「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ 2章20節)
Merry Christmas and A Happy new Year
皆さま、主の降誕と新年のお喜びを申し上げます。
12月23日、第8回目の百日連続共同祈願ミサを無事に終えることができました。今年一年、わたしは健康に恵まれ、充実した司牧活動を行うことができました。皆さまの祈りのおかげです。百日連続共同祈願に参加された皆さまも、また恵みに満ちた日々を過ごされたと察します。十数名の方が百日のミサの祈りに大きな力を感じて感謝のお手紙をくださいました。
「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(フィリピ1章3節)聖パウロは、生まれたばかりのフィリピの教会の信徒を励まし、手紙を書きました。引用した手紙の挨拶の一節を読むと、わたしも同じように、祈りたくなります。皆さま、皆さまの祈りは尊い祈りです。私はその祈りに支えられています。日々、祈る中で、皆さまの祈りを思い起こしイエスの奉献の祈りに加えています。また、イエス様が最後の晩餐で弟子たちにぶどうの木のたとえを話されたことを思い起こしています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15章5節)
私たちが、共同で連帯してきた百日間共同祈願の第一の祈りの意向は、参加者の上に「新しい聖霊降臨」を願い、共に聖霊で満たされることです。まさに、それは、イエスはまことのぶどうの木で、その枝であるわたしたちは、聖霊の樹液でつながり、わたしたちの祈りは三位の愛の交わりに結ばれ、その実は、聖霊の賜物として、世に命をもたらすと信じることのあかしになりました。わたしたちの中で現存される聖霊を意識すればするほど、三位一体の神の交わり、父と子と聖霊の交わりのなかに招かれます。その中でささげるわたしたちのミサは、主の愛の秘跡であり、大きな喜びが聖霊の実りとして参加者に満ち溢れるほど注がれます。
主の降誕を祝うこの季節、わたしたちは、声高らかに、聖マリアと共に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。世に救い主が来られたのです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ2章35節)何とすばらしい訪れでしょう。イエスが王として治められる約束の時が到来したのです。洗礼者ヨハネは、イエスが死者をよみがえらせたと聞いて、二人の弟子を送りました。「来るべき方は、あなたでしょうか?」 イエスはお答えになりました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(ルカ7章22節)この喜びの便り、福音は、同じ聖霊の力により教会の中に継続されています。
さて、同じ喜びの便り、2009年は、インドからシスター・マルガリタ(6月)、ルフス・ペレイラ神父(8月)を迎え、みことばを生きる宣教師の姿とその福音の力強いあかしを目の当たりにしました。お二人の著書、「イエスは今日も生きておられる」(Sr.マルガリタ、ゲスマン和歌子訳、聖母文庫)と「主は今生きておられる」(FR.ルフス・ペレイラ、小熊晴代訳、聖霊による関西地区委員会)は、深い学問的な研究に基づきながらも、その題名どおり「主が生きておられる」ことの喜びをあかしする単純明快な福音でした。現教皇ベネディクト16世は、このような生きた信仰をとても評価されるのですが、それは、教皇の「合理主義と新しい啓蒙の時代の大波がカトリック教会の土台を揺り動かし、冬の霜のように信仰生活の上に降りてきて信仰生活を冷やしました」という現状認識があるからだと思います。わたしたちは、実在とは、物質の質量からなる時空間という近代以降の世界観の中に生きており、目に見えない実在の可能性に疑問を持つ現代社会で信仰者自身も同じ合理主義と啓蒙主義的思考によって内面の葛藤に直面せざるを得なかったのです。そのような信仰の確信のない教会生活の中で、聖霊の新たな注ぎによって復活した主の現存との出会いに導かれ、荒れ野の乾ききった砂のような信仰が命の水に浸されて生き返ったのです。先の教皇ヨハネ・パウロ二世が、1996年の聖霊降臨の前晩に、「わたしたちの時代に与えられた聖霊の数ある賜物の中の一つに、確かに、私が教皇職就任の初期から、教会と人類にとって希望の根拠の一つとして認め続けていた教会の諸運動の開花があります」と聖霊による刷新のリーダーと諸運動のリーダーを前にして語られたことにもこのような背景があるでしょう。
