マラナタ 主よ 来てください!


畠神父


 2010年秋 もみじまつり 晴天に恵まれる!

昨年は インフルエンザ騒動で中止となった宝塚黙想の家の「もみじまつり」、本年も週間天気予報は雨でしたが、前日に雨はシフトして11月23日の本番は天気に恵まれ、もみじはきれいな色どりに仕上がり、観覧にこられた入場者を大勢迎えました(入場者2000名)。自然の恵み、神のみ業の美しさはわたしたちの心を開かせ豊かな交わりの一時を与えてくださる。紅葉しかないのに、遠方からも近隣の方も集まり、もみじの下で多くの一期一会の出会いがありました。


 池田教会からの出店は、シラスクとたきこみご飯、それに人気の野点3品、日生中央教会からは、栗入りぜんざい。女子修道院では、毎年人気のカレーライス。大勢の協力で黙想の家の行事を盛り立てました。終わり良ければすべてよし。24日の今日は、曇り空の寒風となりました。もう木枯らしが吹く頃、足早に冬の枯葉の足音が消え、売布の祈りの森は、閑散としたもとの趣に戻るのです。また来年もご来場ください。皆さまのおこしをお待ちします。

シラスク池田教会出店栗ぜんざい日生中央出店野だて野点フォンダチオホンダチオ日本代表平尾さんパウロ会パウロ会書店広場1広場広場2広場3傘木神父様病気回復シスターSr 長谷川(韓国在住)片づけ1後片付け

 コットンネ共同体を訪ねて

15日から17日まで二泊三日の短い滞在ながらコットンネ共同体の王神父、ブラザーシンを訪問し、施設の見学とその霊性の活動を体験してきました。
(コットンネ共同体への行き方:金浦空港からバスで東ソウル・バスセンターまで1時間半、バス・センターからコットンネへまで1時間50分です。東ソウルバス・センターではコットンネまで一日8便あり、直通です。)
 
入口にあるチェ爺さんの墓
ちぇさんの墓
王神父のインスピレーションとなったチエ爺さんは共同創立者として尊敬されている。
修道会本部聖堂本部聖堂 ここで毎日ミサがある。
 
 山里離れたコットンネ(花の村)というところは、総合福祉センターという趣があり、「ゆりかごから墓場まで」、新生児から高齢者まで、家族の崩壊、経済の破たん、知的障害や身体障害、認知症やエイズ、ハンセン氏病、結核などなどあらゆる形で隔離され見捨てられた人たちの最後に行くところとして、花村(コットンネ共同体)という場所が韓国にあります。ここは姥捨て山ではなく、神の国が目に見える愛の共同体が活動しているところです。まったく変な新興宗教の活動ではなく、正式に認可された修道会として成長し、福音宣教活動として愛の実践を宣べ伝えることです。韓国社会が、朝鮮戦争以降の冷戦、南北対立、などなど経済的政治的混乱から立ち直る中で、社会や家庭から落ちこぼれ路上に捨てられた人を引き取り、最後まで面倒を見るので、その使徒職の誠実な取り組みが多くの人の支持を受け、社会的に認知されているのです。韓国大統領も支援し、韓国の企業も寄付し、一般人も信徒も協力して百万人の支援者によって成り立っています。毎月一人一ドル献金の運動の成果でもあります。この共同体には5000人の人が毎日食事をしているのです。そのお金はすべての浄財によって賄われているという聞きました。年金を囲い込む貧困ビジネスではなく、まさにイエスが貧しい人を愛していることを身をもって示す活動です。無償でホームレスの人を引き取り回復するまで、あるいは死ぬまで面倒を見ているのです。
墓15000人が眠る墓 
(このコットンネで亡くなった人は火葬して灰にしてしまうのではなく、一人ひとり墓碑銘に名を刻み、土葬で埋葬して、復活の日まで安心して眠ることができる場を提供する。山一つを墓地のために購入している。)

