マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 堅信を受けるあなたへの手紙(2)

✞被昇天の祭日 おめでとうございます。
 
残暑の暑い毎日が続きます。みなさんはいかがお過ごしですか?
 前回の手紙に続いて、堅信の準備の手紙、第二弾です。

 9月23日の堅信式まで時間があるようですが、あっという間に来てしまいます。それで、前回みなさんにお贈りしたテキスト「聖霊とともに」を一緒に読んでみましょう。この本には、「You are not alone!」とサブタイトルがありますね・・・皆さんは一人ではないのです。そして、「大人のための堅信の手引き」とあるので、自分には難しすぎると思った人もおられることでしょう。
でも、信仰は、イエスについての知識を増やすことではなく、イエスと友のように親しくなりイエスを主として知ることなのです。読み書きができる中学生にもなれば、十分な知識を増やすことができるでしょう。しかし、イエスを友のように親しくなるためには、どうすればよいのか? それは、大人にはかなり難しいのです。それを教えてくださるのが聖霊です。聖霊が一番の私たちの導き手です。この方がどういう方なのか、何をしてくださるのか、どのようにすれば聖霊に導かれるのか? そんなことを予備知識として持ち、祈りの時に聖霊に親しむ習慣を学ぶのが堅信準備講座です。

 最初の章は、「聖霊の導きの必要性」についてです。
 「わたしたちは深い信仰をもち、イエスの歩まれた道に忠実に従いたいと望んでみても、実際には他の多くの人々と同じように生きているのです。」
どうでしょうか?皆さんは、「他の多くの人々と同じように生きているのです」という表現をどう感じましたか? 同じだと思いましたか? 皆さんは、洗礼を受けた信者で、信者の家庭にいます。日曜日にはミサに与ります。どこか他の多くの人と同じですか? 違うところがありますか?

 「人生は終わりのない戦いです」と次のパラグラフにあるように、わたしたちは、人生において「他の多くの人々同じように、成長の各段階で、より大きな夢を追うたびに、チャレンジを受けます」。「神の呼びかけに答え、一人で未知の暗闇を歩く」こともあると書かれていました。わたしたちは、このような人生のチャレンジの時に、信者であることは何かお恵があるのでしょうか?ここで人生における「信仰」の意味を考えることは人間として大きな成長の助けとなります。

「信仰」ということばは、抽象的です。具体的にみなさんに考える材料としてこの質問をしてみましょう。この世界は偶然にうまれたのですか? あなたは偶然に存在したのですか?最初の問いに対しては、多くの人はビッグバンで生まれたのだと偶然に宇宙が始まったと考えていますね。あるいは誰も考えても分からないことだから考えようともしません。でも第二の問いはどうでしょう? あなたは偶然に生まれたのですか? どうしても偶然にわたしは生まれたとはいえません。誰かが望んだからあなたは存在しているのであり、あなたが生まれる前に両親があなたの存在を望まれたのです。では、第一の質問はどうでしょうか? この世界が神の愛によって生まれたと信じるのは信仰者です。この世界が偶然に生まれ、自分の存在も偶然のいたずらだと考える人は、愛の神を否定します。第二の質問も、すべては人間の意志によって決定されると考えると、人の命は人間の判断によるということになります。生むか生まないかの決定権は人間にあるという考え方です。両親の決定以上に、いのちは神からのもので、両親にも一個の生命を奪う権利がなく、望もうと望まないとわたしが存在するのは神の愛によると考えるのは信仰者です。また、第一の質問に対して、神の創造を信じる人も、第二の質問に対しては、人間の幸せのために必要なら生命を奪うことも許されると考える人もいます。これは、「多くの人と同じように生きている」といわれても仕方がありません。信仰と生活の分離です。信仰のない人は、第一の質問に対しては、偶然でも神の創造でも大した違いはないと考えており、第二の質問に対しては、現在の生きている人の幸せを基準に考えるという立場ではないかと思います。あなたはどのように考えているでしょうか?



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