第19回百日間連帯共同祈願
5月19日(聖霊降臨の主日)から8月26日までの100日間を共に連帯して祈るように呼びかけました。長い文章になりましたがご賛同くだされば、ご一緒に100日間祈りませんか。どんな祈りでも結構です。同じ祈りをしたいと望まれる方には、「聖霊による刷新」の祈り会の人たちと共にするとりなしの祈りをお祈りください。「はがき文」にしてあります。私宛にお送りくだされば、毎日のミサの奉納にあなたから拝受した祈りカード(はがき)をおささげします。
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第19回 百日間連帯共同祈願への招き
新しい聖霊降臨の恵みを願って
兄弟姉妹のみなさま
聖霊降臨祭 おめでとうございます。
ノベナ(9日間)の特別な執り成しの祈りのこの時、みなさまにごあいさつ申し上げます。5月12日昇天祭に<母の日>を迎え、すべての命の母の尊い使命を思い、特別にいつくしみ深い主に祈りを捧げてこのメッセージを送ります。
第18回百日共同祈願は、4月28日に終わりました。635名の参加者がありました。この百日の期間には、名誉教皇ベネディクト16世からフランシスコ教皇への教皇職交代の歴史的な出来事が起こりました。退位表明から世界中の教会に祈りの輪が広がり、世界中のメディアが注目し、さまざまな憶測が飛び交う中、新教皇が誕生しました。そして、わたしたちは、新教皇様がフランシスコの名を選ばれたと聞き、喜び踊りました。これこそわたしたちの祈りに応えられる聖霊のみ業なのだと信じられるからです。
聖霊による教会の刷新と聖フランシスコのビジョンには霊的な類似性が豊かにあります。シリル・ジョン氏はカリスインディアの2006年1月号の記事の中で、アシジの聖フランシスコの特別な使命とカリスマ刷新の召命と使命についてのご自身の洞察を次のように書いておられました。
「インドの第13回CCR全国大会のために全国奉仕チームが祈っていたときに、主は私たちに『キリストの体を建てよ』というテーマを与えてくださいました。問題は、私たちが教会に深く根ざしていないならば、キリストの体を建てることができるかということです。フランシスコがサン・ダミアノの十字架上のイエスから聞いたことは、『キリストの教会を放棄する』とか『他の教会を設立する』ではなくて、『わたしの教会を修復する』ことでした。そしてフランシスコはそれを唯一の仕方で成し遂げました。その仕方は一回に一つの石を、自分自身の生涯や彼の個人的なあかしによって変えられた者たちの生涯をもって、積み上げるということです。彼は深く教会のうちに根ざしていたので、その教会を修復できたのです。さて、私たちはどうでしょうか。
刷新にかかわる私たちは、『主の教会を修復し』し、『ラテランの崩れかけた壁をくい止める』ために呼ばれています。私たちの腕は、教会の裂け目を修復するためにあります。私たちの肩は、教会の傾きをくい止めるためにあります。聖霊の満たしは、『ペンテコステの恵み』の具体的な体験であり、それによって聖霊の働きが個人や信仰共同体の生活における経験された現実となります。『霊の注ぎ』は、教会を生ける体として再発見することを伴います。それは私たちに、キリストの体のある部分が病み、弱まり、不能になっていることを実感させます。しかし、そのことは私たちをつまずかせるのではなく、愛と憐みを私たちに満たしてくれるのです。教会への新たな愛と感覚は、それを経験した多くの者を、もっともっと教会に奉仕したいという刷新された要求へと導きます。多くの者にとって、『わが母である教会の核心においてこそ私は愛となります』というリジューの聖テレーズの言葉が新しい意味を帯びてきました。
聖霊の満たしの明らかな実りの一つは、キリストの生ける体としての教会の再発見です。教会への新たな愛と感覚は、満たしを経験した多くの者を、キリストの体との交わりのうちにいたいという刷新された要求へと導きます。キリストの弟子たちを、ご自分の名において、ご自分の権威において、この世における御業を教会として続行するために派遣されましたが、私たちが今日でもイエスについて語ることができるのは、教会をとおしてのみ可能なのです。」
「新しい福音宣教」が、信仰年の主要なテーマであることが明らかになってきました。その初穂のような教皇フランシスコの姿は、硬直化した教皇庁や教会位階制に聖霊の息吹を吹き込み、貧しい人の側に立つ姿を示されました。これは、福音の原点に戻り、御父の愛をあかししたイエスの姿にならい、私たちも同じようにイエスの愛を生涯あかしするならば、教会を修復することになるという教皇様の模範だと思います。シリル・ジョン氏の情報によれば、教皇様はブエノスアイレスの大司教として「聖霊による刷新」やエキメニカル運動にも積極的にかかわり、ICCRS(国際聖霊刷新奉仕団)のメンバーとも親密な交流があるということです。2005年以降私たちが尼崎の大会に招いたラニエロ・カンタラメサ神父様(教皇庁説教師、歴代の教皇の聴罪司祭)、故ルフス神父様、ホワイト・ヘッド夫妻を、教皇様も同じ時期アルゼンチンに招き、聖霊による刷新の大会を行い、熱心に聖霊の満たしを願われたことを知りました。教皇になって最初に参列者からの祝福の祈りを願われたことが話題になりましたが、教皇様にとってはごく当たり前のことだったのです。教皇様は、まさに聖霊の満たしを受けて刷新された人なのです。その観点から見ると、教皇様の言動もなるほどと親近感がわいてきます。
