マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 第10回百日共同祈願への招待

 ✙主の恵みと平和が皆さまと共にありますように!

百日間、多くの願いと祈りを共にささげ、多くの実りを味わいました。確かに、皆さまの犠牲と祈りは、主の宴において新しいぶどう酒として供せられます。今年の元旦から4月10日までの参加者人数は、748名でした。前回よりも100名程度減少しましたが、聖霊による刷新の参加者以外の方々が加わってくださるようになりました。四旬節黙想会でわたしが奉仕した長崎、西町教会、奈良の登美ヶ丘教会、和歌山の串本教会などでも呼びかけました。行く先々で、共同祈願の花籠を携え、ミサをささげるたびに皆さまの祈りの花束を奉納いたしました。30カ月、2年半に及ぶ900日の共同祈願が本年4月10日のわたしの27回目の叙階記念日に終わりました。今さらに100日を加えて1000日目を目指して共同祈願を始めます。5月16日主の昇天の主日から8月23日までの100日間の共同祈願です。

この日から共同祈願を始めることにしたのは、「第18回カトリック聖霊による刷新全国大会(尼崎)」の最終日8月23日が百日目に当たるためですが、5月16日は、主の昇天の祝日であると同時に、わたしにとっては御受難修道会の家族として聖ジェンマ・ガルガーニを祝う記念日にあたります。聖ジェンマのことを思い起こすのは、何か摂理的なものを感じるからです。

聖ジェンマの生涯は、ちょうど教皇レオ13世が聖座に着座した1878年から退位した1903年までの25年間にあたります。この教皇は、1891年の教会の社会教説「レーノム・ノバノム」の回勅で大きな業績を残しましたが1897年、聖霊にささげられた教皇書簡「デヴェィヌム・イルド・ムヌス」によって、20世紀の「新しい聖霊降臨」の到来を準備する任務を担いました。教皇はその書簡の中で、1895年から1900年までの間、主の昇天から聖霊降臨まで聖霊に対するノベナ(九日間の祈り)を全世界のすべての信者が祈るように願いました。1901年1月1日、教会の名において「創造主である聖霊来てください(ヴェニ・クレアトル・スピリトゥス)」の聖霊への賛歌をささげました。ラテン語でよく歌われた曲です。その賛歌に呼応するかのように、奇しくもその同じ日に、プロテスタントのペンテコステ派の誕生と言われる聖霊の注ぎがカンサス州トペカで起こりました。

聖ジェンマは25年の短い生涯の中で、イエスとの現存に生き、イエスの娘として聖痕を受け、聖体の神秘とキリストの受難に深く与ることによって、神と人との和解のために自分自身を完全にささげました。イエスの人間性に徹底的に浸透していた聖霊がイエス自身の愛の行為を唯一永遠の完全な犠牲としてささげたように、聖ジェンマも全教会のために自分の苦しみをイエスにささげたのでした。聖ジェンマが生涯の中で体験したイエスとのペルソナ的な交わりの神秘は、聖霊の満たしを受けた人たちがあかしする生き生きとした主イエスとの交わりの神秘の先駆けであったと思われます。「聖霊による刷新」の恵みは、主イエスとの親しい交わりを体験するペルソナ的な愛の体験なのです。

さて、「聖霊による刷新」のことをヨハネ・パウロ二世前教皇は「聖霊降臨の霊性」と名付けておられます。第二バチカン公会議以降の霊性をこう呼ばれるようになったのです。その霊性は古くて新しいものと言えます。教会の本性の中核にあるものだからです。新約聖書の記述には、聖霊降臨の日の出来事を目撃した人々の中には、「あたらしいぶどう酒に酔っている(使徒2:5」とあざ笑った人々もいました。しかし、このぶどう酒こそ、キリストのぶどうの木からとられた実が醗酵して、キリストの香りがするぶどう酒なのです。聖霊降臨はキリストの死と復活の実りとして、人々の上に炎が舌の形で現れ、聖霊の注ぎにより、人々は愛の火で内から燃え上がり、賛美と感謝の喜びで満ち溢れました。
バベルの塔では、塔を高くして有名になろうと試みたために言語が乱れ人々は地に散らされました。高間では、弟子たちがマリア様と共に祈っていると聖霊が降り、さまざまな異言により、弟子たちは、同じ主の霊に満たされ、油注がれた者(キリスト)の民、教会として集められたのです。肉の法則から霊の法則へ、律法の支配から恵みの支配へ、古いぶどう酒からあたらしいぶどう酒へ、古い革袋(古い契約)から新しい革袋(新しい契約)へ、第一のアダムから第二のアダムへとキリストの十字架の贖いは人類全体の聖化を目指します。

「聖霊の満たし」は、テモテへの第二の手紙1章6節にあるように、「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を再び燃え立たせるように」と、聖霊降臨の恵みを継続するための伝承であり、秘跡の点から言えば、洗礼と堅信の約束の更新です。「油注がれる」ことは、エピクレーシス(聖霊が降る祈り)によって主の現存の恵みに与り、一人ひとりがもう一人の「キリスト」(油注がれた者)として生前のイエスの預言者としての賜物(カリスマ)を継続させることです。「その方(真理の霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである(ヨハネ16:14)」。

「聖霊降臨の霊性」は、上に述べたことを現代の教会の中で真実なものとして継続していくことです。現代の「聖霊による刷新」運動は、時には「騒がしいどら、やかましいシンバル」と誤解され、伝統的な教会から疑いの目で見られることもあります。しかし、教会の本性の中核に聖霊降臨の体験が伝承されなければ信仰の恵みは消えてしまいます。

「聖霊降臨の霊性」は根本的には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ 15:13)」と、わたしのために自分の命を与えてくださったイエスの愛に目覚めて生きることです。「イエスは主である」と生き生きと体験するダイナミズムはそこにあると思います。そのイエスの愛に駆り立てられて、愛の奉仕に導かれるのです。わたしたちはキリストの霊に満たされてこそそのことが可能なのだと知るのです。なぜなら、イエスの死と復活により、イエスは神の愛の秘跡として、永続的に歴史内に現存しており、イエスが赴くところへとわたしたちも出かけるならば、その時、その場所で、わたしたちは、世にあってイエスの救いの力をあかしするために聖霊の賜物が与えられるのです。つまりわたしたちが奉仕の業に専念するときに、主がそこにおられ、主が聖霊の賜物を通して現存し、癒し主、救い主、贖い主として神の国の到来をあかしするのです。

兄弟姉妹の皆さま、このような「聖霊降臨の霊性」をどうして求めないでいられましょう。ご一緒に、聖霊降臨の前のノベナの祈り、百日間の共同祈願の奉納をとおして、愛の奉仕、とりなしの祈りに必要な種々の賜物を願いましょう。詩篇と賛歌と霊的な歌と異言の祈りにより、父と子と聖霊の栄光をたたえましょう。こうして私たちは祈りの戦士、とりなし人として、「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」(ネヘミヤ8:10)との言葉を生きるのです。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16:24)
わたしたちの主イエス・キリストの恵みが皆さまの霊と共にあるように。(ガラテヤ6:18 参照)
 
2010年5月16日 主の昇天
 
聖霊による刷新関西委員会
 
委員長 畠 基幸 神父
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