関西地区委員会では、ヘリベルト・ミューレン著「キリスト者の基本的体験の道」を復刻して聖霊セミナーで使うように推薦しています。三位一体論と聖霊論的キリスト論で名を馳せたミューレンの本は、聖霊による満たしの意味を深く解き明かしてくれます。この本によりわたしが理解できたことは、聖霊に満たされるとは、三位のペルソナが持つ関係性における存在(聖アウグスチヌス)の交わりに与り、それに応える存在として目覚めるということです。ドイツの哲学者マルチン・ブーバーが、「我と汝」という関係について分析した本がありますが、ペルソナの関係は、「我と汝」であって、決して「我とそれ」ではないと理解できました。それで、祈りの中では、聖霊に満たされて、「アッバ、父よ」(ローマ8章15節)呼ぶことができるのは、わたしたちが聖霊によって御子の霊をいただくからであり、それゆえにイエスと御父が持っておられるあの永遠の「我と汝」の交わりに与ることができるということなのです。この素晴らしい三位一体的な祈りは、まさに異言でしか表すことのできないようなものだと思います。(ローマ8章26~27節)
上記のことは、現在のわたしの祈りに大きな変化を与え、祈りの生活に喜びをもたらしました。そこで、2010年の百日共同祈願は、教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅「聖霊 -生命の与え主」の結びに書かれた文章の一部からヒントを得て、皆さまと共にこの世界のために、教会のために、そして私たちと私たちのかかわる方々に新しい聖霊降臨の恵みを願いましょう。
「教会は自分の信仰をたえず告白します。すなわち、この創造された世界に、造られたものでないたまものである霊があります。この方は実に、御父と御子の霊です。すなわち、この同じ方が、御父と御子のように、造られず無限であり、永遠で全能であるかた、神、主なのです。神のこの霊が、『全世界に満ちる』のです。そして創造されたものはみな、自分の本来の姿の源泉をこの霊の内に見いだし、超越した表現を発見し、この方に身をささげ、この方を待ち、自分の全存在をあげてこの方に語りかけるのです。人間はこの方に対して、弁護者であり真理と愛の霊にたいするようにかかわります。この霊に、人類の心である教会はより頼みます。それは、霊にすべての人のための賜物を願い求め、また霊をとおして『私たちの心に注がれている』愛のたまものをすべての人に分配するためです。教会は、地上における人間の現世の旅路の入り組んだ道を通って聖霊へと方向転換します。そして、人間の行為の誠実さを霊自身のわざとして、しかも少しも中断することなく渇望し続けます。・・・中略・・・実に、平和への道は、つまるところ愛を貫いて続いており、愛の文明が造られることを目指しているので、教会は、御父と御子の愛である方に自らの鋭いまなざしをしっかりと向けます。さらにたとえ危険が増しても、教会は信頼することをやめず、人間の平和を祈り求め、この世界で平和のために奉仕することをやめません。教会の信頼は愛の霊であるがゆえに平和の霊でもある方、また『全世界』を愛情と平和で『満たす』ために、この人間世界において、良心と心の地平に現存することを決してやめることのない方に、しっかりと据えられているのです。」(1986年5月18日聖霊降臨の祭日、教皇在位第八年 回勅「聖霊」P149 ~151引用、中央協議会出版)
それでは、皆さま、2010年の幕開けに向かって、百日共同祈願の開始を宣言します。
2010年元旦から4月10日まで9回目の百日間を共に祈りましょう。
(はがき本文)
✞ 聖霊、来てください。生命と喜びとの霊よ
来て、あなたと、御父と御子との完全な交わりを一人ひとりにお与えください。
永遠の生命と喜びとにおけるあの交わりを
人はそのためにこそ造られ、
そのことにこそ向かっているからです。
(教皇ヨハネ・パウロ二世の祈り)
皆さまの意向:
栄光は父と子と聖霊に。 初めのように今もいつも世々に。 アーメン。
2009年12月25日
聖霊による刷新 関西地区委員長 畠 基幸