年間第22主日 8月30日
主よ
憐れみをわたしの上に
わたしは昼も夜も
あなたを呼び求める。
あなたは心広く、慈しみに満ち、助けを求める人に恵みを注がれる。
(詩篇 86:3,5)
ことばの典礼:
申命記 4章1-2節 6-8節
使徒ヤコブの手紙 1章17-18、21b-22、27
マルコによる福音 7章1-8節、14-15節 21-23節
説教のポイント:
連続的に5週間主日の福音朗読に、ヨハネの福音6章全体の継続朗読が語られ、聖体のカテケーシスが説教で十分になされた後の主日の朗読、マルコの福音は、汚れについて語る。何が私たちを汚すのか? ともすれば、これはありきたりの道徳論に聞こえるが、第一、第二朗読を重ねて読むと、ミサの聖体の秘跡をいかにふさわしく準備し受け取るかの話題になっていること気づく。
「いつ呼び求めても、近くにおられるわれわれの神、主のような神をもつ大いなる国民がどこにあるだろうか。」とイスラエル民は、主を知る恵みを感嘆し、その主の道を歩むトーラ(律法 道のともしび)をたたえる。新約のわたしたちにとっては、みことばが人となられた方のことばと行いに従う道です。この道はイエスの霊、聖霊こそが私たちの心の律法となる道です。福音が語られるところでは、人は心を開く限りキリストの霊に満ちた恵をうけとることができる。
信仰を実践しながら次第にローマ帝国内の繁栄の世の中と妥協して生きるユダヤ人キリスト者への訓戒のようだとは聖書学者の解説にありました。みことばを受け入れること、それは小さな人々に対する愛の配慮と世の価値観に染まらないようにという勧めです。ご聖体をいただきながら、主のことばと行いにふさわしくない態度でいきることはできないからです。
福音書では、人を汚すのは中からということです。聖霊の実りについての聖パウロのことばを思い出せば、同じことが言われています。ガラテヤ書5章19節には霊の実と肉の業のリストがあるからです。聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はないと断言しています。肉の業は、マルコは12の悪、パウロは15の悪を挙げています。「聖霊なしにはすべては無駄」とはアルスの聖人ビアンネのことばですが、聖体(秘跡)とゆるしの秘跡と愛の業は神の国を告知する宣教の業です。一つの愛の神秘を形作ります。
ところで、古い言い伝えと神の掟の対立は今日では、聖体に巡っての秘跡の授け方で世界中に流布した方法、手で拝領するに対して、教皇様がかなり礼拝の対象に対する尊敬が足りないことに非常に危機感を持っておられることに注目したいと思います。教皇様はいつも本質論から語られるので、完璧までに正論なのです。
教皇の著書、キリスト論「ナザレのイエス」の第5章の主の祈りの解説の中で、「あなたのみ名が聖とされるように」の中で聖体の現存をてにする私たちの手の中にまで自らを委ねられるキリストの現存の神秘に対して、わたしは充分な畏敬の念を持ってい対しただろうか?と反省を促しておられるます。
憐れみをわたしの上に
わたしは昼も夜も
あなたを呼び求める。
あなたは心広く、慈しみに満ち、助けを求める人に恵みを注がれる。
(詩篇 86:3,5)
ことばの典礼:
申命記 4章1-2節 6-8節
使徒ヤコブの手紙 1章17-18、21b-22、27
マルコによる福音 7章1-8節、14-15節 21-23節
説教のポイント:
連続的に5週間主日の福音朗読に、ヨハネの福音6章全体の継続朗読が語られ、聖体のカテケーシスが説教で十分になされた後の主日の朗読、マルコの福音は、汚れについて語る。何が私たちを汚すのか? ともすれば、これはありきたりの道徳論に聞こえるが、第一、第二朗読を重ねて読むと、ミサの聖体の秘跡をいかにふさわしく準備し受け取るかの話題になっていること気づく。
「いつ呼び求めても、近くにおられるわれわれの神、主のような神をもつ大いなる国民がどこにあるだろうか。」とイスラエル民は、主を知る恵みを感嘆し、その主の道を歩むトーラ(律法 道のともしび)をたたえる。新約のわたしたちにとっては、みことばが人となられた方のことばと行いに従う道です。この道はイエスの霊、聖霊こそが私たちの心の律法となる道です。福音が語られるところでは、人は心を開く限りキリストの霊に満ちた恵をうけとることができる。
信仰を実践しながら次第にローマ帝国内の繁栄の世の中と妥協して生きるユダヤ人キリスト者への訓戒のようだとは聖書学者の解説にありました。みことばを受け入れること、それは小さな人々に対する愛の配慮と世の価値観に染まらないようにという勧めです。ご聖体をいただきながら、主のことばと行いにふさわしくない態度でいきることはできないからです。
福音書では、人を汚すのは中からということです。聖霊の実りについての聖パウロのことばを思い出せば、同じことが言われています。ガラテヤ書5章19節には霊の実と肉の業のリストがあるからです。聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はないと断言しています。肉の業は、マルコは12の悪、パウロは15の悪を挙げています。「聖霊なしにはすべては無駄」とはアルスの聖人ビアンネのことばですが、聖体(秘跡)とゆるしの秘跡と愛の業は神の国を告知する宣教の業です。一つの愛の神秘を形作ります。
ところで、古い言い伝えと神の掟の対立は今日では、聖体に巡っての秘跡の授け方で世界中に流布した方法、手で拝領するに対して、教皇様がかなり礼拝の対象に対する尊敬が足りないことに非常に危機感を持っておられることに注目したいと思います。教皇様はいつも本質論から語られるので、完璧までに正論なのです。
教皇の著書、キリスト論「ナザレのイエス」の第5章の主の祈りの解説の中で、「あなたのみ名が聖とされるように」の中で聖体の現存をてにする私たちの手の中にまで自らを委ねられるキリストの現存の神秘に対して、わたしは充分な畏敬の念を持ってい対しただろうか?と反省を促しておられるます。