マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 生活と祈りの作業場 第五集会

第五集会 自己放棄を通して安らぎへ

今日のみことば: 民数記 9章15節~23節

 前回の取り組みの分かち合い(一週間の課題の報告)

 メッセージの要点
第一部 a)あることは否、あることは然り
    b)敵を生みだしているのは自分です。
    c)苦しんでいる人たちは他の人を苦しませます。

第二部 a)見えるもの、見えないもの
    b)唯一の突破口としての信仰
    c)わたしたちは何も分かっていません。


あなた達も今のこの瞬間に回顧して自己分析し、自分の過去を振り返ってみさい。そうすれば、八年前、十年前、あるいは十五年前に起こったこと、自分の人生の最大の不幸と思っていたあの事柄を今日では納得し、幾度となくそれが自分たちの人生の中での最大の恵みだったと思えるのです。あなたはその事柄でどれだけ変わったことでしょう。どれだけ荘厳さと平安のうちに成長していったことでしょう。幾倍もしあわせで自由だと感じています。すべての善はあそこから生まれ出たのです。もし私たちが御父が持っておられる永遠性のビジョンを持っていたとすれば、あらゆる困難や矛盾に出会っても、それらを御父の特別の慈しみと考えていたに違いありません。あのカルワリオでの惨劇を歴史の中での最高の恵みであると誰が考え得たでしょうか。一体私たちは何を分かっているのでしょうか。

根本の真理は、力強い愛の御手を以て全てをお導きになる御父御自身であります。つまり、さまざまな現象と表面を越えて、私たちの身の回りで起こることには全てを企画立案し、整理整合し、許し、整える一つの御手があるのです。

 復活祭に向けて -四旬節メッセージー

 皆さま いかがお過ごしでしょうか?
今年もわたしたちキリスト者の最も大きな大切な祝い、イースタ(復活祭)が近づいてまいりました。 復活祭の前に、わたしたちは長い準備の期間を過ごします。わたしたちはこの期間を、四旬節とよび、今年は2月25日灰の水曜日から4月9日主の晩餐の夕べのミサの前まで続きます。この期間、教会は洗礼志願者と共に、すでに受けた洗礼の恵みを思い起こし、洗礼の記念と償いの業を通して過越の神秘(聖なる三日間の典礼)の祭儀に備えることになっています。
 
皆様と共にわたしたちが信頼する信仰内容は、苦しみには意味があり、必ずあがない主に出会い、復活の喜びを味わうことができるというメッセージが中心です。 
教会は、今年ちょうど聖パウロ生誕二千年を祝い、パウロ年として過越祭を迎えます。聖パウロは、ローマ帝国内の繁栄に酔いしれる諸都市で信仰について語り続けました。それは繁栄のなかで同じように信仰者でありながら、信仰の道をはっきりと悟らず歩まなかったわたしたちに宛てて述べられているようにも感じます。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」(新共同訳 ロマ1章20~21節) わたしたちは洗礼を受けたとき、何と喜びに満ちた気持ちを持ったことでしょう。あの気持ち、初心に戻り、信仰を得たころの愛にとどまりましょう。聖パウロは、わたしたちが救われるとしたら、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ3章23~24節)と述べます。それ故、聖パウロは、「誇る」とすれば、「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものはけっしてあってはなりません。」(ガラ6章14節)と宣言しています。

四旬節には、信仰者は、まず聖金曜日の十字架の死に向かって歩みます。なぜなら、イエスの死がわたしたちに命をもたらしたからです。このことは大変わかりにくいことですが、世に対してイエスと同じ姿になることによって、わたしたちの償いの業と十字架の主との連帯が始まります。十字架に敵対するあらゆる偽りの繁栄を拒絶するとき、まことの命に至る道が開かれます。それは、苦しむ人々の傍らに共にいて、イエスと共にパンを分かち合うからです。 「この最もちいさい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことだ」(マタイ 25章)からです。 

日本の教会では、四旬節に、カリタスジャパンの呼びかけに応えて分かち合いの愛の献金を集めています。池田教会の復活祭特別献金もこの意向のために集められます。あなたも、教会の聖週間の典礼に与り、この分かち合いに参加しませんか? よい復活祭を迎えられますよう あなた様とご家族の上に神の祝福を祈ります。

