第5回 信徒奉仕職講座 (12月6日)
「聖書一般」
講師 和田 幹男 神父 (箕面教会)
場所 : 豊中教会
序 教会で聖書を読むということは・・・
みことばの奉仕者としての自覚と責任
政府見解と幕僚長との意見が異なるようなことは、教会の奉仕者にあってはならないと考える。従って、教会の公文書をある程度読んで通じておく必要がある。また聖書は信仰の源泉なので、その解釈は、カトリック教会の聖書解釈の原則を学ぶ必要がある。(畠神父による要約)
(1)教会文書の諸関係と優先順位
第2ヴァティカン公会議文書の総数(16)種類、文書間の関連
憲章(Constitutio) 4つ 教会憲章、現代世界憲章、
啓示憲章、典礼憲章
教令(Decretum) 9つ
宣言(Declaratio) 3つ
注:時間が限られているので、以下の点はウェブサイトの神父さんの文書を引用しました。前後を見てください。:http://mikio.wada.catholic.ne.jp/DEI_VRBM_1.html
「・・・同公会議は、
そのためにまず教会とは何なのか、その本質をその源泉に戻って問うた。その源泉とは教会の創始者イエス・キリストであり、その心にあったものを証しする聖書である。このように教会が自己を見直して、まとめたのが教会憲章である。この教会の内省を前提として、教会がその外に向かって、現代の世界に何を、いかに行動すべきかをまとめたのが現代世界憲章である。ここに示された教会の行動原理は世界各地で実行に移されたが、目標としたものからはほど遠い。それに当時予測できなかった新しい諸問題が世界のいたるところで起こり、これとの取り組みが新たな課題となっている。遺伝子操作、臓器移植、人口の移動と諸民族、諸宗教の共存、兵器と通信手段の革新、いわゆるグローバル化に伴う経済的、社会的悪弊、それに環境破壊と問題は多様化し、深刻化している。
同公会議は、教会の自己反省と行動のすべてが聖書に基づいているので、あらためてその聖書とは何なのかを問うた。その聖書は広く神の啓示の中に位置づけられるので、この啓示とは何なのかをあらためて問い直し、こうしてまとめられたのが啓示憲章である。教会が
その本質を最も明らかに表し、その命の源泉になっているのが典礼であるから、その典礼をいかに現代人に適応し、効果的にその恵に与らせようとして検討し、まとめられたのが典礼憲章憲章である。この4つの憲章は相互に深く関連しあっている。
特に教会憲章を基礎として、司教、司祭、神学生、修道者、信徒の役務と生活についてそれぞれに教令がまとめられた。それが司教の役務教令、司祭の役務教令、司祭養成教令、修道生活教令、信徒使徒職教令である。教会に属するすべての者がかかわらなければならない宣教活動についても教令がまとめられた(宣教活動教令)。これらはすべてラテン典礼のカトリック教会に関わるものである。他方、ローマの教皇と交わりを守りながら、ラテン典礼以外の東方の諸典礼を保持しているカトリック諸教会についても、別に教令がまとめられた(東方教会教令)。さらにローマの教皇との交わりが断たれたままになっているキリスト教の諸教会との関係について(エキュメニズム教令)、またキリスト教以外の諸宗教とカトリック教会との関係について(諸宗教宣言)も討議され、まとめられた。それに信教の自由についても宣言が公表された。(信教の自由宣言)現代その重要性が増す主題として、広報機関と教育機関に宛てた教令ないし宣言が作成された(広報機関教令、キリスト教教育宣言)。・・・・
(2)啓示憲章
「聖書は広く神の啓示の中に位置づけられるので」、聖書はどういう意味で啓示といえるのかを考える上で第二バチカン公会議の文書の中では一番重要な文書と言える。(畠神父による要約)
啓示憲章 第一章 啓示そのものについて
啓示憲章 第二章 神の啓示の伝達について
*神様が真理を最終的にあらわした。第二バチカン公会議において、この啓示は、神様自身が自分自身を人間全体に教えかかわりあう対話として、神の善を通じて、また歴史を通じて、歴史の頂点として(一回限りの出来事)キリストにおいて完成する。啓示は、信仰の全体として受け止める。キリストにおいて完成された啓示を伝えられるのか?(啓示は、書かれたもの、後の時代に書かれたものが仲介するか?新約聖書は、直接のイエスと使徒たちの教えに触れるものとしてゆるがぬものとして教えられる。信仰共同体として生きながら伝える=伝承=未来に伝えられるのだ。
*啓示の源泉は何ですか? 聖書の啓示の源泉は、イエスそのもの 生きた生命です。書き留められたものが一緒に伝えられたもの・・・*上記のことが啓示憲章の1章と2章にまとめられている。
啓示憲章 第三章 聖書霊感と聖書解釈について
*聖書はすべて霊感の書、聖書の正典(=神から啓示されて、聖書の中の文字によって含まれ、かつ示されることは、聖霊の息吹によって書かれたものである。・・・旧約、新約の全書を使徒的信仰に基づき、正典書であるとしている。それは、これらの書が聖霊の霊感によって書かれ、神を著者としてもち、そのようなものとして教会にゆだねた。神は聖書の作成にあたって、固有の能力と素質を用いる人間を選んで、これを使用した。・・・)(2テモテ3:16-17)
*神は人間のことばで話す。人間に対する愛、そのことだけでその事実は、驚くべきこと。聖書の基本的な解釈についての記述が3章、4章に示されている。第4章は、旧約聖書についてです。第5章は、新約聖書について 第6章は、教会の命における聖書
*カトリック教会の聖書の教えは大変恵まれたものです。聖書には、不完全な教えも一杯ある。たとえば、復讐や仕返しを是認しているような教えが旧約聖書のなかにあります。それも啓示なのか?