さて、私たちは、主が弟子たちに約束されたように、みなしごではなく(ヨハネ14:18~19)、聖霊の豊かな導き、多くの優れた模範に恵まれています。そして、何よりも父の右の座にあって主イエスがわたしたちのために執り成してくださっているので、私たちは聖霊に満たされれば満たされるほど、一つのキリストの体として、キリストの体の傷を意識するようになります。シリルさんの記事の下線部分に注目しましょう。これは、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイ1・24)」という聖パウロの言葉が、真実味を帯びて私たちの身近に迫ってくるように思います。同時に、私たちの生温い信仰生活を悔い改めさせ、霊的な重荷をもって祈る生き生きとした信仰感覚が生まれます。「わたしの小さな子らよ、キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(ガラテヤ4・9)」これは、苦しむ人々との連帯を意識すると同時に神の心にかかっている重荷と一致しなければならないことをシリルさんに教えられました。(「執り成しの教本」シリル・ジョン著「預言的な執り成し」p54~55)「執り成しの成功は、私たちが執り成すものが神によって指定されたものであるか、それとも、私たち自身の選択によるものであるかという、執り成しの源泉にかかっているのです。」(同書、p55)
今日(5月13日)は、ファチマの聖母の記念日ですが、ポルトガルのファチマにご出現されたマリア様は、罪びとの回心のために祈るように3人の牧童に告げられました。ルルドにおいても、ガダルペにおいても、秋田の聖母においても、罪びとの回心を祈ることを願っておられます。そして聖ファスティナ(いつくしみの主日)や聖ジェンマ(5月16日記念日)に出現されたイエスさまも罪びとの回心を祈ることを願っておられます。福音書において、復活されたイエスさまが聖トマスに告げられたことが記されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20:27)」。これは、イエスさまの心にかかっているもっとも大きな重荷でした。自分の愛する弟子たちが離反することです。だから、聖トマのためにイエスは現れてご自身の傷を示されたのです。これは一匹の迷子の羊ために示される主のあわれみの心です。どれほど主は一人一人を大切にし、配慮されるのかがわかります。
そのためか、聖霊に満たされた私たちは、もはや私たちと共に主の食卓に与らない友のために祈るようにと促されます。「わたしの信じていた親しい友、パンを分け合った友が、わたしを裏切った」(詩編41:10「教会の祈り」第一金晩課)のですが、この苦しみの中で、ご自分を罪の贖いとしていけにえの子羊となってくださった主の愛を無視することが、どれほど主イエスを悲しませていることか、主にとって過酷な心の負担であることか?たとえば、どの教会でも、信者総数の5分の一しか日曜日に来なくなっているとある司教様がある場で発言されたことがありましたが、それをどう受け止めていいのか。私自身は司牧者として、信仰共同体への非難よりも落胆と自虐的に自分の無能さを感じて、反省の材料になっています。それは、私の信仰の傷のようにうずくのです。信じない者となった信者の群れがキリストの体の傷として痛まないわけはないのです。そのために、「新しい福音宣教」は、教会の中で洗礼の恵みをうけてもキリストと共に歩み成長する信仰生活の意味を見失った人々への取り組みであり、1967年に始まるカトリック・カリスマ刷新(「聖霊による刷新」)の働きは、聖霊のイニシアチブの下に始まる「新しい福音宣教」、つまり「新しい聖霊降臨」として「聖霊の洗礼」が信仰を復活させる大きな恵みとなることを証言してきました。
だから、その希望のうちに友のために悔い改め、また主のためにまた私たち自身のために教会の一致と和解を執り成す祈りを始めましょう。
「第19回百日連帯共同祈願」と今回は「連帯」という言葉を入れました。キリストの苦しみに結ばれ、キリストの苦しみの欠けたところを「連帯」して自分の事として祈ることを決意すると同時に世界中の、そして同時に日本中の「執り成し人」のネットワークとも「連帯」して祈ることを考えました。十字架の縦木と横木です。主と結ばれ、隣人と結ばれ同じ主のからだとして十字架の木になるということです。こうして、私たちはキリストの生けるいけにえとして毎日のミサでささげられるのです。(ローマ12:1~2)今回は、聖霊降臨祭(5月19日)から8月26日までの百日間を祈ります。