聖週間の典礼 スケジュール

受難の主日(枝の主日) 4月5 日  朝 9時

聖なる三日間の典礼
聖木曜日        4月9 日  夜 7時半
聖金曜日        4月10日 
            昼 3時 女子御受難会聖堂
        夜 7時半 池田教会
復活徹夜祭       4月11 日 夜 7時半
復活祭         4月12 日 朝 9時

 2月27日 悲しみの聖母の聖ガブリエル修道者

二月二七日
悲しみの聖母の聖ガブリエル修道者 (祝日)

 悲しみの聖母の聖ガブリエルは、一八三八年ウンブリアのアッシジに生まれた。
gabriel非常に若い頃スポレトの学校に通い、俗世に強く魅了された。しかし、神の恵みの召命があり御受難修道会に入会し、この世に対しては十字架に付けられて生き、神と親密に結ばれたので彼はすべての聖徳―特に謙遜と従順―の模範となった。さらに聖ガブリエルは悲しみの聖母を深く敬愛し、そのことが、聖性に至る理由となった。彼は一八六二年二月二七日、アブルッツィのイゾラ・グラン・サッソーで亡くなった。彼の墓の側には大きな聖堂、巡礼者や黙想者のための施設が建てられた。一九二六年、聖ガブリエルはイタリアのカトリック青年の守護聖人となり、一九五九年にはアブルッツィの大守護聖人となった。
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 四旬節 黙想会

2月22日 (日) 年間第7主日 B年

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池田教会では、シスター高木慶子(よしこ)さんを迎えて四旬節の黙想会を行いました。
テーマ 和解・ゆるしあい
    ―自分と他者と神との和解ー
 
 講    話   10:40 ~ 11:30
 十字架の道行   11:30 ~ 12:00

 ゆるしの秘跡   (3月29日に共同回心式があります。)
 シスターを囲んで (カール記念館にて)

 シスター高木は、朝日新聞その他の大新聞でもおなじみの顔です。明治の浦上四番崩れの殉教者の血筋で、母方、父方双方の家族に司祭、修道者が大勢いる生粋のカトリック家庭で育ったシスター高木は、それでも小学生のころ、カトリック故にいじめられた経験があり、その悔しさと、先生への反発から、誰からも、特に先生から指さされることのないように、常にトップを目指して生きてきたとのこと。その心の怒りの心情を吐露しながら、それを話の切り口にして、ゆるすことの難しさと大切さを自身の経験から面白おかしくお話ししてくださったので、ミサの聖体拝領後の短いお話と1時間10分のお話で信者の心をつかみ、午後12時からカール記念館でのシスターとの懇談会には大勢が詰めかけました。シスターは、1936年生まれ、72歳、聖トマス大学客員教授で、現在、愛する人の死に直面した人たちを支える「グリーフ(悲嘆)ケア」の第一人者です。阪神大震災やJR宝塚線脱線の遺族らに寄り添い、ホスピスや緩和ケアで、これまで109名をみとったとのことです。「聴く側に必要なのは、言葉でも行為でもない。時間と空間を共にすることです。」黙想会の後、シスターと共にガラシア病院のホスピス病棟を訪問してシスターの患者との対話を1時間ほど聞かせてもらいました。司祭は、あまり対話せず、すぐに祈りをして出て行ってしまうので余計に患者にはつらいそうだということ聞きました。反省する点、多々ありました。「生と死を考える会全国協議会」会長、日本スピリチュアルケア学会副理事長、日本グリーフケア研究所長などの肩書と「喪失体験と悲嘆」などの著書などあり、またグリーフケアの専門家養成コースを聖トマス大学で発足させ軌道にのせる多忙な日々にもかかわらず、池田教会にきてお話をしてくださったこと、また凡庸な神父を伴ってホスピス患者への対応も手を取ってお教えくださったことに感謝の一日でした。
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黙想会後の懇談会・・・30名近い信徒がもう少しお話を聞きたいと、シスター囲んで1時間を超える交流を持つことができました。(写真はカール記念会での懇談会の模様)

 堅信の秘跡への招き (からしだね巻頭言)

