆだねになりました。この晩さんの偉大な神秘にあずかるわたしたちが、キリストの愛をうけ、生きる喜びに満たされますように。・・・・
*新しいいけにえのことを「愛のうたげ」と教会の信仰として祈っています。「愛のうたげ」はそれ以来教会の命の源となりました。御子の奉献にあずかること・・・すごいと思います。
「participatio acuosa 積極的参加」-第二バチカン公会議以降の典礼の指導原理として「神の業 Opus Dei」にすべての者が積極的に参加するように方向づけられてきました。教皇さまの教理聖省時代に出版された本「典礼の精神」(現代カトリック思想叢書21 サンパウロ)では、どこに「積極的参加」の本質があるのかと問うて、丁寧にp185~190にかけて述べておられます。教皇の不満は、この語を外形的な意味に間違われているという点です。なぜならば、「参加」は、すべての者が参加するはずの、ある主要な行為があることを示すと言われます。共同体の成員がすべてあずかるべき中心的な「アクツィオ actio 行為 」とそもそも一体何かを理解しなければならないというのです。・・・教皇はこれは自明のことだといわれ、皆さまにはあっと驚くことだと秘密を明かされます。そのあたりを引用して皆様の黙想の材料としましょう。
{「典礼」の「アクツィオ」とは「奉献文」を意味するのだと・・・真の典礼動作、本当の典礼行為は 「オラツィオ(祈り)」でありエウカリスチアの中核を形成する。「オラツィオ」は元来「祈願」の意味ではなく、盛式で公式な発言、つまり神に向けられた発言であり、それは神ご自身から与えられ、可能となっている。しかもエウカリスチアの奉献文でありカノンであるものは、実際に発言以上のもので、「神の行為」であり、オラティオでは司祭は主における一人称、「わたし」で語るからです。「これは、わたしのからだである」「これはわたしの血である」、司祭はもはや自分自身で語るのではなく、それが他の方の声となることを知っています。人間の発言を通して遂行される、この神の業は、すべての創造物が待望している、真の「行為」なのです。・・わたしたちすべてが参加すべき典礼の本来の「行為」とは、神の業自体なのです。神ご自身が行われ、本質的な部分をすることこそ、キリスト教典礼の新しさであり特有のことなのです。}
「しかし、どのようにしてわたしたちはこの行為に参加できるのでしょうか?」と教皇は問いかけて、「神ご自身が人間となったこと、つまり神が肉体をとったことと、常に新たにキリストのからだをとおして肉体的に生きるわたしたちの方に向かってくることによって、それがまさに可能なのです。」と受肉の神秘への言及であり、わたしたちの側の協力、決断を促します。秘跡で使われる「オプス オペランティス(人効的)」なものでしょう。教皇のことばでは「キリストの本当の体となるように願わなければならないのです。それこそが重要です。そして、それこそ願いこまなければならないのです。この願い自体が一つの道であり、実存が受肉へ、そして復活へと入っていく途上にあるわたしたちの進路です。この本来的な「行為」において、祈りによってこれへの参加に向かうことにおいては、司祭と信徒の間に何らの相違もありません。」これは一人称で語る叙階の秘跡の力が、神の業、主ご自身の行うことですが、主だけが行えることに参加するのはすべての者にとって同じことです。」
そして 教皇はこのように言われるのです。
「Ⅰコリント6章17節のことばが、わたしたちすべてに当てはまると・・・『主と結ばれる者は、主と一つの霊となります』。重要なのは、最終的にキリストの「アクツィオ」とわたしたとの間の相違が取り除かれることです。そこには「ただ一つのアクツィオ」だけがあり、それはキリストのものであり、同時にわたしたちのものでもあるのです。わたしたちのものと言えるのは、わたしたちがキリストと共に「一つの体、一つの霊」となったからです。エウカリスチア典礼の卓越性はそこにこそあります。神ご自身が行い、わたしたちはこの神の業に引き入れられるのです。その他のことは、これに比して二次的なものです。」
ここからの教皇の結論は 非常に示唆に富むものです。