★はがき文の祈りカード(ここをクリック)を送ってくだされば、毎日ミサに祈りのはがきのカードを納めた籠を奉納の時に奉げます。
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第19回 百日間連帯共同祈願への招き
新しい聖霊降臨の恵みを願って
兄弟姉妹のみなさま
聖霊降臨祭 おめでとうございます。
ノベナ(9日間)の特別な執り成しの祈りのこの時、みなさまにごあいさつ申し上げます。5月12日昇天祭に<母の日>を迎え、すべての命の母の尊い使命を思い、特別にいつくしみ深い主に祈りを捧げてこのメッセージを送ります。
第18回百日共同祈願は、4月28日に終わりました。635名の参加者がありました。この百日の期間には、名誉教皇ベネディクト16世からフランシスコ教皇への教皇職交代の歴史的な出来事が起こりました。退位表明から世界中の教会に祈りの輪が広がり、世界中のメディアが注目し、さまざまな憶測が飛び交う中、新教皇が誕生しました。そして、わたしたちは、新教皇様がフランシスコの名を選ばれたと聞き、喜び踊りました。これこそわたしたちの祈りに応えられる聖霊のみ業なのだと信じられるからです。
聖霊による教会の刷新と聖フランシスコのビジョンには霊的な類似性が豊かにあります。シリル・ジョン氏はカリスインディアの2006年1月号の記事の中で、アシジの聖フランシスコの特別な使命とカリスマ刷新の召命と使命についてのご自身の洞察を次のように書いておられました。
「インドの第13回CCR全国大会のために全国奉仕チームが祈っていたときに、主は私たちに『キリストの体を建てよ』というテーマを与えてくださいました。問題は、私たちが教会に深く根ざしていないならば、キリストの体を建てることができるかということです。フランシスコがサン・ダミアノの十字架上のイエスから聞いたことは、『キリストの教会を放棄する』とか『他の教会を設立する』ではなくて、『わたしの教会を修復する』ことでした。そしてフランシスコはそれを唯一の仕方で成し遂げました。その仕方は一回に一つの石を、自分自身の生涯や彼の個人的なあかしによって変えられた者たちの生涯をもって、積み上げるということです。彼は深く教会のうちに根ざしていたので、その教会を修復できたのです。さて、私たちはどうでしょうか。
刷新にかかわる私たちは、『主の教会を修復し』し、『ラテランの崩れかけた壁をくい止める』ために呼ばれています。私たちの腕は、教会の裂け目を修復するためにあります。私たちの肩は、教会の傾きをくい止めるためにあります。聖霊の満たしは、『ペンテコステの恵み』の具体的な体験であり、それによって聖霊の働きが個人や信仰共同体の生活における経験された現実となります。『霊の注ぎ』は、教会を生ける体として再発見することを伴います。それは私たちに、キリストの体のある部分が病み、弱まり、不能になっていることを実感させます。しかし、そのことは私たちをつまずかせるのではなく、愛と憐みを私たちに満たしてくれるのです。教会への新たな愛と感覚は、それを経験した多くの者を、もっともっと教会に奉仕したいという刷新された要求へと導きます。多くの者にとって、『わが母である教会の核心においてこそ私は愛となります』というリジューの聖テレーズの言葉が新しい意味を帯びてきました。
聖霊の満たしの明らかな実りの一つは、キリストの生ける体としての教会の再発見です。教会への新たな愛と感覚は、満たしを経験した多くの者を、キリストの体との交わりのうちにいたいという刷新された要求へと導きます。キリストの弟子たちを、ご自分の名において、ご自分の権威において、この世における御業を教会として続行するために派遣されましたが、私たちが今日でもイエスについて語ることができるのは、教会をとおしてのみ可能なのです。」
「新しい福音宣教」が、信仰年の主要なテーマであることが明らかになってきました。その初穂のような教皇フランシスコの姿は、硬直化した教皇庁や教会位階制に聖霊の息吹を吹き込み、貧しい人の側に立つ姿を示されました。これは、福音の原点に戻り、御父の愛をあかししたイエスの姿にならい、私たちも同じようにイエスの愛を生涯あかしするならば、教会を修復することになるという教皇様の模範だと思います。シリル・ジョン氏の情報によれば、教皇様はブエノスアイレスの大司教として「聖霊による刷新」やエキメニカル運動にも積極的にかかわり、ICCRS(国際聖霊刷新奉仕団)のメンバーとも親密な交流があるということです。2005年以降私たちが尼崎の大会に招いたラニエロ・カンタラメサ神父様(教皇庁説教師、歴代の教皇の聴罪司祭)、故ルフス神父様、ホワイト・ヘッド夫妻を、教皇様も同じ時期アルゼンチンに招き、聖霊による刷新の大会を行い、熱心に聖霊の満たしを願われたことを知りました。教皇になって最初に参列者からの祝福の祈りを願われたことが話題になりましたが、教皇様にとってはごく当たり前のことだったのです。教皇様は、まさに聖霊の満たしを受けて刷新された人なのです。その観点から見ると、教皇様の言動もなるほどと親近感がわいてきます。