堅信の秘跡への招き
                     池田・日生中央教会
                     共同宣教司牧チーム
                      畠 基幸


 北摂地区八教会合同堅信式が五月二四日(日)昇天祭の午後二時から池長潤大司教司式によりおこなわれることになりました。そこで教会全体でも堅信の秘跡を機会にして、秘跡の意味と信者の生活における秘跡の役割、信仰生活のなかで重要な位置を占める典礼と秘跡的生き方(霊性)の意味を考え深める機会としたいと思います。このために、評議会の賛同も得て、わたしの説教の一部は、この趣旨で話を展開したいと考えております。

 わたしたちの小教区には、堅信の秘跡を受けていない青年信者が多く見うけられます。堅信の秘跡を受ける機会が少ないため一度チャンスをのがすと次の機会というものがあまり巡ってこないことや、この秘跡そのものの大切さがあまり認識されていない点もあろうかと思います。大人の入信の場合、洗礼、堅信、聖体の三秘跡(入信の秘跡)を同じ洗礼式のなかで受けることが教会法上も明記されるようになりました。しかし、幼児に洗礼を授ける場合、親の信仰、共同体の信仰により授けるので、子供たちが物事の判断がつくようになる年齢にあわせて信仰教育を施すことが必要です。信仰は自然に自動的に成長するのではなく、子供たち自身がいただいた信仰の賜物を自分のものとするキリストとの出会いと教えが必要なのです。子供たちが、初聖体、ゆるしの秘跡、そして堅信の秘跡などの機会あるごとに段階を追って秘跡にあずかり、イエス・キリストの深い友情を結び、イエスを「主」として礼拝し、日々の生活の中で、キリスト者としての生き方を選びとり、成長していくことが望まれます。

 ところで、「堅信」の秘跡は、単に「信仰を固める」だけではない、もっと素晴らしいものだという理解を皆さまに持ってもらいたいとわたしは考えております。確かに、私たちは洗礼によってイエスの死と復活に結ばれ、聖霊によって神の愛が注がれ、イエスと同じように御父を「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊に満たされ、御子の祈りに参加するものとなりました。こうして、毎日曜日、主日のミサの祈りに心を合わせ、いのちのパンである聖体にあずかり、日々の生活の労苦と感謝をキリストの心と一致して御父にささげるものとなります。洗礼の秘跡でこれだけの恵みが与えられるのなら、「堅信の秘跡」はなにか付け足しのような印象を受けることでしょう。

 そこで、典礼学者が注目する3世紀のヒッポリトウスの「使徒伝承」の記録を見てみましょう。洗礼の秘跡には、堅信の秘跡の恵みが含まれていました。すなわち、「①洗礼式と聖餐式の場所と司式者が異なる。洗礼は司祭によって、聖餐は司教によって行われる。②洗礼堂において受洗者は洗礼式の前後に二回にわたって塗油を受ける。③教会堂において受洗者は司教によって按手と塗油としるしの刻印と平和の挨拶を受ける。按手と共に聖霊が降るようにと祈られる。」このように式としては、洗礼式と聖餐式だけで、堅信式という儀式はなかったものの、現在の堅信式に相当する油の塗油と平和の挨拶があり、司祭と司教の役割分担があり、入信を完結させる者として司教の按手が行われていたことがわかります。ここから後の時代に「堅信」の言葉が出てきたことも、また司教が聖霊を授ける式をする通常の執行者であることも理解できます。「堅信式」が別の独立したものとして確立されたのは、5世紀頃、ローマ教会で幼児洗礼が一般化された時代からです。現代の「大人の洗礼式」は古代の伝承に立ち戻ったとも言えましょう。