新生児墓水子供養の墓もある。中絶した人たちの回心のシンボル

 日本でも多くの修道会が同じようにしたのに、どうして衰退しているのか?多くの小教区が貧しい人たちのために支援活動を続けている。脱宗教世俗社会の日本では、無縁死3万2千人、12年連続自殺者3万人の無縁社会の出現がマスコミに取り上げられて社会に衝撃を与えている。愛の実践を伴う信仰が何よりも求められる。愛に恵まれず、孤立した人たちの群れがあり、貧しい人ですらビジネスの対象としてしか世話を受けないような人々がいる。これはほんの象徴的なことですが、もっともっと悲惨な現実があります。コットンネは祈り、徹夜の祈りが月一度行われ、熱心に祈る人が集まる。”Love in Action" の標語で、互いに挨拶は、「愛しています」を言葉とジェスチャーで交わす。(ジェスチャーは、ハートの形を両腕で描いて頭におく)

 コットンネのような純粋な愛の実践を伴う信仰者が貧しい人々を世話する霊性が必要なのではないかと。わたしは、日本にコットンネの霊性を立ち上げてほしいと王神父に希望を語りました。本当に望むなら自分の部屋に貧しい人を引き取って一緒に住む覚悟がないとだめだと王神父の答えでした。それぐらいでなければ彼らは信じてくれないだろうと・・・。その覚悟があるのか?鋭い質問を投げかけられました。
王神父

 ソウル駅での活動:
 毎週火曜日にソウル駅でホームレスの人に簡単な食事を提供して、それから駅周辺を巡回して、体が弱って動けない人や寒空に我慢できなくなった人に声をかけ、コットンネに連れて行きます。アルコール中毒の人が多いので、いったんコットンネにいてもお酒が恋しくなって、またソウル駅へ戻ってくる人もいるということですが、数年間おつきあいしているうちに、段々変ってきて他人の世話をすることができるまでに回復し、社会復帰できる人もあり、それがコットネの目的でもあるのだとのこと。医療相談、家庭相談、就職活動支援などもしており、コットンネには介護福祉大学が併設され、病院には15名の医者が働き、シスター280名、司祭・ブラザー100名ほどいる巨大な修道会にまで発展しているのです。

ソウル駅
ホームレスのいるところに毎週火曜日訪問し、コットンネへの希望者を募る。黙想の家の売店スタジオ黙想の家の食堂(朝食)
左から黙想の家の売店、テレビスタジオ、黙想の家食堂ー(王神父とBrシン)

 訃報

マリア 堀江 和栄さんが去る11月11日に病死されました。池田教会で2008年3月23日の復活徹夜祭に洗礼を受けられ、イエスの救いに憧れ、それが叶えられた喜びの表情は忘れられません。入院中に訪問して聖体をお授けしたときには、目を閉じてしばらくの間、愛するイエスを迎えした喜びを満面の笑みで表され、イエスの名を何度も呼んで礼拝しておられました。この度は、入院の連絡もなく、最後の時を準備する間もなく天に召されましたが、愛するイエスの内に、永遠の愛の宴に与り、生前あんなに憧れ待ち望んでおられた永遠の命の喜びに満たされて憩っておられることは間違いないと思います。ご遺体は献体されたとのこと、皆さまのお祈りをお願い申し上げます。74歳のご生涯でした。堀江さん代母の田中邦子(右)さんとともに
今年の復活祭の在りし日の姿(2010年4月4日復活主日)

 メガネ発見!

 なんとメガネが見つかりました。記憶をたどって最後に見た日は、車だった。でも何度も何度も車の中を捜し見つけることが出来なかったのに、マリスト会の墓地を訪問して、天の助けを祈った後、ティシュ箱の下からメガネケースが出てきて、嘘だろうと目を見張って中を見るとちゃんとメガネがありました。10月8日から11月12日の今日までひと月ばかりパソコンと読書用のメガネが紛失し、何度もメガネを購入しようという誘惑にさらされましたが、どうも腑に落ちないので、我慢し続けました。いずれ出てくるはずだ。可能な所、行動範囲の全体を何度もくまなく探したし、いろいろな人に聞いて恥もかいた。どこへ落としたのか?もう疲れた。いや、いつか出てくるはずだ。ブログに書き入れることは目が疲れる。もう避けていました。

 聖アントニオさまならぬ聖マリスト会の聖なる宣教師たちへのお願いが効いたかな・・・。きっとジョークして笑っていたのでしょう。あれはまじめすぎるからな・・・ ときどき笑わさないとだめになるかもとか・・・心配してくれたのかな。

 メガネを紛失して、何かを失うことよりも、自分の中に知らないことが生じたようでとても困惑しました。あるはずのものがない。ずっと記憶をたどり、思い出して、ようやくあの時からないのだという車に行きついたのでしたが、探してもそれがないので困惑して、ようやくドアから落ちたのかもと納得し始めたところでした。 