さて、私たちは、主が弟子たちに約束されたように、みなしごではなく(ヨハネ14:18~19)、聖霊の豊かな導き、多くの優れた模範に恵まれています。そして、何よりも父の右の座にあって主イエスがわたしたちのために執り成してくださっているので、私たちは聖霊に満たされれば満たされるほど、一つのキリストの体として、キリストの体の傷を意識するようになります。シリルさんの記事の下線部分に注目しましょう。これは、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイ1・24)」という聖パウロの言葉が、真実味を帯びて私たちの身近に迫ってくるように思います。同時に、私たちの生温い信仰生活を悔い改めさせ、霊的な重荷をもって祈る生き生きとした信仰感覚が生まれます。「わたしの小さな子らよ、キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(ガラテヤ4・9)」これは、苦しむ人々との連帯を意識すると同時に神の心にかかっている重荷と一致しなければならないことをシリルさんに教えられました。(「執り成しの教本」シリル・ジョン著「預言的な執り成し」p54~55)「執り成しの成功は、私たちが執り成すものが神によって指定されたものであるか、それとも、私たち自身の選択によるものであるかという、執り成しの源泉にかかっているのです。」(同書、p55)
今日(5月13日)は、ファチマの聖母の記念日ですが、ポルトガルのファチマにご出現されたマリア様は、罪びとの回心のために祈るように3人の牧童に告げられました。ルルドにおいても、ガダルペにおいても、秋田の聖母においても、罪びとの回心を祈ることを願っておられます。そして聖ファスティナ(いつくしみの主日)や聖ジェンマ(5月16日記念日)に出現されたイエスさまも罪びとの回心を祈ることを願っておられます。福音書において、復活されたイエスさまが聖トマスに告げられたことが記されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20:27)」。これは、イエスさまの心にかかっているもっとも大きな重荷でした。自分の愛する弟子たちが離反することです。だから、聖トマのためにイエスは現れてご自身の傷を示されたのです。これは一匹の迷子の羊ために示される主のあわれみの心です。どれほど主は一人一人を大切にし、配慮されるのかがわかります。
そのためか、聖霊に満たされた私たちは、もはや私たちと共に主の食卓に与らない友のために祈るようにと促されます。「わたしの信じていた親しい友、パンを分け合った友が、わたしを裏切った」(詩編41:10「教会の祈り」第一金晩課)のですが、この苦しみの中で、ご自分を罪の贖いとしていけにえの子羊となってくださった主の愛を無視することが、どれほど主イエスを悲しませていることか、主にとって過酷な心の負担であることか?たとえば、どの教会でも、信者総数の5分の一しか日曜日に来なくなっているとある司教様がある場で発言されたことがありましたが、それをどう受け止めていいのか。私自身は司牧者として、信仰共同体への非難よりも落胆と自虐的に自分の無能さを感じて、反省の材料になっています。それは、私の信仰の傷のようにうずくのです。信じない者となった信者の群れがキリストの体の傷として痛まないわけはないのです。そのために、「新しい福音宣教」は、教会の中で洗礼の恵みをうけてもキリストと共に歩み成長する信仰生活の意味を見失った人々への取り組みであり、1967年に始まるカトリック・カリスマ刷新(「聖霊による刷新」)の働きは、聖霊のイニシアチブの下に始まる「新しい福音宣教」、つまり「新しい聖霊降臨」として「聖霊の洗礼」が信仰を復活させる大きな恵みとなることを証言してきました。
だから、その希望のうちに友のために悔い改め、また主のためにまた私たち自身のために教会の一致と和解を執り成す祈りを始めましょう。
「第19回百日連帯共同祈願」と今回は「連帯」という言葉を入れました。キリストの苦しみに結ばれ、キリストの苦しみの欠けたところを「連帯」して自分の事として祈ることを決意すると同時に世界中の、そして同時に日本中の「執り成し人」のネットワークとも「連帯」して祈ることを考えました。十字架の縦木と横木です。主と結ばれ、隣人と結ばれ同じ主のからだとして十字架の木になるということです。こうして、私たちはキリストの生けるいけにえとして毎日のミサでささげられるのです。(ローマ12:1~2)今回は、聖霊降臨祭(5月19日)から8月26日までの百日間を祈ります。
★はがき文の祈りカード(ここをクリック)を送ってくだされば、毎日ミサに祈りのはがきのカードを納めた籠を奉納の時に奉げます。