 しかし、現代の「大人の洗礼式」を受けた信者が、堅信の秘跡を受けた記憶がないとおっしゃることも事実で、洗礼式の強烈な印象のなかでは、それはいたしかたのないことなのかもしれない。堅信の秘跡が、幼児洗礼の一般化とともに確立してきたという理由だけでは、堅信の秘跡の固有の存在価値は疑われますが、使徒言行録によれば、洗礼による聖化の秘跡だけでない、使徒伝承との関連も見逃すことができないでしょう。つまり、堅信の秘跡は、聖霊降臨の体験の継続とそのしるしとしての使徒たちの按手と結ばれて理解されてきました。それは、主に聖書、使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事です。聖霊降臨には、教会の誕生日といわれるエルサレムの高間での出来事のほかに、サマリアでも(使徒8章14~17節)、カイサリアのローマの百人隊長、コルネリウスの家の人たちにも(使徒19章1~6節)、エフェソの教会にも(使徒19章1~6節)と聖霊が降りました。最後に年足らずのパウロにもダマスコの道の途上でイエスのことばと光に照らされて目が見えなくなりましたが、アナニアが手を置いて祈ったときパウロは目が見えるようになりました(使徒9章17~18節)。これも聖霊が降ったと考えられます。このことをパウロは、「聖霊によらなければ誰も『イエスを主』とは言えない」(1コリント12章3節、ローマ10章9~10節)と信仰宣言の内容と合わせて理解しています。

 幼児洗礼の子供たちにとって、堅信式は、新たな聖霊降臨であり、油注がれてキリスト者としての自覚に生きる恵みをいただきます。これほどの大切な信仰の核心に触れる秘跡の機会ですから十分に準備が必要なのです。つまり家庭生活こそ最初の教会体験です。目に見えない神様を信じることですから、目に見えない神に向かって祈る親の姿やことばが何よりも模範となります。十字架のしるし、朝晩の祈り、食前・食後の祈り、自然の素晴らしさ、いのちの尊さ、素晴らしい人と出会いや生き方などの感動を心から表明し神に感謝することを、また悪と罪がそのような美しい自然を破壊し人との関係や愛に亀裂を招き、苦しみをもたらす悪の神秘が介在しますが、そのような悪に打ち勝つキリストの救いの力を信じることによって、神のゆるしと和解の恵みの次元があることを教えるのはもっと大切です。教会において、人類の交わりと一致のしるし、和解のパンだねとなりキリストの使命を継続していく必要を子供たちに段階をへて教えていかなければならないのです。

 以上述べたことは、大変な課題のように感じますが、教会は、聖霊降臨の日に聖霊を注がれて誕生しました。それ以来、聖霊は、教会を指導し、導いています。一度受けた秘跡の恵みは消えることがありません。むしろ信仰生活のなかで、人とのかかわりのように長い付き合いを通して聖霊との関係が深まっていくものなのです。この「堅信式」の機会に、秘跡の意味と役割を理解して信仰生活に生かしていただきたいと思います。どうか、ミサの説教の中で語る「教え」を聞いてくださるようにお願い申し上げます。
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 「聖書と典礼」 分かち合い

 「聖書と典礼」分かち合い (日生中央 夜 8時~9時半)
 メンバー 6名

 2月24日 火曜日 

 四旬節 第一主日

 集会祈願
 朗読箇所
  第一朗読
  第二朗読
  福音
  共同祈願
  拝領唱
  拝領祈願

 分かち合いのおもな話題
 ・ 四旬節の断食(灰の水曜日、聖金曜日)
 ・ 40日
 ・ 虹の契約のしるし
 ・ わたしの虹
 ・ 悔い改め
 ・ 洗礼志願者とともに歩む


 

 灰の水曜日前の火曜日 ①読書課

第二朗読 ①
聖ビンセンシオ・ストランビ司教
「イエズス・キリストにおける私達の宝」より 
The Treasures Which We have in Jesus Christ by Saint Vincent Mary Stranbi, bishop (Vol.III, pp. 210-214)