これに関して、1964年4月21日に教皇庁聖書委員会が出した指針、「福音書の歴史的真理性に関する指針」は大変助けになる。イエスの死と復活のあと記者が書いた。信仰において書かれた。カトリック教会は、ファンダメンタリズムではない。ある歴史的な事実が起源にあるが、そのままのレポートではない。「イエスの教えと生涯がただ記憶されるようにと単に報告されたものではなく、教会にとって信仰と道徳の基礎となるようにと「宣教された」ものであるから、聖書注解者は福音記者たちの証しをたゆまず探求しながら、福音書がもつ不朽の神学的価値をいっそう深く示すとともに、教会の解釈がどれほど必要であり、重要であるかを、このうえもなく明らかにすることができる。」(前掲書 指針 652番)
6章 教会の命における聖書では、実践上一番大切なことが教えられている。みことばのパンとご聖体のパンについてです。「まず聖なる典礼において、神の言葉とキリストの御体の食卓から生命のパンを絶えず受け取り、信徒たちに差し出してきた。教会は、その聖書を聖なる伝承とともに自らの信仰の最高の基準として常に掲げてきたし、また掲げる。」(第21項)
「聖なる神学は、いつまでも変わらない基礎として、聖なる伝承とともに神の書かれた言葉に基づく。・・・」(第24項)
「聖書の読書には、神と人間の会話が成り立つように祈りが伴わなければならないことも忘れてはならない。『わたしたちは祈るときには神に語りかけ、神の宣託を読むときには神に耳を傾ける』からである」(第25項)
*啓示憲章と教会憲章の二つは、エフェソ書とコロサイ書を基にして書かれたものです。公会議はすでに歴史の中にあるが・・・(講座のなかでご自身の公会議直前にローマに留学し、公会議の間は神学生として勉強しておられたことをあれこれ歴史の証人のようにその場の雰囲気を語ってくださった。)
(3)聖書の解釈についてのカトリック教会の教え
資料:1254番13項「・・・カトリック聖書学は、独自の排他的な解釈法をもつものではなく、哲学的前提またはわたしたちの信仰の真理に反するほかの前提を抜きにして歴史批判学を基礎として始め、そのそれぞれの中に『みことばの種』を追い求めて、現在用いられているすべての研究法を有効に活用するからです。1255番14項「この総合のもう一つの特徴的な性格は、その平衡性とその節度にあります。カトリック聖書学は聖書の解釈において通時性と共時性を調和させることを知っており、この両者が補い合うものであること、この両者が聖書本文からすべての真理を浮き彫りにし、現代の読者の正当な要望に満足を与えるために不可欠のものであることを認めています。なおいっそう重要なのは、カトリック聖書学者が注意を向けるのは、これはときどき歴史批判的研究法の誤りなのですが、聖書の啓示のただの人間的側面にだけでなく、またファンダメンタリズムが望んでいるようにただその神的側面にだけでもありません。それはその両者を、すべての聖書の基礎にある神の「へりくだり」のなかで結び合わさったものとして明らかにしようと努めます。(啓示憲章第13項)」
(4)奉仕者の聖書の学びと信仰の書
(3)と(4)に関しては、和田神父さんが翻訳しておられる、教皇ヨハネ・パウロ二世の演説「回勅『プロヴィデンティッシムス』発布100周年と『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』発布50周年記念 1993年4月23日 のプリントを研究した。
a.カトリック聖書解釈と受肉の秘義との調和
1249番、1250番、1251番を一緒に読む・・・
b.おとめマリアに関して
1258番 後半 結びの言葉の中から・・・
「心に納めて、思い巡らしていた(ルカ2・19)」マリアは御自身、み言葉を受けとめることによって、弟子たちの模範であり、母なのです(ヨハネ19章27節参照)。
*「教会における聖書の解釈」(教皇庁聖書委員会、1993年)第4部C 聖書の活用、1.典礼における聖書
1528番、1530番、1531番、1532番、1533番、1534番
「みことばの祭儀は、教会の秘跡それぞれの祭儀執行において決定的重要な要素である。」(1533番)
「もし、聖書が朗読されるとき、『神がご自分の民に言葉をかけられる」(ローマミサ典礼書33項)のならみことばの祭儀は、朗読の告知にしてもその箇所の解釈にしても、当然大きな心遣いをもってなさなければならない。・・・」
*ここ10年くらいなってようやく、聖書解釈は正典論に従わなければならないことが意識されてきました。
質問に答えて・・・(続き参照)