 発見できた時は、とてもうれしくおかしさが湧き上がってきました。失うまいとして、いつも使わないところへ置いてしまったのでした。銀貨を失って発見したあの喜びがわかるようです。日生中央の金曜日の10時のミサには誰も来なかったので、一人で大きな声で歌い、感謝のミサをささげました。マリスト会の亡くなった神父さんたちも一緒に安心して笑ってくれたことでしょう。このところ笑うことも休むこともない毎日の連続でしたから・・・。

 墓参 (御所 gose  マリスト会墓地 )

11月11日(木)奈良県御所(ごせ)市に出かけました。

 今年は パウロ・グリン神父さまの黙想会や講演会を企画し、「愛の鉄道」の上映会などグリン神父さんを迎えてお話を聞くこともでき恵まれた一年でした。11月、死者の月、別の要件で御所教会を訪問したのですが、この御所教会の敷地には、マリスト修道会の恩人神父さま方が葬られていることを教えていただき、霊に導かれたように墓所を訪問しました。今年の縁(えにし)なのでしょう。

 1983年春から1984の復活祭まで私は、奈良教会の助任として派遣され、叙階後の最初の一年をマリスト会に預けられ研修するように命じられたのです。マリスト会の神父様たちから末っ子の弟のように兄弟的司祭の交わりに入れていただきました。トニ・グリン神父さまは、その頃、日豪の和解と交流のとても重要な局面にあって遁走しておられことが、ー豪日に架ける「愛の鉄道」ーを見てわかりました。もっとあの頃よく教えていただければよかったなと思うのですが、日本人の司祭ということだけで内容がなくてもよくほめていただきました。「彼はちゃんとした日本語を話しますから・・・」(そう言われると、わたしは自分の日本語に自信がなかったのでちょっと気恥ずかしい気持ちでした・・・)。トニ神父様は、カリスマ刷新の司祭黙想会を日本で最初にイニシアチブをとって企画し、三田の大学セミナーハウスで毎年100名前後の司祭が参加する大きな会になりました。世界中の有名なカリスマ刷新の指導者を迎える交渉力や運営費のねん出に尽力されていました。わたしも刷新の祈り会からは神学生の間は遠のいていましたが、この時、サリバン神父とSrブリッジ・マッケナの黙想会に全額無料で招待され、恵みにあずかることができたのはマリスト会の神父さんたちのご好意によるものだった。

 「御所」というところは、70年代後半頃 ベトナムからのボートピーポルを受け入れた難民キャンプがあり、マリスト会の神父さんがその受け入れに政府と交渉したりしていました。ちょうど、外務省の役人に大学の先輩でTさんという方がいて、視察に来られたので一緒にキャンプを訪問しました。同じころ、Sさんとも難民の定住問題で接触がありました。Sさんは、カトリック信者で国井神父さんの命の恩人です。(※ドイツ留学前で勉強のしすぎで心臓が弱って、風呂に入って眠りこんでしまい、発見が遅れれば亡くなったところを、当時東大の学生だったSさんに発見されて救われたという事件がありました。)Sさんは東大の国際政治学博士課程から転身して国連に入り、香港にある国連難民高等弁務官に任命されて日本に戻ってきておられ、日本政府に様々な要求をしていました。わたしが神学生の頃、ウォード神父さんは彼が司祭になるように祈り続けておられ、わたしにも祈るように要求されたのですが、どんな聖なる司祭の祈りも本人にその気がなければ実現しないという見本のような体験でした。正義感にあふれ、容姿端麗、ありあまる能力に実力が伴い、日本政府の役人を翻弄できるこんな素晴らしい人物が教会にいる、この人が神父でいてくれたらとどんなに素晴らしことだったろうか?ウォード神父は彼に惚れこんでいました。私たちは失望せず祈り続けたが、彼は、でもあまりの素晴らしさのために、日本政府からの抵抗もあり、ポストを降ろされる不遇な時がありました。その後、もっと才能に恵まれたすばらしい女性と出会い、その後は奥さんが国連で働き、彼は主夫業に専念し子供の教育に専念して表舞台から退きましたが、それでも家族でジュネーブに住み、国際派の日本人として華麗な雰囲気があり、何事も時代の先端を行くような人物でした。司祭職にはこのような華麗さはいらないので、やはりそれは無理で無駄な祈りだったような気もします。トニ・グリン神父さんは、その華麗さと司祭職を兼ね備えた人物でした。その一端は、国際的にも、テリアビブで事件を起こした赤軍派のテロリスト岡本公三との面会に成功したこともあるほどの外交官のような行動家でした。