ゲッセマニの園でのキリストの苦悶
イエズス・キリスト、あらゆる徳の主である方は苦しみながら、すさまじい暴力を加えられて死の嫌悪が彼を襲うことを許された。そして勇敢に戦われた。燃える愛によってイエズスは自らの存在の高みにおいて、永遠の父に人類の救いのための完全ないけにえ を捧げておられた。イエズスの魂は強靭であったので、大きな苦悩と恐怖に襲われた人に起こるように血が心臓に流れ込んで来た時に、彼はあらゆる慰めが奪われて苦しむことを望み、 神の勇気の圧倒的な強さによって血を再び押し出したのだ。このように、イエズスの大きな努力と、また過度の痛みによって、彼の心はワインが搾られるかのように苦しめられ押しつぶされた。彼の全身は汗をかき始め、汗が血の滴るように地面に落ちた。こうして、その血はイエズスの心の声となり、彼の愛と悲しみの卓越した偉大さを明らかにした。
ああ、キリスト者よ、最も尊い血で贖われた者たち、ここに立ち止まり尊敬と同情を持ってこの神秘を黙想しなさい。愛と悲しみが大きすぎる故に噴き出したこの血が見えないだろうか? この血に罪への悲しみと贖い主の愛が反響しているのが分からないだろうか?この聖なる汚れのない血はその永遠の有効性によって、最も鋭く突き刺すような悲しみと燃えるような愛を呼び起こさないだろうか?キリスト者よ、よく考えなさい。そして神の知恵と愛の宝の中へ入って行きなさい。今まだここには死刑執行人は来ていない。鞭打ちも茨もない。肉を裂き静脈を切り血を溢れ出させるような釘もない。これらすべての苦しみの間際で、イエズスはそれを進んで愛によって受ける準備をする。しかし今、寛大な愛だけがある。この愛によって彼は愛する父に対する反抗を敏感に感じ、また、永遠の優しさを持って彼が愛する魂の破滅を感じる。それは血の汗をかくほどの苦悩の中で死に至るほどの悲しみによってイエズスを圧倒する愛なのだ。
そして、すべての痛みと苦しみを味わった後、イエズスは地に伏して倒れ、おびただしい血を流した。髪は血にまみれ、血の汗が顔を覆っている。肩と胸から血が流れ全身を覆い、衣を濡らした。さらに、大量の汗が地に流れ落ち続けた。それでも、私達の主イエズスは彼が救おうとする人々への慈しみと愛に溢れ、天の父にさらに熱心に祈られた。祈りながら死の痛みに苦しんだ。しかし祈ることを止めなかった。

答唱
先 イエズスはペトロとゼベダイの二人の子を連れて、ゲッセマニというところへゆき、うれい悲しみにとらわれ始めた。
答 「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである。ここにいてわたしといっしょに目を覚ましていなさい」と言われた。
先 イエズスは苦しみもだえ、いよいよ熱心に祈られた。汗は血のしずくのようになって地にしたたり落ちた。
答 「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである。ここにいてわたしといっしょに目を覚ましていなさい」と言われた。

 灰の水曜日前の火曜日 ②読書課

第二朗読 ②
聖ビンセンシオ・マリア・ストランビ司教著
「イエズスにおける私たちの宝」より
(Vol. III, pp. 184-186; 192-193; 199-201)
イエズスはどのように祈るべきかを私たちに教えて下さる
 イエズスは頻繁にオリーブ山に赴き、そこで祈りながら幾夜も明かされた。イエズスの祈りは香や没薬の香りのように天の父の玉座へと昇った。
 キリストご自身の模範を前に、私たちは神と話す時間を見つけられないことを恥じるべきである。惜しみなく祈りを捧げないかぎり私たちは誠実な弟子、良いキリスト者にはなることはできません。主ご自身がこのことを私たちに教えて下さいました。主は「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにいなさい。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と弟子たちに言われ、ゲッセマニの園でその教えを繰り返されました。
 主がどのように祈られるかに注意しなさい。主は極めて謙遜に、天の父の威厳の前で敬意を表されました。礼儀正しくというだけではありません。すなわち「彼はひざまずき祈った。顔を灰に埋めたまま」、また、「彼は地に伏して祈った」のです。キリスト者はどのように天の父に近づけばよいのか柔和なイエズスから学ぶのです。極めて謙遜に、自分の欠点については厳しく、己の罪に対する痛悔を持ち、そして神の偉大さの前に聖なる畏れを持って。このようにして憐みを受け、主をなだめ、主の心をつかむのです。
イエズスは夜の暗闇と孤独の中で父に向かいこのように言われました。〝父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。父よ、あなたは何でもおできになります。お望みであれば、この杯を私から取りのけてください〟と。「父よ、わたしが願うことではなく、あなたの御心に適うことが行われますように。あなたの御心にわたしは心から従います。」と。
なんと完全な祈りでしょう!キリストは人として当然感じる反抗心を父に言い表しました。しかし、キリストはより一層苦しむことになるかもしれないのにもかかわらず、進んで苦しみました。人間としての自然の反抗心を表しながらも、心の平和と内的な沈静を保ちました。キリストは何よりも神の聖なる崇敬すべき御意思を果たしたいと願い、その望みを何度も表されました。
〝更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」〟、そして〝また向こうへ行って、三度目も〃言葉で祈られた〟。キリストは霊の深みにおいて決然寛大で、神意に完全に一致した愛を示されました。
 天の父の息子と娘たちよ、また、あなた方のために多大な苦しみを受けてくださったイエズスの息子と娘たちよ、イエズスの祈り方を学びなさい。謙遜に神に向かってあなたの抱える問題について申し上げなさい。しかし、そのことで心を乱してはいけません。あなたを優しく誠実に愛して下さる神にあなた自身を委ねれば、あなたに良いことを成してくださるでしょう。神はあなたの善のために必要なすべてのことを知っておられ、それを成し遂げる無限の力を持っておられます。ですから、神の近くにとどまり、神の内に休みなさい。神から離れては決して平和はありません。

