マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 第18回カトリック聖霊による刷新全国大会(8月21日~23日)

第18回カトリック聖霊による刷新全国大会の開催のため、講師として韓国のコットンネ共同体からブラザージェームス・シン(コットンネ・イエスの兄弟姉妹会 1979年創立)とシスター3名、信徒4名をお招きしました。8人は、8月20日来日し、21日から23日まで 「新しい福音宣教」のテーマのもとに、尼崎のホテルニューアルカイックで全国の兄弟姉妹、沖縄から北海道まで、そして、韓国の姉妹を含めて参加者360名とともに聖霊に導きを祈り求め、信仰の喜びと恵みを分かち合いました。23日の大会最終日は、百日共同祈願第10回目の最終日でもあり、天の元后マリアの祝日の祈願文を使って1000日目の満願を感謝しました。また前日の8月22日は、日韓併合の百周年の節目に当たり、韓国の兄弟姉妹の和解のイニシアチブにより歴史の新しい一歩を踏み出すことができました。24日、25日の夜は生野教会でブラザー・シンの講話とコットンネ共同体との交わりのひと時が行われる予定です。生野教会の評議会議長 イグナチオ李(イ)さんと 信徒会長エマニュエル崔(チェ)さんがご自分の時間を割いて韓国語から日本語へ懇切丁寧な通訳をして下さいました。この場を借りて御礼感謝を申し上げます。


 第一日 オリエンテーション
     開会の儀(会場の清めと大会のための祈り)
     コットンネ共同体の紹介 ビデオ(DVD)
     8名の紹介

     ミサ  聖霊を求める祈り (司式 赤波江神父 パウロ会)

     夜: 第一講話 神に近づく方法 (聖霊による洗礼)
        Br シン  あかし 

 第二日 朝の祈り  聖体への賛美とみこころの信心 
     
     朝: 第二講話 回心
        
        Br シン    あかし 
        悔い改めの祈り
        個別の赦しの秘跡

     昼: 第三講話 清貧の霊性

        Br シン    あかし


     ミサ 聖霊に満たしを願う祈り 司式 マッケイ神父ーコロンバン会
        第21主日のミサ     


     夜: 特別プログラム      Br シン
        いやしの奉仕
        喜びの祝祭

 第三日 朝の祈り  主への賛美と感謝の心

     朝: 第四講話 宣教の霊性

     昼: 
        
     
        ミサ 宣教の賜物を求める祈り 司式  はた神父
     
     講師への感謝のあいさつ   中村 友太郎(全国委員)
     閉会のあいさつ       畠  基幸 (実行委員会委員長)
        

 「主日の典礼」奉仕者準備会 趣旨説明

この夏の宿題の一つがだんだんと形になってきました。秋はこれにじっくり取り組むことになります。

 わたしが「主日の典礼」奉仕者準備会でしようとしていることは、信仰共同体、奉仕者共同体、家庭共同体の中に学びと養成の場と分かち合いの場のひな型となるようなものを考えているのです。これは、「キリスト者小共同体」-21世紀への希望の展望ー(菊池功訳、新世社)で紹介された「小教区内のさまざまな小共同体」の概念に近いものです。ただ端緒は、主日の典礼の積極的参加と共同体としての奉仕を学びながら、中心にみことばを祈り、みことばを黙想し、みことばから力を受けるようなキリスト的生き方を伝達する場にしたいのです。

 趣旨説明を書いてみました。これまでの小教区のやり方では現在の問題を解決できないので、やはりこのようなみことばを中心にしたビジョンを推し進めたいと考えていることを書きました。これはシノドスでも強調されたことですので、いい方向だと思います。
趣旨説明

 共同祈願 カトリック新聞に掲載される

7月25日発行の第4061号の二面に、今年叙階を受けた司祭・助祭の紹介記事の横に、写真入りで「共同祈願」の記事が掲載されました。カトリック新聞編集部の大元麻美さんが、浦和のMEの行事に参加して、共同祈願のうわさを耳にして、早速私を訪問取材されたのでした。「苦悩する人々の立場に立つ」祈りの輪が新鮮な印象を受けられて好意的にまとめてくださいました。それを切り抜き、イメージを掲載します。
カト共同

 この祈りは 世間一般にある射幸心をあおるようなものではなく、父と子と聖霊の交わりに招く、御子ご自身のいけにえに与る司祭職に結ばれて、わたしたちも日々の労働と祈りを他者のためにささげるのです。このような祈りが聞かれないという理由は考えられません。

 事実、記事が掲載されて、病気が突然癒されたので戸惑っているという方から、ひょっとしたら私のいやしはその祈りのおかげだったかもしれませんと手紙をいただきました。わたしにもわかりません。誰かの祈りが聞かれかどうかもわかりません。主のいつくしみがわたしたちに与えられる理由があるとすれば、ただ神のみ心を動かすほど、あなたは貧しい者、弱い者、小さな者、傷つき死に瀕している存在だったからではないでしょうか。「しかし言っておく。その人は友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きてきて必要なものはなんでも与えるであろう。まして御父は~」(共同訳 ルカ11章8節)
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