 わたしは、もう、還暦を迎える60歳で、回顧録ではないですが、このマリスト会の墓所にきて、墓石に刻まれる神父さんたちの名前を見ていると、それぞれの神父さんの思い出がありありと浮かび上がってきて、感慨深いものがあります。亡くなった年齢を見ると、私よりも若く亡くなった神父さんもあり、ずいぶんと年上に見えた神父さま方が、ほぼわたしと同年代に亡くなったと知ると、何か驚くものがあります。まだ若かったのだ!まだまだやり残したことがあったのだろうと思うと同時に、わたしも何も残さないうちに世を去る時期が来るということが現実のものとして感じられるのでした。

 いい時間だった。そして追悼のミサをして感謝をささげて、御所を去りました。わたしができることはこのような地味なことです。どうか一日も早く、天においても地においても神がすべてにおいてすべてとなるように、とりなしてくださるように祈ります。・・・神父さま方 ありがとうございました。

 
 御所墓所1 御所2

 メガネの紛失

 10月の初めにメガネを紛失して、どこへ置き忘れたのか全く見当がつかないままひと月が経ちました。いままでだととにかく見つけることができたのに今回はどこからも現れてこないままで、コンピュータを見たり、ブログを書いたり、本を読んだりする老眼だったので、本も、コンピュータも少し遠のきました。無意識にも目が疲れたくないように思うのでしょう。頻繁にブログを見たり書いたりしなくなりました。・・・

 このところご難続きで、9月に風邪をひき、10月にメガネの紛失です。そして11月はプロジェクターが壊れ、マウスが二個壊れてと・・・そしていろいろな人の名前を忘れ、記憶を失うような恐怖を何度か体験しています。これも今月で還暦になるお迎えが来たのかもしれません。それでも一つずつ目標は到達しています。簡単なのは、60歳までに1500メートルを泳ぐ挑戦です。4年前に池田市に来て、3年前から市民プールに週1回から2回、うまくいけば3回をめどに泳いできました。始めは600メートルで息が切れましたが、今年は、35分で1200メートルをクロールと平泳ぎとバタフライで泳ぐようになりました。9月の風邪をひいた直後は、800メートルまで落ちましたが、11月になり、遂に45分で1500メートルを泳ぐようになりました。3分100メートルのペースだと、全く疲れないで翌日は快適です。当初の予定では35分で1500メートルを狙ったのですが、どう力んでも無理で、結局時間を増やすことで1500メートルを達成しました。これは60歳の記念すべき金字塔です。次は70歳までに3000メートルを泳ぐことです。しかし、1500メートルを連日泳いだ時は、初めて胸の痛みを感じました。体にあわせて泳がないとですね・・・
もうすぐ誕生日、良くても悪くても生かされてきました。主に賛美!

 訃報

フランチェスカ 浦賀 久子さん 帰天

 11月3日午前0時51分 巽病院にて死去
 11月3日夜 7時    カトリック日生中央教会にて 通夜
 11月4日朝 11時   葬儀 (司式 畠神父 共同 ウォード神父)

 かねてより人工透析をうけておられた浦賀久子さんは、眠るように息を引き取られた。洗礼は、2001年4月14日 ウォード神父から復活徹夜祭に洗礼を授かった。洗礼のきっかけは、故中村公子さんとべりタス病院で同室となったことから。最近聞き及んだ「先死」というあるお坊さん医師の言葉があるが、それは「先生」のように先に生まれることと同じで、ひとり一人は個人の死を通して何らかの教えを残していくという。2000年8月5日に亡くなった中村公子さんは、癌との壮絶な戦いの中で幼い子供たちに自分の意思を伝達したくて手書きの童話を書いた。その姿に浦賀さんは、同じ癌の病の中で、決して人生において負けることのない力強い公子さんに感銘を受けた。キリスト者は、キリストが死んで生かす霊となられたように、私たちも死を通してキリストのあがないに与り残された者にキリストの命を与える者となることができるのです。

uragatuya012010.11.03.
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