答唱
先 「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、
   むしろ、わたしのために 体を備えてくださいました。」
答 キリストは言われた。
「私は来ました。神よ、御心を行うために。」
先 「あなたは、焼き尽くす献げ物や
    罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。」
答 キリストは言われた。
「私は来ました。神よ、御心を行うために。」

 聖書を楽しく読む会

 聖書を楽しく読む会

 場 所 宝塚黙想の家図書室
 日 時 2月21日 (土)
     19時~20時半
      参加者 6名

 1. 分かち合い箇所 「マルコの福音 2章1節~12節」

 方法: 聖書深読法により分かち合い

 全体の流れ: カファルナウムでの一日の終り。

 「家」は教会のようにすべての人を迎える。文脈からは、シモンの姑の家であろう。そこに大勢の人が集まる。そこに四人の男が中風の人が運ばれてくる。「イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり下ろした」(新共同訳)なにか情景が目に浮かぶようである。参加者はここの情景をあれこれ感想を述べた。
「子よ、あなたの罪は赦される」・・・「あなたの罪は赦される」と言うのと「起きて、床を担いで歩け」と言うのとどちらが優しいか?
・・・この点も分かち合いの大きな関心であった。

 この箇所は、珍しい言い方もあります。 「子ょ」と病人に呼びかけている点です。イエスがこう呼びかけられるのは、マルコではここ一か所だけです。今回の収穫は、この表現が、イエスをとおしてあらわされる父のこころが見えているのではないかと話し合った点です。この表現はイエスの権威と結びつけて考え合わせれば、「人の子が地上で罪をゆるす権威を持っている」とイエスの宣教活動の目的がはっきり表明されていること、神の国の福音の中心には、この神の親心が含蓄的にあらわされていることに気づかされました。参加者からおおきな感動の賞賛の声がありました。この気づきは、ルカの福音書の放蕩息子のたとえで出てくるお父さんの姿で、そしてお兄さんをなだめる呼びかけのことばも、「子よ」であることにも思い出しました。神の愛は、ゆるす心、御父のこころそのものだということでしょう。

 四人の男は この福音を述べ伝える人たちで、最初の弟子が4名であることから、古代の教父たちは四福音と重ねて解釈することが多かった。わたしたちの役割は人々をイエスの前につり下ろすことができればよく、なんとそれだけで使命を果たすことができるのです。


 
 ペトロの家ペトロの家の上に建てられた教会堂

 信徒奉仕職

 第9回 信徒奉仕職講座

 日 時 : 2月21日(土)
 場 所 : 吹田教会
 講 師 : 谷口神父 (吹田教会主任)

 1 主日について
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谷口神父から「主日について」の懇切丁寧な説明があり、その後、集会祭儀の模擬講習があり、吹田教会の久保さんが司式しました。これに、谷口神父のコメント解説が流れに沿って逐次行われました。

 2 集会祭儀の模擬講習

集会の形について
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ことばの典礼

第一朗読
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福 音
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交わりの儀

majiwari
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